05
翌朝、僕は教室であの少女の姿を探した。
入学して一ヶ月も経つと、クラス内である程度グループ分けができてくる。特に女子はその傾向が顕著で、HR前の教室では三、四人組の女子グループが雑談を交わしている。その中に怜未も混じって談笑をしている。今朝僕は家を早めに出てきたため、まだ怜未とは言葉を交わしていない。
教室にいる女子の顔をひとりひとり眺めてみる。中学から見知った顔もいれば、今この瞬間に始めてちゃんと見たかもしれないという顔もあった。女子同士での会話に楽しそうに笑いあう顔もあれば、今から始まる退屈な一日に思いを馳せて憂鬱な影をおとす顔もある。僕はその中から少女を懸命に探した。昨日見た少女の顔と違うと分かれば次の顔を眺め、後ろ姿しか見えなければ振り返るまで待つ。
そして、見つけた。
僕のみっつ後ろの席で、昨日の少女がうつむきながら座っている。
僕は思わず立ち上がった。はやる気持ちを抑えきれずに早足で近づいていく。彼女の席のそばに立ち、「あの」と声を掛ける。
少女は跳ねるように顔を上げた。その顔には驚きが満ちている。僕は後悔した。まただ。また昨日と同じだ。次の言葉が出てこない。少女を見つけたことで感情が先走り、それに思考が追いついていけない。
僕は少女の目を見つめた。冬の夜空みたいな澄みきった黒に、星が溜まってゆらゆらと光を湛えている。少女は目を見開いて僕を見つめている。僕はその目に吸い込まれそうな錯覚がした。焦ってふたたび「あ、あの」と声を出すと、少女はがたりと大きな音を立てて立ち上がり、また僕の横を通り抜けて走り去って教室を出て行ってしまった。
その後を追いかけようとすると、その進路を絶つように、ふたりの男が僕の目の前に現れた。
「うわあ、詠人がナンパしてる!」
「なになに、ああいうのが好みなの?」
鳥の巣頭の
「な、なんだよ、違うよ」
「あの子と知り合いなのか?」
「いや、話したことないけど」
「じゃああの子になんの用事があるんだ」
なんの用事だと訊かれても、それに答えることはできない。彼女が視聴覚室で音楽を聴いていたから、その理由を訊きたい、だなんて。
「別になんでも……ちょっと話をしたかっただけだよ」
「話ってなんの話だ」
「と、とてもプライベートでデリケートな話ですけど」
「ふたりきりで、か」
「……できれば」
「つまりお前は、話したこともない女子とふたりきりで、とてもプライベートでデリケートなお話をしたいがために、突然声を掛けたというのだな?」
「うん」
「それをナンパっていうんだよ!」本当だ! 僕ナンパしちゃってる! そう考えるととてつもなく恥ずかしくなり、僕はその場に頭を抱えてうずくまった。鳥巣と黒渕が「ナンパ踊り」なる奇妙な踊りを踊りながらまわりをぐるぐる回っている。クラスの男子どもが周囲から囃し立てるのが聞こえる。途中で額になにかをくっつけられた感触がしたので、うっすら目を開けて見てみると、「難波大明神」と書かれた紙が貼られていた。うわ、僕、ナンパの神として祀られちゃってる……? お母さんごめんなさい、僕もうお嫁に行けない。でもこれ、ナンパじゃなくて、なんばだよ……?
眼前に繰り広げられるおぞましい光景に戦え慄き、恐怖のあまり両手で目をおおっていると、額に貼られた紙が乱雑に引き剥がされた。
「いてっ!?」
ひりひり痛む額をさすりながら様子をうかがうと、目の前で怜未が仁王立ちしていた。ぞんざいに貼り付けたうえにぞんざいにに引き剥がしたものだから、彼女が持っている紙のセロファンテープに、僕の髪が何本か道連れにされている。
「あんたたちなに馬鹿なことやってんの」
怜未はそう冷たく言い放つと、大明神と書かれたルーズリーフをびりびり音を立てて縦に引き裂いた。
それに鳥巣と黒渕が応ずる。
「控えおろう! ナンパ大明神様の御前でござるぞ!」
「控えおろう! 倉城、きさま、殿中での狼藉は我々が許さん!」
「控えおろう!」「殿中でござる!」
「控えおろう!」「殿中でござる!」
周囲のクラスメイトたちがコールアンドレスポンスを始める。怜未はしかしそれには怯まず、あたりを睨み回して口を開く。
「あんたら……ほんとに詠人にナンパなんてする度胸があると思ってんの?」
「ないな」
「ないない」
「認めんの早ぇな!」手首のスナップを利かせたみごとな手のひら返しだ。
はあいみんな撤収撤収、と鳥巣や黒渕たちクラスメイトどもは散り散りに僕から離れていく。「やっぱ倉城さんはすげえなあ」「大明神の正体を一発で見抜くなんて」「成績いいし美人だし文句なしだよな」そう口ぐちに言いながら、ナンパ大明神であるはずの僕を差し置いて、みな自席についてHRの準備を始める。そこへ「大明神もおつかれ」と声を掛けられ、思わず「お、おう」と返してしまったが、いやそもそも僕ナンパ大明神じゃないんだけど。
鶴の一声でナンパ大明神祭りを散開させた怜未は、いまだ教室の床にうずくまる僕に呆れ顔を向ける。
「ウタゴエさんになんの用だったの」
「……ウタゴエさん?」
「宇田越ソラ。彼女の名前。詠人、まさか名前も知らないで声掛けてたの?」
ほんとにナンパだったとは……と怜未は深い溜息をついた。
「彼女のこと、知ってるの?」
怜未に訊いてみる。しかし、怜未は軽く困惑したような表情を見せた。
「うぅん、私もちゃんと話したことないからなあ」
そうなのか。意外だ。
明るく物怖じしない性格の怜未は、友人や知り合いが多い。誰にでも分け隔てなく、裏表なく接する彼女の態度は、同性からも異性からも、生徒からも教師からも信頼され、人気があるようだ。まだ一ヶ月しか経っていないにも関わらず、クラス内には彼女のファンだと公言する輩もいるほどだ。僕は幼馴染という立場上、彼女と一緒にいることが多いが、彼女にあいさつをする人や話しかけてくる人は確かに多い。「怜未おはよう」「怜未、今日の放課後ひま? なんかあまいもの食べに行こ?」「倉城さん今日もかわいいね!」「倉城さん目線こちらにお願いします!」「怜未のとなりの冴えない男ってだれ?」「なんで詠人が倉城さんと一緒にいるんだよ」「なんで赤穂がいるの」「なんで赤穂生きてるの」僕なんか悪いことしたかな……。
とにかく彼女は周りに明るく振る舞い、どんなクラスメイトにも等しく接しようとしているので、彼女が話したことがないクラスメイトがいるというのはやや意外だった。僕が素直にそう言うと、彼女は少しはにかみながら「別に……そんなことない、けど」と呟いた。
「両親がなんだか有名な人たちらしいんだけど、それ以上詳しいことはだれも知らなくて」
「両親が有名?」
あくまで噂だけどね、と彼女は付け足す。
「あの子あんまりしゃべらないんだよねえ。美少女なのにね」
僕と怜未は、宇田越さんが出て行った教室後方のドアを眺めた。走って出て行ったまま、彼女が教室に戻ってくる気配はない。
「ていうか、詠人」
怜未がややトゲを含んだ口調で僕を質してくる。
「ああいう子が好みだったの?」
「だからナンパしたんじゃないってば」
「私が『美少女』って言っても否定しなかったし」
頬を膨らませて見据えてくる。
「否定しづらいから無視しただけだよ」
「ひとを無視するなんて失礼ね」
「否定したら宇田越さんに失礼だろ?」
「じゃあ否定しなければいいじゃない」
「……否定しなければ怒らないの?」
「そんなわけないでしょ死刑よ」ですよね。じゃあどうすりゃいいんだよ。
「ナンパじゃなければなんの用事があったの」
怜未は床にしゃがんだままの僕を、異臭を放つ夏場の台所の水アカでも見るような目で見下ろし、吐き捨てるような口調で言う。やはり話題はそこに行くか。僕は思わず口ごもる。
「それは……」
本当のことを怜未に話すことはできない。都合が悪くなってきた話を逸らすため、僕は今まで抱えていた爆弾を彼女に放り投げた。
「……白」
「?」
怜未は怪訝な目で首を傾げる。しゃがんだ僕の視線の先にあるものに気がつくと、「きゃっ……!?」と短く悲鳴をあげ、真っ赤な顔でスカートを押さえた。
「……バカ!」
彼女は顔を真っ赤に染めながら僕の顔面を蹴り飛ばした。彼女の利き足から繰り出されたバックスイングの小さいトゥーキックは、僕の反応速度を圧倒的に凌駕し、大明神貼り紙の痛みがようやく引いたころの僕の額を貫いた。
教室に斃れた僕は、怜未が怒りにまかせて踏み抜く床の地響きを聞きながら、途切れゆく意識を集中させた。
宇田越ソラ。
楽器室で歌をうたっていた少女。
もう少し粘って話しかけてみよう。HRまでには帰ってくるだろうか。
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