06
ところが結局、その日のうちに彼女と話をすることはできなかった。
休み時間を使って話しかけても、彼女はするりと身をかわして逃げてしまう。まるで宙を舞う花びらを指でつまもうとするとするみたいに、まったく手応えがないまま放課後になってしまった。休み時間のたびに話しかけては避けられ、なにひとつ収穫がない一方でクラスメイトには囃し立てられるため、僕のナンパ大明神としての神格がさらに上がっただけだった。もはやナンパではなくストーカーにランクアップしたみたいだ。
HRが終わって、僕は諦めて教室を出て行った。
職員室に鍵を取りに行く。昨日とは違い、視聴覚室の鍵は保管箱の中にしまわれていた。むしろそれがいつも通りなのだが、僕は安堵する一方で少し落胆してしまう。今日はいないのか。視聴覚室へは寄らず、帰ってしまったかもしれない。
鍵を使って視聴覚室を開け、中に入っていった。室内は相変わらず、世界から取り残されたように暗い静寂に沈んでいる。
楽器室に入ってドアに鍵を掛け、、棚の奥に隠してあったハードケースとCDプレイヤーを取り出す。ハードケースを床に置き、金具を開けてふたを持ち上げ、中からギターを取り出す。椅子に座ってギターを構え、CDプレイヤーを操作していると、楽器室のドアがかすかに三回、ノックされた。
僕の心臓はノックの音に合わせて跳び上がった。誰だろう。顧問の音無先生かと思ったが、あの先生はノックなんて作法を知らないだろうし、そもそもこの部屋に用事はないはずだ。しかし、そんなこと言ったらこの部屋に用事がある人間なんていない。
いや、待て。ひとりいる。可能性はゼロではない。
僕は取るものもとりあえずギターをしまい、おそるおそるドアに近づく。そしてノブに手を掛け、そっと開いた。
宇田越ソラ。
そこには彼女が立っていた。
昨日この部屋で歌をうたっていた、あの少女が立っていた。
長い黒髪にかくれた表情はこちらから読み取れない。しかし、なにかをこらえるように全身に力を込めてそこに立っているのがわかる。
「……宇田越さん、だよね?」
彼女はぴくりと体を震わせた。なんで知っているの、というような目で見上げてくる。今日一日、まるでストーカーみたいにつけ回したせいか、宇田越さんの目には怯えの色が浮かんでいる気がする。いや、あるいはそれは、僕の自責の念が見せる錯覚だろうか。
「怜未……あ、ええと、倉城さんに教えてもらったんだ」
クラスメイトの名前をクラスメイトに教えてもらうというのも妙な話だが、本当のことだから仕方ない。宇田越さんが僕の答えに納得したのかどうかは表情から窺い知れないので、僕は平静をよそおって話題を変える。
「ところで、どうかしたの」
「……忘れもの」
彼女は答える。
まるで春風が優しく耳をなでるような声だ。とても心地よく鼓膜を震わせる。
「忘れもの? なにを?」
「かばん」
「かばんか」
女子のかばんには、男からは想像できないほどいろんなものが入っている。ひとたび開けると、四次元空間を覗くみたいにたくさんのものが垣間見える。怜未がいい例だ。彼女はいつも、なにかの修行みたいに重い荷物を抱えて登校している。
放課後のこの時間に取りに来るぐらいだから、それほど重要な物が入っているわけではなさそうだ。
「サイドバッグ的な?」
しかし、彼女の回答は予想の斜め上を行くものだった。
「教科書ぜんぶ入ってる」
「……え? 今日の授業、どうやって受けたの」
「聞いてるふりしながら寝てたわ」とんでもねえな。
「どうして取りに来なかったの」
「……またここに来る勇気がなくて」
「一日中授業を寝てやり過ごすような度胸をもったやつの言う台詞じゃねえよ」
「ちゃんと聞いてるふりはしたわ」
「そもそもちゃんと聞けよ!」
思わず声を荒げると、彼女はやや機嫌を損ねたように眉根を寄せ、頬を膨らませた。僕は「ご、ごめん」とあわてて取り繕う。どうしてほぼ初めて言葉を交わしたような女の子に、こんなに全力で突っ込まなきゃいけないんだ。ていうか全力で突っ込ませる彼女も彼女だ。冗談にしか聞こえないことを真顔で言ってくるから困る。
楽器室の中をあらためて見回すと、たしかに隅にかばんが置いてある。学校指定のシンプルなショルダーバッグ。僕が持ってきているものとは違うので、おそらくあれが彼女の忘れものだろう。
取りに行こうとしたとき、彼女の声が僕を引き留めた。
「あなたは」
「……え?」
「だれ」
小首をかしげながら宇田越さんが訊いてくる。彼女が小声でつぶやくのが聞こえた。「……だいみょうじん?」うわあ、お願いだからやめて。僕ナンパ大明神じゃないから。
「僕は詠人。赤穂詠人」
僕が自己紹介すると、彼女は「えいと」と小声で返し、頭のてっぺんから足のつま先まで僕を眺めた。そしてふたたび僕と視線を合わせる。
「詠人はなにをしてるの」
彼女は僕の目を真正面から覗き込んでくる。僕はその視線に捉えられて動けなくなった。星の溜まった真っ黒な瞳に見惚れて、目を離せなくなった。なにをしているのか、彼女になら言ってもいいだろうか。この部屋でひとり音楽を聴いていた、宇田越さんになら。そんな気がした。
「……ギターの練習」
「………」
彼女の言葉がしばらく途切れた。もともと饒舌な人ではないようなので、僕はその沈黙を会話を続ける合図と取る。
「部活の時間はいつもここで練習してるんだ。防音設備のあるこの部屋じゃないとできなくてさ」
「……なんの曲?」
彼女はそう訊ねてくる。そんなことまで訊いてくれたことが嬉しくなって、僕はもっと話を続ける。
「君が昨日聴いてた曲だよ。僕の世界を変えてくれた、たいせつな曲なんだ」
引っ張り出してきたギターケースの中から「MES CHERIS」のCDを取り出し、おもて面の写真を見せた。
しかし、彼女はちらりとそれを一瞥しただけで、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「……どうして」
「え?」
「音楽なんてやってるの」
「どうして、って……」
僕は言葉を区切り逡巡した。つばを飲み込むと、酸化した鉄みたいな味がした。
「もう一度、音楽で世界を変えたいんだ。世界をこんなふうにしたのが音楽なら、それを元通りにするのも音楽なんだ、と思う」
世界は音楽のせいで変わってしまった。
ポータブルオーディオプレイヤーがなくなって若者の自転車事故が減ったとか、コンポーネントシステムがなくなって学生が勉強に集中するようになったとか、そんなふうに肯定的に捉える人もいる。けれど、どうしてそんな簡単に割り切れるんだ。
確かに、あのバンドの音楽のせいで、世界は変わってしまった。でも、一度都合の悪いことが起きただけでは、本当にそれが悪だなんてわからないじゃないか。
僕はもう一度、世界に思い出させてやりたい。思い知らせてやりたい。
人の心を動かす音楽が、どれほどの力を持っているのかを。
もう気づいてるはずなんだ。みんなわかっているはずなんだ。だって、音楽は一度、世界を変えてしまったんだから。それほどの力を秘めていることに、思い至らないわけがないんだ。ただ、みんな起こったことをまだ受け止めきれてなくて、目の前の可能性から目を背けていたいだけなんだ。
でも。僕は祈るように彼女を見つめる。
宇田越さんなら。この楽器室で歌をうたっていた、まだ音楽を忘れていない彼女なら、この僕の気持ちをわかってくれるかもしれない。僕の声に耳を傾け、僕の音楽を聴いてくれるかもしれない。
僕は椅子に座り、ギターのネックを掴んだ。ギターの胴体を身体の前に構え、ピックを右手に構える。六弦から一本一本弦を弾いていくと、楽器室に響き渡る甘く切ない音色。Aのメジャーセブンスコード。抜けるように響く澄んだ減七和音が、ギターの胴体を伝わって身体の中から心臓を揺さぶる。なにかを語りかけてくるような音だ。世界から疎まれて、蔑まれて、拒まれて、それでも忘れてほしくなくて、魂を削るように必死で泣き叫んでいるような音だ。
だから僕はその音に耳を傾ける。僕だけは忘れないと誓って、この部屋でひとりギターを弾くんだ。
彼女はなにも言わずに、後ろ手に閉めたドアに静かにもたれかかって、ぎゅっと目をつぶっている。
僕は手早く六弦のチューニングを合わせ、ふたたびギターを構えなおす。右手をゆっくりと振りおろすと、また室内に和音が響き渡る。
その後は自然と身体が動いた。くり返しくり返し沁み込ませたコードの流れを左手が辿り、それに合わせて右手が弦をかき鳴らす。楽器室内は一気に音の粒で満たされる。押し寄せる音の波でいっぱいになる。翼をなくした飛べない鳥が、見上げた空を飛びたいと願うさえずりのように、ギターは哀しく切ない音を響かせている。
知らぬ間に僕は歌っていた。魂の底から溢れ出てくるみたいに、僕の声がメロディをなぞる。音楽に出会ったころから何度もなんどもひっそりと口ずさんだ、あの曲のメロディ。昨日宇田越さんが歌っていたメロディだ。それを今日は僕が歌っている。
それ自体はなんでもない、いつもの部活動と変わらないことだが、しかし今日はひとつだけちがうことがある。彼女がすぐそばで聴いているということだ。僕の音楽を聴いてくれている人がいる。彼女がそばで聴いていること、彼女のそばで弾いていること。そのちがいは僕にとって決定的であり、革命的なちがいだった。
歌いながら僕は思う。
この音楽は、彼女に届いているのだろうか。
彼女の両耳の鼓膜だけでなく、心まで震わせることができているのだろうか。
曲の演奏が終わった。楽器室には和音の余韻だけが残される。僕は静かにギターをおろし、黙って宇田越さんの方を向く。彼女も同じように、僕の方を黙って見つめている。余韻は消え、室内には冷たい静寂が訪れる。
僕は期待していいんだろうか。
彼女に希望をかけてもいいんだろうか。
そして彼女は、腹の底から絞り出すようなかすれた声で、低く言い放った。
「音楽なんて嫌い」
その言葉で、心臓の鼓動がどくんと跳ね上がった。心臓に氷塊があてがわれ、背筋が一瞬にして凍りついたような気がした。
きらい、だって?
まったく予期していない反応だった。この教室でこの音楽を聴いていた彼女なら、わかってくれると思っていた。
「そのバンドも嫌い。音楽を聴いている人も、やっている人も、みんな嫌い」
彼女の中からどんどん言葉が流れ出てくる。なにかを必死でこらえるように肩を震わせながら、抑えきれない感情をひたすら吐露し続けるように言葉を吐く。彼女の感情をせき止める術を僕は持たない。それをただ立ち尽くして聞いているしかない。
「大嫌い」
最後に宇田越さんはそう言い捨て、楽器室の片隅に置いてあったかばんを掴んだ。呼び止めようとしたが、やはり言葉が出てこない。とめどなく流れ出てきた彼女の感情に掻き乱されて、僕の頭は混乱していた。彼女の身体は猫のようにするりと出口を抜け出て、瞬く間に見えなくなってしまった。楽器室にはまた、馬鹿みたいに立ち尽くす男子高校生が残された。
彼女はどこか傷ついたような顔をしていたように思えた。僕は失敗してしまったのであろうか。ひとりの少女に勝手に期待をかけて、自分の事情を押し付けて、そして傷つけてしまったのだろうか。でもなんで、と僕は自問する。なんで彼女はここで歌をうたっていたんだ。音楽が嫌いだって言うなら、音楽を聴く人が、やる人が嫌いだって言うなら、どうして自分がおんなじことをしてたんだ。取り返しのつかないことをしたという絶望と、それでも彼女が理解を示してくれることを願ってしまう希望とが、僕の心の中でせめぎ合い、軋んだ音を立てているようだった。
あのときここで聞いた歌声と、最後に彼女が放った言葉が、耳にこびりついて離れない。
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