14
特別棟四階、視聴覚室のドアの前に、ソラはうずくまっていた。
両腕で両の膝を抱え込むようにして、頭は腕の中にうずもれている。ドアに背中を預け、肩は細かく震えている。彼女の前に立った僕は、乱れた呼吸をなんとか落ち着け、静かに声をかけた。
「ソラ」
反応はなかった。
屋外の地面をたたきつけるかすかな雨音だけが、建物内にむなしく反響している。それ以外はなにも聞こえない。分厚い雲がすっかり太陽を覆い隠しているせいで、校舎内には薄い闇が滲んでいる。まるで僕らの学校が、仄暗い海の底にでも沈んでしまったかのように思えた。
僕は彼女に歩み寄ろうとする。
「来ないで」
深い海の底から響いてくるようなソラの声。
「……どうしたんだよ」
僕の問いかけに、しかし彼女は返事をしない。彼女はただ、膝を抱えて暗い海に沈んでいる。その顔は上げられることはなく、下に向けられている。海の底を覗き込んでいるみたいだ。僕はなす術もなく彼女を見つめた。どうしちゃったんだよ。急に教室を飛び出して。君らしくないじゃないか。普段は冗談かも本気かもわからないようなことを真顔で言って、僕の全力の突っ込みにもぴくりとも頬を緩めないような君が。どうしてそんな、大切ななにかを喪ってしまったような声を出して、深い海の底を眺めているんだ。君はその海でなにを喪って、その底からなにを探そうとしているんだ。
「戻ろうよ。みんな心配してるよ」
「詠人ひとりで行って」
「……どうしたっていうんだよ」撥ねつけるような彼女の声に、僕は思わずとげのある口調で返してしまう。「あのCDになにかあったの」
彼女が飛び出して行ったのは、副担任がCDを割り、踏みつけた直後のことだった。なにか原因があるとしたら、あのCDのことしか考えられない。
「私の大切なものだった」
「……え? あれは僕のCDだよ」
「ちがう」
彼女の声には拒否、拒絶の色が濃く滲んでいる。
「ちがう、ちがうの」彼女はそう繰り返す。「そうじゃないの」
「どういうことだよ」
「あのCDは、私のお父さんと、お母さんのもの」
ソラの、両親のもの?
どういうことなんだ。僕には彼女の言っている意味がまったくわからなかった。あのCDは、確かに僕が昨日置き忘れて行ったもののはずだ。それがどうして、ソラの両親のものだって? おかしいじゃないか。だいいち、どうして保護者の所持物が、学校の教室に置いてあったりするんだ。
「そうじゃないの」
海の底から響く彼女の声が、ほんのわずかに校舎内の空気を震わせて、僕の耳に届いてくる。
彼女はもはや、僕に語り聞かせるために言葉を紡いでいるのではないみたいだ。溢れ出てくる哀しみとか、空しさとか、傷口から流れ出てくる赤い血みたいなどうしようもない感情をやる瀬がなくて、かわりに言葉にして吐き出していくしかないから、そうしているみたいに思える。
「あれは、私の両親の音楽」
海の底で誰かに救いを求めることもなく、あたりの海水を自らの血で濁さないように、小さな気泡みたいな声を吐き出している。
「私のお父さんが創った音楽。私のお母さんが歌った音楽……私の両親が、奏でてきた音楽」
私の大切なもの、静かにソラはそう言った。
ソラの、両親の音楽。
僕はそのとき、昨日彼女が語っていた言葉を思い出した。
――音楽が私から両親を奪ったの。
僕はやっとわかったような気がした。ソラという女の子に関して、僕が今までずっと知らなかったこと、そして僕がいちばん知らなければいけなかったこと。それをこの瞬間に知り得たような気がした。
ソラの両親は有名な人たちだ、と怜未が言っていた。そしてソラは割られたあのCDを大切なものだと言った。正確にはあのCDに入っている音楽だ。彼女の父親が創り、彼女の母親が歌い、両親が奏でてきた音楽。それがあのCDの中に詰まっている。
だから彼女は教室を飛び出した。
目の前で音楽を壊されたから。
大切なものを踏みにじられたから。
あのバンドは、僕が今までずっと聴いてきて、ずっと弾いてきたあの曲は、ソラの両親の音楽だったんだ。「MES CHERIS」は、ソラの両親のバンドだったんだ。僕は思い至ってしまう。「MES CHERIS」は世界に与えたその影響があまりにも大きすぎたせいで、世界から突き放されてしまった。治安の悪化や暴動の激化、果ては国家の転覆をもおそれた世界中の国々によって、彼らの音楽は禁止され、あげく音楽そのものも「悪」として捉えられるようになってしまったという。彼らは確かに世界を変えた、しかしあまりに変えすぎてしまった。世界から拒絶された彼ら「MES CHERIS」のメンバーはその身を追われ、この世界でまっとうに暮らして行けなくなったそうだ。そして今も行方不明だという。
それはつまり、ソラの両親が行方不明だということだ。
「私……見捨てられたの」
ソラの声は海の中で聞く雨の音のように細く儚い。「お父さんと、お母さんに」
「……どういうこと?」
「もう五年以上もたつの。なのに、どこにいるのか全然わかんない。連絡もくれないし、連絡先もわかんない。こっちは会って話したいこといっぱいあるのに、訊きたいこといっぱいあるのに……むこうはそう思ってないみたい」
「そんなことないよ」
そう言って僕は、震えるソラの肩に触れようとする。しかし、伸ばした僕の手は、ソラの手に振り払われてしまう。その弾みで、彼女の制服からなにかが落ちた。よく見ると、それは生徒手帳だった。ページに挟んであった一葉の写真が、手帳からはみ出ているのが見える。それを見て、僕の心臓はきゅっと締め付けられる。
家族の写真だ。
あどけなさを残した、幸福そうに笑う幼少のころのソラ。
彼女の両側に立つ男性と女性。
写真に写っているのは三人だけ。ということは、ソラはひとりっ子なのだろう。そして、両脇の男性と女性には見覚えがある。「MES CHERIS」のCDジャケット写真に映っている人物だ。
「――でも」
心臓を押し潰されそうになりながら、僕は必死に言葉を絞り出す。
「どうして、音楽を、嫌いだなんて」
「嫌いになるしかなかった」
海の底から響く彼女の声は、海面を波立たせることもあたわぬほどか細く弱々しい。それでも、彼女の言葉で僕の心情はぞわぞわと激しく波立った。
「嫌いに……なるしか、なかった?」
僕の声は低くかすれて、まるで自分の声じゃないみたいだった。ソラはうつむいたまま、ゆっくりとさらに首を沈めた。首肯したようだ。
「本当は大切だけど、そうするしかなかったの。お父さんとお母さんも、私にとって大切だったから。大切なもののせいで、もうひとつの大切がなくなっちゃって。そのなくなっちゃった大切を忘れないために、大切なままにするためには……音楽を、嫌いになるしかなかった」
両親を自分の中でいちばんの「大切」にしておくために、それを奪った音楽を嫌いになるしかなかった、って言いたいのか? なんだそれ。僕は茫然とする。なんなんだそれ。意味わかんねえよ。仕方なく音楽を嫌いになって、それを聴く人もやる人も嫌いだって斬り捨てて撥ねつけて、そのくせ完全に諦めることができずに僕のギターを聴きに来たり自分で弾いたりして……あげく、目の前で穢されたら、そんなふうに泣くのか? なんなんだよそれ。どんだけ不器用なんだよ。宇田越ソラっていう少女は。
「ソラ」
後ろから声がした。振り返ると、怜未がそこに立っていた。ソラもはっと顔を上げる。怜未も教室から抜け出してきたんだろうか。ソラを追いかけてきたんだろうか。
「私は音楽が好き。音楽のせいでどんなに苦しい思いをしても、家族がばらばらにされたとしても、やっぱり音楽が好き。自分の気持ちに嘘はつけないもの」
僕は怜未から目を離せない。今までずっとそばで見てきて、見慣れたどころか見飽きたと思っていた彼女が、まるで見たことのない顔をしていたからだ。
「音楽のせいで家族がばらばらになって、私すごく後悔したの。自分が音楽を好きだったせいでこんなことになっちゃったんだって。これからは、ちゃんといい子にならなくちゃ、って思ったの。勉強を頑張っていい成績を取ろうとしてるのもそのため。生徒会執行部に入ったのもそのため。いい子になって、これまでの贖罪をしようと思ってたの」
贖罪。
彼女はそれを罪だと思っていたんだ。音楽をやることを。音楽を好きだということを。
「でもね。やっぱり、羨ましかった。自分の意志で音楽を続けている人たちが。いいことなのか悪いことなのかわかんないけど、私のまわりにはそういう人がけっこういたから」
下北沢の裏通りで楽器屋を開いている、彼女の姉。そして。
彼女は僕に視線を向ける。そうか、そして僕、か。
「私も音楽をやりたい。誰かの心を震わせるような音楽を忘れないでいたいと思ってる。本当は詠人みたいに、音楽でもう一度世界を変えられるって本気で信じてる。そしてその思いは、ソラ、あなたがここで歌を聴かせてくれたときに、はっきりと強くなったわ」
僕はあのとき、この部屋がいろんな感情とソラの歌声でいっぱいになったことを思い返す。
「ソラ」
怜未はふたたび目の前の少女の名前を呼ぶ。その目はしっかりとソラを見据えている。
「私は音楽が好き。あなたはどう?」
今度は怜未がソラに問いを向ける。「あなたは音楽が好き?」
雨粒が校舎の窓に弾ける音が響いている。永遠にも感じられる長い静寂のあと、ソラが静かに言葉を紡ぐ。
「嫌い。に、なるしか、なかった」彼女のつぶやきが薄暗い校舎の闇に滲んでいく。「でも今はそうじゃない」
「そうじゃない?」
僕はそう問いかける。うん、そうじゃない。長い時間をかけて硬い岩を穿つ雨粒のように、彼女のつぶやきは僕の心にぽたぽたと滴をこぼしていく。
「悔しい」
ソラの声が特別棟四階の空気を震わせる。大切なものをあんなふうに壊されて、悔しいの。どうして世界は音楽を忘れてしまったの。どうして私の大切なものを、大切なままにさせてくれないの――。
そうつぶやく彼女の声を聴いて、僕は自分の心の奥底で生まれたほのかな温度を感じた。彼女が悲痛に声を絞り出すたび、その温度は確かな熱となり、ゆらゆらと閃きはじめる。そのかすかな火はやがて大きな炎となり、僕の心臓をじりじりと焼き尽くしていく。
「僕の世界は音楽で変わった。音楽には世界を変える力があるんだ。世羽さんは『音楽にそんな力はない』と言っていたけど、僕はあると信じてる。それを教えてくれたのは、ほかでもないあのバンド――『MES CHERIS』だ。ソラ、きみの両親の音楽だったんだ。つまりきみの両親の音楽のおかげで、僕は変われたんだよ」
僕の言葉を聞いて、ソラの口がかすかに引き結ばれた。僕の気持ちが彼女に少しでも届いたしるしなのかもしれない。
「だからさ」僕は声を絞り出す。
「もういちど、世界に音楽を思い出させてやろうよ。大切なものを大切なままでいられるように、僕らがまた世界を変えてしまえばいいんだ」
ソラは戸惑いの目を向けてくる。「……どうすればいいの?」
「バンドをやるんだよ」僕は彼女に向けて片手を差し伸べる。怜未にもう一方の手を差し出すと、彼女は頷いて僕の手を取り、もう片方の手を僕と同じようにソラに差し出した。
「思い出させてやろうよ。僕たちの手で、僕たちの音楽で」
ちょうど雲の間から差した陽光に照らされ、ソラの目に溜まった光が輝きを増した。でも、彼女の目に涙の予感はなかった。ソラは泣かない。ただ音楽に乗せて哀しみを吐き出して行くだけだ。
どうして彼女は、そんなに強くいられるのだろう。僕にはわからない。やっぱり僕は、ソラのことをよく理解できていないのかもしれない。
ただはっきりとしているのは、彼女が僕と怜未の手を、彼女のか弱い手で、それでも力強く握り返してくれたこと、それだけだ。
僕にはそれだけで充分だった。
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