03
放課後になり、僕は荷物を持って教室を出た。怜未がこちらに視線を向けているのがわかったが、彼女には構わずその場を立ち去った。
職員室に入り、そそくさと鍵が管理してある場所に向かう。箱を開けて鍵を取り出そうとする。が、そこで僕の動作は止まった。
目的の鍵がない。いくつか並んで吊り下げられている鍵をひとつひとつ検めてみても、やはり目的の鍵は見つからなかった。
どうしてだろう。あの部屋の鍵がないなんてこと、今までなかったのに。学校側としては用のない、それどころか厄介な音楽に関わっていた部屋だから、撤去されてしまったのだろうか。いやでも、文化研究部に部屋の使用許可は下りているから、部員の僕になんの通達もなく撤去されるというのはどうも腑に落ちない。
職員室内を見渡すと、HRが終わったばかりの時間であるためか、室内に教師の姿はあまりなかった。窓際でひとりの教師が、煙草をぷかぷか吹かしながら書類を眺めているのが見えた。文化研究部の顧問である音無(おとなし)先生だ。机の合間を縫って先生のもとへ行って会釈をし、鍵の所在を訊ねてみた。
「……鍵? 知らんな」
音無先生は面倒くさそうにつぶやき、手元の煙草の箱を指で弾いた。きれいなマニキュアに彩られた爪が、こん、と音を立てる。「ところで
「そんなことってなんですか。鍵がないと部活動できないんですけど」
「部活なんてどうだっていいだろ。どうせ部員はお前ひとりしかいないんだから」顧問の言うことじゃねえ。でも本当のことだから反論できない。「それより煙草」
「煙草なんて買えません。僕、十五歳ですよ。未成年ですよ」
「そこをなんとか!」なんともならねえよ。法律で決まってんだよ。
「僕に煙草のお使いを頼むなんて五年早いです」
「じゃあこうしよう」音無先生は口元をにやりと吊り上げた。
「赤穂、煙草盗んできて」
「あんたそれでも教師か!」
「大丈夫だ。窃盗罪は十年以下の懲役、または五十万円以下の罰金で済む。法学部出身の私が言うのだから心配はない」
「僕が心配なのは先生の教員免許の有無です」
「あれ……十円以下の罰金、または五十万年以下の懲役だったか……?」そんなわけねえだろ。みんな十円払うわ。
「もういい。赤穂には頼まない」
「ぜひそうしてください……」
「とにかく鍵なんて知らん。どうせ昨日お前が戻し忘れたんだろ」
それも考えられるひとつの可能性だが、僕はやおら首を横に振った。昨日は確かに鍵を戻しに来た記憶がある。
「それか誰かが持ってったんじゃないのか」
そう言われて、僕は口をつぐんだ。
誰かが持ってった、なんて簡単に言うけど、じゃあ誰が持ってったんだ? あの部屋を使うやつなんていないはずだ。
今は「視聴覚室」なんて名前がついているが、昔は「音楽室」と呼ばれていた部屋。その名前に示される通り、音楽の授業に使われたり、音楽系の部の活動拠点になったりしていたらしい。音楽関係の書籍、機材なども備え付けられていたという。音楽が禁止されるようになって、あの部屋からは楽器や楽譜などの音楽関連のものはすべて撤去されたと聞いている。つまり、今は実質的には空き部屋だということになる。そこを部員が僕一人しかいない文化研究部が使わせてもらっている。
部室として使っていても、あの部屋はあまりにも何もなさ過ぎて、ひどく殺風景に感じる。誰からも気に掛けられることなく、ただ「存在するだけ」の部屋。そんな部屋に、僕以外の誰に用事があるというのだろうか。
とにかく鍵がないことは事実だ。顧問の音無先生が鍵の所在を知らないなら、僕にはそれを知る術はない。
「……わかりました」
「おお、やっと買ってきてくれる気になったか」
「なるわけないだろ!」
「まったく、煙草もろくに買えないなんて、お前は私の部活の生徒だという自覚が足らん」足りないのは僕の年齢とあんたの人間性だよ。
「じゃあもう僕は帰ります。ありがとうございました」
「いやいや、礼を言われるほどのことはしていない」本当にな! お礼じゃなく有罪判決を言い渡されるくらいの悪行をしてんだよあんたは! 「えへへ、なかなかどうして、礼を言われるのもたまには悪くない」ただの社交辞令だろなに照れた顔してんだよ!
職員室を出て、すっかり疲弊してしまった僕は実際に帰路に就こうとしたが、しかしどうしても視聴覚室の鍵のことが気になる。持ち出した人がいるなら、それは誰なのか。なんのために持ち出したのか。そして、あの部屋でいったいなにをやっているのだろうか。黒いもやのような違和感が胸のあたりに立ちこめて消えない。
あれこれ考えていると、自然と足が視聴覚室に向かった。誰かにあの部屋に入られたとしたら、少し都合が悪い。無意識に早足になる。もしあれが見つかったら、どう申し開きをすればいいんだろう。すれ違う生徒にぶつかりそうになり、「ごめん」と短く叫ぶ。見えないところに隠してあるとはいえ、かなりの大きさがある代物だ。見つけるのはそう難儀でもないだろう。いつしか僕は廊下を駆け出していた。途中で教師に「廊下は走るな!」と注意されたが、それでも僕の足は止まらなかった。
特別棟の四階に辿り着いたときには、息がすっかり上がっていた。ぜえぜえと荒い音を立てる僕の呼吸とは対照的に、特別棟四階はひっそりと静まりかえっていた。まるで世界中から忘れられたような、世界の片隅にあるような静寂に包まれている。
僕は視聴覚室のドアの前に立った。ドアの上方には部屋の名前を示すプレートが掛けられている。近年掛け替えられたのであろう、他の教室と比べてまだ新しいプレートに「視聴覚室」と書かれている。
ドアの引き手に手を掛け、力を込めてドアを引くと、やはり鍵が掛かっていなかった。ドアは音を立てて開いた。
部屋の中には誰もいなかった。相変わらずわびしい静寂に沈んでいる。部屋のなかをゆっくり見回ってみたが、誰かが何かを動かしたり、弄ったりした形跡はなかった。とは言っても、この部屋の中には机や椅子といった最低限の備品しか揃っておらず、その机と椅子もたった四組しか置かれてないため、誰かが入った形跡を辿れる物などほとんどないに等しいのだが。
とりあえずこの部屋の中には誰もいない。その事実は確認することができた。しかしまだ油断はできない。本当に気をつけなければならないのは、楽器室の方だ。
視聴覚室には楽器室という特別室が併設されている。楽器室というのは僕が勝手に付けた名前だ。正式には視聴覚予備室という呼称がついているが、そんな用途不明のわけのわからない部屋なんかではなかったことくらい、僕にだってわかる。
楽器室には防音設備が調っている。他の教室には類を見ないほど、この部屋の空気は完全に遮断されている。昔はこの部屋の中で大きな音を出していたのではないか。今では使うことのなくなった、特別に大きな音が出るものを、この中で使用していたのではないか。たとえば、そう……ギターとか、ドラムとか、そういう特別な楽器を、この中で弾いていたんじゃないだろうか。
だから僕は、この部屋でひっそりと、CDプレイヤーを聴きながらギターを弾いていた。あの日に「魔窟」で発掘した、あの音楽と楽器を。文化研究部の顧問が本当に教師なのか怪しい、人間性の足りない音無先生でよかった。基本的に生徒に無頓着である彼女は、僕が部活動の時間になにをしているのか、興味を持っていない。だからこそ僕は誰にも咎められることなく、音楽に浸ることができていたんだ。この部屋で、誰にも見つからないように、誰にも聞こえないように。
楽器室にはそのプレイヤーとギターがしまってある。あれが見つかってしまったら、きっととても良くないことになる。
僕は楽器室のドアに右耳を押し当てた。壁と同じく防音が施されているドアからは、なかなか室内の様子を窺い知ることができない。誰が中にいるのか、そもそも人が中にいるのか、それすら全然わからない。普段は助けられている防音設備が、今だけは恨めしく思える。
僕は中の音を聴くのをやめ、ドアと向き直った。ドアノブを掴み、ひとつ深呼吸をする。教師が中にいた場合の言い訳を考えよう。僕はまだこの高校の生徒になって一ヶ月なので、一人で学校内を探検していた、ということにしよう。特別棟の四階に迷い込んだら、たまたまこの部屋の鍵が開いていたので、中を覗いてみた。もし楽器が見つかっていても、はじめてこの部屋に来たのでわかりません、と言おう。おそらくそのまま処分されてしまうのだろうが、自分のだと名乗りを上げてもその結果は変わらないだろうし、僕自身の立場が危うくなる恐れがある。その危険は避けたい。処分されるのは悔しいが、もし見つかってしまっていたなら仕方がない。
意を決してドアノブを回す。やはり鍵は掛かっていない。内開きのドアは音を立てずにゆっくり開いた。
そして僕は驚いた。
中から少女の歌声が聞こえる。
楽器室の高い防音性能によって外には漏れ聞こえていなかったが、ドアを開けて外の世界と繋がった空気に乗って、少女のかすかな歌声が聞こえる。
さらにドアを開くと、中にひとりの少女の姿が見えた。後ろ姿なので顔はわからない。この高校の制服を着ているので、どこの学年かはわからないが、少なくとも教師ではない。彼女が視聴覚室の鍵を持ち出し、この部屋を開けた張本人なのだろうか。そんな僕の疑念を知らないまま、少女は頭を左右にゆっくり小さく揺らし、長い黒髪をさらりとなびかせながら、歌をうたっている。
僕はしばらく、その姿に見惚れ、その歌声に聞き惚れていた。いままで停止していた時間が動き出したようだった。世界が音楽を忘れてしまったあのときに、凍りついて動かなくなってしまった時間。それが今、この瞬間に融けだしたようだった。
楽器室でひとり歌をうたう少女。そして彼女が歌っているのは、僕の世界を変えたバンドの曲だった。あのときギターと一緒に「魔窟」で見つけ出した、「
音楽は法律で禁止されている。道端で鼻歌をうたうことすら、通行人に聞き咎められる可能性がある時代だ。今では無機質なブザーがその役割を担う、校内の生徒に時間を知らせる音も、昔は「チャイム」というメロディを持った音楽であったらしい。このように、僕らの身の回りからは徹底的に音楽が排除され、淘汰されている。そんな事情を知らないはずがない。音楽が禁止されているということを、今この世界に生きてて知らないはずがないんだ。なのになぜ、この少女はこんなところで歌をうたっているんだ。
「あの」
口から思わず声がまろび出た。少女がこちらを振り返る。少女の顔に浮かぶ表情には驚愕の色が滲んでいる。少女の歌声は途切れ、楽器室は張り詰めた静寂に満たされた。動き出していた時間も止まった。
なにも考えずに声を掛けてしまい、次の句が継げない。僕は少女を見つめた。この少女は誰だ。どこかで見たことがある気がする。たしか同じクラスじゃなかったか? 自信がない。入学して一ヶ月、男子の名前をやっと全員覚えたところなのに、あまり接しないような女子の名前までは覚えきれていない。必死に考えを巡らせても、答えには辿りつけなかった。
僕が続きの言葉を思いつかず、金魚みたいにぱくぱく口を動かしているうちに、少女は素早く僕の横を通り抜け、部屋を飛び出して行ってしまった。両の足は動かぬまま、僕はただ彼女の後姿を見送るしかない。そうして楽器室に残されたのは、あの少女のシャンプーのほのかな香りと、彼女が歌っていた歌の余韻と、馬鹿みたいに立ちつくすひとりの男子高校生だった。
僕は楽器室の中に入っていった。少女が座っていた椅子のそばの台座には、円盤型の機械が置いてある。僕のCDプレイヤーだ。中には「MES CHERIS」のCDが入っていて、まだ高速で回転している。とっさに耳から引き抜いたのか、イヤフォンが乱雑に床に打ち捨てられている。まだかすかに音が漏れ出ているイヤフォンの両先端を拾い上げ、まじまじと眺めながら僕は思考に沈む。
こんなところで何やってたんだ。どうして音楽なんて聴いてたんだ。どうしてこのバンドの曲を歌ってたんだ。
どうして。どうして。
僕の戸惑いは尽きなかった。たくさんの疑問が溢れてくる。しかし、僕にはその疑問のひとつひとつを処理していく気力は残されていなかった。いくつもの疑問が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。僕はまた立ちつくすしかない。
どうして、あのバンドが戻ってきたみたいな、あのヴォーカルが歌ってるみたいな声で歌えるんだ。
そして、少女が歌っているあいだ、どうして彼女の哀しい心の音が聞こえたんだろう。どうして、歌声にまぎれて、彼女は泣いていたんだろう。
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