沈む街

神山はる

沈む街

 読みかけの本をぶらさげて、僕は大学の敷地を横切る大通りを歩いていた。科学普及時代に植えられたというクローンのハナミズキの並木が、綺麗に同じ高さで続いている。うっすらと色づいた白い蕾が今にもほころびそうだ。教授によれば、植えられた当時は倫理的な問題でずいぶんともめたらしい。こんなものはもはや生物とは呼べないんじゃないか、なんて。

 それも随分と昔の話だ。

 今や科学は一般人にとってはるか遠いものになってしまった。僕だって、科学なんて歴史で少し習ったかな、くらいのもの。科学はその道を極めたエリートな専門家たちだけの世界。僕たちみたいな普通の人間は、ハナミズキを植えた頃のような科学技術に囲まれた生活にはとうの昔に飽きてしまって、今では少し不便でも素朴でゆったりとした日々を愛している。昔はパーソナルコンピュータが一家に何台もあったとか、コンタクトレンズに薄型カメラを仕込んでいたなんて話を聞くと、そりゃまあ随分と窮屈に生きていたんだなあ、と思う。

 あぁ、なんだか前置きが長くなった。とにかく、僕はたった今講義を終えて、本の続きを読む場所を探している。芝生に寝転ぶのもいいし、陽のあたるカフェテラスでもいい。人があまりいない所だとなお嬉しい。さて、どこにしようか。

 結局、芸術科棟の裏にあるベンチに僕は腰を下ろした。木が陽を遮ってくれて涼しいし、人もいない。上々の場所だ。教科書やらノートやらがつまった鞄を脇に置いて本を開く。最近見つけた新人作家のデビュー作で、軽いタッチなのに奥が深い。この作品、僕は好きだ。

そういえば、人は暇になると本を読まなくなるらしい。これはある知人の言だ。それなら僕は今、忙しいことになる。僕みたいに適当に悠々と大学生活を送る人間が忙しいなら、世界中を飛び回る商社マンや休みなく働く医者たちを一体どう表現したらいいんだろう。そもそもどこまでいけば忙しいと呼べるんだろう。そんなミルクを入れたコーヒーをかき混ぜるようなぐるぐるした思考をくりかえす。実は、こういうとりとめないことを考えるのが好きだ。人が気にしないようなことに引っかかって、長い間その周りをうろうろする。そんな人間だから大学で哲学をやっている。友達も親も呆れるけれど、この性質を修正することに成功したためしはない。

 一度引っかかってしまった僕は、せっかくいい場所を見つけたにもかかわらず、本から完全に頭を離してしまった。本に目を向けているようで、何処も見ていない。だから、突然声をかけられたときには驚いた。

「何を考えているの?」

 少し鼻にかかったかわいらしい声。その声の対象が自分だと気がつくのに少し時間がかかった。顔を上げると、少し離れた場所に背の小さな少女が立っている。十四、五歳のようだ。その口が再び開く。

「ね、何を考えているの?」

「……どうして、僕が考えごとをしていると思うの」

「質問に質問で返すのって何だか卑怯……えーっと、だって、さっきから少しもページをめくらないから。本を読んでいるんじゃなければ、考えごとをしているくらいしか思い浮かばないでしょ」

 アーモンド色の瞳をくるっと回して、少女は答える。なかなか鋭い洞察力だ。でもこんな昼間に大学にいるのは、少し不自然じゃないだろうか。

「説明ありがとう。でも、どうしてこんなところにいるの? 学校は?」

 子どもの相手の仕方が分からず、つとめて事務的にたずねた僕の質問に、少女はきょとんとする。そして一瞬後にぷっと吹き出した。

「やだ、汐田くん。冗談のつもり? 講義なら今さっき終わったでしょ」

 え? 

「……失礼だけど、もしかして君は僕の知り合い?」

「えー、ひどいなあ。私はトウコ。覚えてない? クラスメートなのに」

「トウコ?」

「そう。透明な子どもで透子」

 僕のクラスメート、長めのカーディガンに身を包んだ彼女、透子はそう言ってにこりと笑った。肩までのふんわりした茶色の髪に包まれた、あどけない顔。

 どうみても中学生にしか見えなかった。

「ごめん、覚えてない」

 素直に謝罪する。こんな中学生、いや、クラスメートに会った記憶はない。僕たちの大学にはクラス制度があり、専攻とは別に四十人程度がまとまって学校行事や進路相談に参加する。先生からは入学時に全員の顔と名前を把握しろと厳命されていたが、残念ながら僕の脳みそのキャパシティはそこまで大きくない。

「私ってそんなに存在感ないかな……やっぱり背が小さいとダメだなあ」

 透子はわかりやすく気を落として、うらめしげに自分の身体を眺めた。

 確かに透子の背は驚くほど小さかった。しかも華奢だ。制服を着せれば絶対に中学校に潜入できる。そんなことを本人に言ったら怒られそうだけれど。彼女はひととおりしょんぼりすると、すぐに気を取り直したのか僕に言った。

「それで、何を考えていたの?」

「答えるほど高尚な考えごとじゃないよ。それでも聞く気?」

 ためらいもなく彼女が頷くので、僕はしかたなく考えていたことを話す。人の忙しさと本の関係、それから『忙しい』の定義とは何か。彼女はただ目を真っ直ぐに向けて聞いている。面白いと思っているのか、退屈しているのかさえよく分からない。

「……以上、終了。何かご質問は?」

 とりとめのない考えは結局誰かに話してもとりとめのないままなので、僕はさっと話を切り上げて彼女に尋ねた。透子は軽く首を振る。

「私の思っていたのと違ったな」

「思っていた?」

「私はきっと、汐田くんはどうして自分がここにいるんだろうと考えているんだと思ったの」

「はあ」

「自分は本を読む場所を探してここにやってきたけれど、そもそもどうして本を読むのに場所を探すんだろう、自分は読書に何を求めているんだろうってね。そして最後には文学とは何たるかというところにまで思考が行き着くのよ。汐田くんはきっと深い思索が好きな人だから、家でもソファに座ってコーヒーを飲みながら考え続けて、いつの間にか夜になってしまうの。飼い猫のミケが膝に登ってきて……」

「あの、透子、さん?」

 飼った覚えのない猫が出てきたところで、僕はついに口をはさんだ。だいたい、僕の住むアパートはペット禁止だ。

「あっ、ごめんなさい!」

 滔々と話していた自分の口を、透子がぱっとふさいだ。

「私、ついついいろんなことを勝手に考えてしまう癖があって」

「すごい想像力だね」

 僕が本を読んでじっとしている光景だけで、よくも飼い猫のミケまでたどり着いたものだ。

「それだけが取り柄なの」

「ふうん」

 話がひと段落して、ふたりの間に沈黙が降りる。その後も透子はじっとこちらを見ていた。あれ、結局この子は何のために僕に話しかけてきたんだろう。もしかしたら、何かこの場所を使いたい理由があって、僕がいたから困っていたのだろうか。

「もしかして、何か用だった?」

「そう、用があるの」

 やっぱり。僕は慌てて荷物を抱えて立ち上がった。

「そうか。場所先取りしてごめん。じゃあまたね」

「汐田くんに」

「……はい?」

「汐田くんに用があるの。ちょっと時間くれない?」

 これは、まさか。

 ……いや、まさかね。

 僕は心の中で力いっぱい首をふる。生まれてこのかたモテ期なんて一度もなかった僕に、そんなことがあるわけない。あれ、でもそれなら今来てもおかしくないのか……いやいやいや。落ち着け、汐田京。お前、今までもらったバレンタインチョコ(義理チョコ除く)が一体何個だと思ってるんだ。片手にも満たないぞ。顔も覚えてないような子から告白されるなんて都合がよすぎる。

「私、ずっと汐田くんが好きだった」

「わぁっ!」

「汐田くんの感性がすごく好きなの」

「……え」

「ひっかかるポイントとか、ものを見る視点とか。そういう感覚がすごく共感できて、一度でいいからちゃんと話したいって思ってたの」

「……はあ。そういう意味」

 何だ。勘違いしてちょっと舞いあがった自分が馬鹿みたいだ。

「時間ならあるけど。僕と何の話をするの?」

「聞いてほしい話があるの」

 そう言って彼女、透子は僕の隣に腰掛ける。どこか遠くへとのびていく視線。

「ちょっとした昔話」


 私が生まれ故郷はね、山に囲まれた古い街だった。

 周りは深い森ばかりの、ショッピングモールもおしゃれなレストランもない街。でも私は好きだったな。色とにおいがね、たくさんあるの。四季折々の自然がはっきりしていて、そこに人の暮らしが混じり合って。あ、それから夕日がとても綺麗なのよ。山に囲まれているからすぐに暮れてしまうんだけど、その直前にね、山のふちがまるで金糸の刺繍みたいに輝くの。あの光景は、あの街だけの特権だったな。

 私はそんな街に、父と母と三人で暮らしていた。

 父はもともと違う地域の生まれで、科学者だった。調査のためにあの街へやってきて、母と出会って、そのまま住み着いてしまった。そうして私が生まれたの。ね、ちょっと運命的でしょ。

 父は穏やかな人だったけれど、変わり者だった。とにかく学者肌で、気になることができると他には何も見えなくなっちゃうのね。ご飯を食べることも寝ることも忘れて、何日も考え続けるの。いくら私が駄々をこねても、ちっとも遊んでくれないのよ。

 でもね、だからこそ身につけた特技があったの。

 それは、空想すること。

 空想って、一人遊びの最高レベルでしょ。だって空想すれば、大きなお城に住むのもケーキをお腹いっぱいたべるのも、一人で好きなだけ何だってできるもの。

 少し変わり者の父だったけれど、私の空想のことは決して馬鹿にしたりしないで、真剣に聞いてくれた。だから、私はどんどん空想をするようになったの。

「いいね、透子。人間のすべては考えること、思うことから始まるんだ」

 それが私の話を聞いた後に父が決まって言うことだった。今にして思えば、父は私以上にロマンチストだったのね。科学者ってそういうものなのよ。

 そんな父とは違って母は、あの街生まれのあの街育ち。おっとりしているように見えてしっかり者で、それなのに父のようなよそ者と結婚しちゃったから、周りの人はみんな驚いたんだって。母は

「自分にないものを補うのが結婚だわ」

 って言ってた。彼女にとってはしごく当然のことだったみたい。

 母はね、毎日をどう暮らすかをとても大事にする人だったの。料理が好きで、母の作るものはどれもすごく美味しいのよ。家の小さな庭には、トマトとかナスとか、いろんな野菜を育てていて、収穫の時期にはカラフルな実がつやつやと光ってた。私はそれを見ながら、また空想するの。あの中に妖精が眠っているんじゃないかしら、夜にはあの実は宝石に変わるんじゃないかしらって。現実的な母は、そんな私をちょっと心配してたな。

 父も母も大好きだった。平凡で平和な毎日だった。

 でも父は、やっぱりどこまでも学者だったの。

 父はあるとき、小さな街では解けないようなことに、興味を持ち始めてしまった。何日も何日も考え続けたけれど、どうしても解けなかった。それが究明できないことに、父はどうしても我慢がいかなくなっちゃったの。そしてとうとう、私が中学校に上がる頃、父は街を出て行ってしまった。

「絶対に結果を出して帰ってくるから」

 最後にそう言い残して。

 あ、別にこれは湿っぽい話じゃないのよ。母も私も、父がそういう性格なのは十分わかっていたから、二人で顔を見合わせて「しょうがいないなあ、ほんと」って苦笑いしたくらい。父はきちんとお金を入れてくれたから、生活が特別苦しいわけでもなかったの。

 本当はね、父は最初、家族一緒に街を出ようって提案していたみたい。でも母が断っちゃったの。ここでの暮らしが、私には一番合ってるわって。面白い人でしょ。肝が据わっているっていうか。父がいなくなった後も、母はいつもどおりだった。でも、時折父に手紙を書いていた。実はあるときその手紙を、こっそりのぞいちゃったことがあったの。そうしたら、なんて書いてあったと思う?

『都会のごはんは美味しくないと思います。

 私の料理を食べたくなったら、あなたの負けね。

 せいぜい頑張って研究しなさいね。』

 そんな二人だったのよ。おかしいでしょ。

 母とふたりの日々の中で、私はよく父のことを空想した。父は都会でどんな暮らしをしているんだろう。どんな最先端の機器に囲まれて研究しているんだろう。どんな謎を解明して帰ってくるんだろう……って。私のお気に入りは、父が可愛いロボットを相棒にして、研究している空想。最先端じゃないけれど、お茶目で憎めない子なの。父はいつかその子と一緒に街に戻ってきて、私たちと暮らすの。私はきっとその子と兄弟みたいに仲良くなれるのよ。

 でも残念ながら、父はいつまで経っても帰ってこなかった。

 そうしているうちに私は中学を卒業して、高校に進学するために街を出た。小さな街は私の中で遠く思い出になり始めていた。

 でもそんなとき、ある事件が起こった。

 汐田くん、覚えてる?

 五年前に台風が上陸して、大雨と洪水で谷間の街がひとつ水没した事件。自然災害を事故とは呼ばないかもしれないけれど、あの街にとっては、確かに事件だった。そう、その舞台になったのが、私がかつて住んでいたあの街だったの。

 あの日、台風が直撃して、街は記録的な大雨になった。母は巨人が街の上で泣いているみたいだった、って言っていた。山に囲まれた街には、四方八方から水が流れ込んだ。街を流れていた川は増水して、ついには決壊してしまった。街にはあっという間に水が溢れた。

  たった一晩の出来事だった。幸い早い段階で住民に避難命令が出されていたから、死人は出なかったけれど、街はぜーんぶ水の中。何の変哲もないあの街は、一瞬で特別な場所に変わってしまった。

 こうして私の故郷は、水に沈んでしまったの。

 

 淡々と、何でもないように話していた透子が、ふう、と一息吐いて僕に視線を戻した。どう、とアーモンド色の瞳が問いかけている。

「驚くべき話だね」

 一言そう言うと、彼女はおかしそうにクスッと笑った。

 確かに、数年前に(彼女いわく五年前に)巨大な台風が日本に上陸して、大きな被害が出た。特にある県の山間部では、すり鉢状の地形も相まって街全体が水に飲み込まれてしまった。随分とニュースで騒がれていたから、僕も覚えている。それが自分の生まれ故郷だと、透子は言うのだ。

 普段の僕なら、形式的なお悔やみの言葉くらい返していただろう。けれど、なぜか彼女の語り口に引き込まれて、僕はすんなりとその話を受け入れてしまった。

「汐田くん、あの街がその後どうなったか知ってる?」

 透子の目がゆっくりとひとつ、瞬きをする。

「いや、悪いけど」

「あのね、ここからが面白いところ」

 ぴん。彼女の細い人差し指が勢いよく、僕の目の前に突きつけられた。

「あの街は今でもあるよ。水の中に」

「水の中?」

 言葉の意味が理解できずに首をかしげた僕に、透子は満足げにうなずいた。どうやら、期待したとおりの反応だったようだ。

「そうそう。正真正銘、水の中」

「アトランティスみたいなもの?」

 僕の頭の中に、海底に沈んだとされる古代の王国の姿が浮かぶ。

「いいえ、今でもちゃんと人が住んでいる」

「……それは僕にはわからない高度なジョーク?」

「私はいたって真面目です」

 自信満々の透子を見て、僕はなんだか気の毒な気分になってきて、ゆっくり噛みしめるように言った。

「でもね。人間は今のところ、水の中じゃ生きられないんだよ。小学校で君も習っただろ」

「あ、いま、馬鹿にしたでしょ」

「馬鹿にはしてないよ」

「背が小さいからって、頭の中まで子供なわけじゃないわ」

「もちろん」

「じゃあ信じてくれる? 私の言うこと」

「それは……」

 だって、どう考えても、人間は酸素がないと生きられない。僕が仮に水に潜ったとして、一体何分もつだろう。彼女の真剣さは伝わるし、信じてあげたい思いも山々だが、なんとも素直には信じがたい。それとも僕が知らない間に、人間は進化していたのか? もしくは古い哲学者が言っていたように、思った瞬間にそれは「ある」ということになるのか?

 また頭の中でコーヒーをかき混ぜ始めた僕は、つん、と頬に何かがあたる感覚で我に返った。そして、透子の指が僕の頬をつついているのに気がつく。

「ふふ、汐田くんてすぐ考えごとしちゃうんだね。面白い」

「いや、あの。ごめん」

 ようやく指が離れ、僕は心臓が少しだけ速くなっていることに気づいた。

「汐田くんが信じてくれたら、話の続きをしようと思うんだけど」

「……わかった。信じるよ」

 迷った末に、僕はそう言った。何よりこの不思議な話の、続きが気になったのだ。

「ありがと」

 にこ、と透子が微笑む。

「確かに一度、あの街には誰もいなくなった。濁流に押し流されて、いろんなものがなくなった。人々は故郷を失って、途方に暮れたの」

 でも、と淡々と言葉は続く。

「そこに小さな奇跡が訪れたの。父が、帰ってきたのよ」

「科学者のお父さん?」

 新たな謎を追い求め、街を出て行ってしまった透子の父。

「そう。父はあの街に帰ってきた。成果を上げて」

 父は、人間が摂取する酸素の量をずっと少なくする物質を見つけたの。

 彼女はそう言った。

「父はそれを吸入酸素減量剤と呼んでいたみたい」

「吸入酸素減量剤」

「そのまんまの名前よね。センスがないわ」

 透子がおかしそうに笑う。

「研究の中で偶然にできた産物だって。父はそれを持って、水に沈んだあの街に帰ってきた。そして悲しみにくれた住人たちに言ったのよ」

「何て言ったの?」

「……たとえ一生この地を離れられなくても、故郷に残りたい人は、僕と一緒に暮らしましょう」

 のんびりとした透子の声を聞きながら、僕はその様子を想像しようとしていた。

 絶望に暮れる人々の前に、何年も街を離れていた男が帰ってくる。きっと少し緊張した面持ちで、吸入酸素減量剤なるものを取り出すのだ。彼は静かな声で語りかける。その言葉に、人々は驚いて、でもしだいに決心してその物質に手を伸ばす……。

 不思議な話だった。僕には科学のことはよくわからないけれど、本当に進化した科学ならば、人間の生態を変えることだってできるかもしれない。それに、僕はこの話がすっかり気に入っていた。小さな街に起きた、大きな事件。そしてそこに現れた、街を去ったはずの科学者。例えそれが現実ではなくても、構わないと思った。

「それから?」

「残った人々は今も、あの街に暮らしている。空には鳥の代わりに魚が泳いで、人々はふわふわと跳び歩く。街はいつだって澄んでいて、木の代わりに水草が街路樹になる。すてきな街よ」

「いい話だね」

「ありがとう」

「君はどうして」

 ここに残ったの。そう聞きたかった。

 ふわりと、また透子が笑う。彼女はいろんな微笑みを持っているんだなと思う。そして、ぐい、と突然ベンチから立ち上がった。

「ねえ、汐田くん」

「うん?」

「私と一緒に行ってくれないかな」

 その先は言わなくても予想できた。アーモンド色の瞳が僕を振り向く。さわさわ、と風が茶色い髪を揺らす。ふいに彼女が、ここにいないのではないかという幻想にとらわれた。彼女すら、この不思議な話の登場人物であるかのような。だから僕は、瞬きをひとつして、うなずいた。

「うん、いいよ」



 広い水面はさざめいていた。青い空を反射して、濃い青色に輝いている。山間のこの場所は、初夏の今でも肌寒かった。近くには、当時住人たちが避難したという高台の中学校が、ぽつんと置き捨てられたように建っていた。広大な湖のような水の縁に立ちながら、僕は小さく息を吐いた。

「綺麗でしょ」

「そうだね」

「船は苦手?」

「乗ったことはないけど、多分大丈夫だと思う」

「よかった」

 これしか行き方がないの。そう言う透子の側には、一艘の小舟が杭で繋ぎとめられていた。少し古びてはいるが、頑丈そうな舟だ。

「行こう」

 透子にならって舟に乗り込み、杭に繋いでいた縄を外す。教えてもらいながら静かにオールを漕ぐと、舟はゆっくりと岸から離れた。

水は驚くほど澄んでいた。深い水の底ははるか遠く、あまりに見下ろすとくらくらしそうだ。街の真上までは、しばらく進まなければいけないらしい。透子はぼんやりと遠くを眺めていた。

「父は」

 風とオールの音しか聞こえない中を無言で進んでいたとき、ふいに透子が口を開いた。

「父が見つけた物質は、もう二度と作れないと言ってたの。できたのはまったくの偶然で、どうして作れたのか原因もわからないって」

「へえ」

「だから、もうあの街に新たな住人は来ない。子供を増やすこともできないの」

 たとえ一生この地を離れられなくても、故郷に残りたい人は、僕と一緒に暮らしましょう。

 透子の父の言葉を思い出す。そうか、だから彼は帰ってきたとき、住民たちに問いかけたのだ。これから向かう場所に住む人々は、もう陸へは上がってこない。そして、陸から彼らの街へ行く人もいない。新しい命を増やすこともできない。それはつまり。

「滅びゆく街」

「ええ」

「あの街の人々はそれをわかっていて、選んだんだね」

 ボートが進むたび、水面は揺れる。

 僕たちは向かう。

 静かに静かに滅んでいく街のほうへ。

「もうすぐだと思う」

 透子がそう言うので、僕はオールをこぐ手を止めた。ほら、と彼女が水面を覗き込む。僕もそれに合わせて視線を落とした。

 はるか眼下に、水底はあった。

 高層ビルの屋上から地上を見下ろしたときのような景色が、しかし屋上からの景色よりもずっと美しく、広がっていた。水面の揺らめきが、街に繊細な影を落とす。そして青みがかったミニチュアのような街の中を、小さな人々が自由に歩き回っているのだった。

 奇妙な風景を、僕と透子は黙って眺めていた。それは確かに、彼女が言ったとおりの街だった。鳥の代わりに空を飛ぶ魚。時間を忘れたように、ゆったりと歩く人々。鮮やかな緑色をした水草が、並木道に並んでいる。幻想的な街は瞬きをひとつしたら消えてしまいそうで、僕はじっと水底を見つめた。あまりにも、美しかった。

「すごいね」

「でしょ。ほら、あれが私の父と母」

 透子が指をさしたのは、ちょうどボートの真下。庭いじりをする中年の男女だった。透子はふいに懐から小さな石を取り出すと、ぽちゃん、と水へ落とした。石はゆっくりと、まっすぐに二人のもとへ落ちていく。やがて二人の足元へこつん、と石が転がり、透子の両親はそろって顔を上げた。

(久しぶり。)

 口元がそう動いたように感じた。

 穏やかな微笑みを浮かべて、寄り添った二人がこちらを見上げて手を振る。その小さな姿を見下ろしながら、透子も微笑んで手を振り返した。

「父と母は、この街が沈んだから、もう一度一緒になれたの」

 口元に笑みを残したまま、透子が言った。

「この街が沈んだから、幸せになれたんだよ」

「……そうだね」

 街が沈まなければ、きっと透子の父は帰ってこなかっただろう。

「この街の人は、きっとこの街と一緒に消えていくわ。それでも、ここはみんなの理想郷なの」

 ねえ、汐田くんはどう思う?

 ぽつり、と透子が僕に尋ねる。

 ああ、これが、彼女が僕と話したかったことなんだ、と気がついた。

 眼下に広がる街。たとえ消えていく運命でも、あの水底から出て行くすべはなくとも。あの街で生きて死んでいくことが不幸だと、言い切れるのだろうか。だって、こんなにも美しいのに。

「人は自分の生きる物語の筋書きを自由に決めていいと、僕は思うよ」

 僕は頭の中にあるものをゆっくりと口に出した。

「それに僕は、この物語が好きだ」

「……うん。汐田くんって、やっぱり素敵」

 僕はゆっくりと視線を上げた。隣で街を見下ろす少女を見つめる。

「君は、どうして君は、あそこを選ばなかったの」

 ずっと気になっていた質問を投げかける。

 アーモンド色の瞳がこちらを向いた。

 長いまつげが、風に震えていた。

 そのとき聞いた楽しげでさみしげな声を、僕は今でもよく覚えている。

「だって、あそこでは汐田くんに出会えないもの」


 芸術科棟の裏のベンチは、人通りが少なく、木陰で涼しい。読書をするにはもってこいの場所だ。デビューしたての新人作家の本を読みながら、僕はふいに彼女のことを思い出した。中学生並みに背が小さくて、アーモンド色の瞳をした、空想好きの少女。微笑むのが上手で、話すのも上手。ただし、ちょっとだけ人との距離感覚が狭い。あの日、あの後、僕はどうしたんだっけ。彼女はどこへ行ってしまったんだっけ。

「何を考えているの?」

 そのとき、頭の上に声が降ってきたから僕はハッと顔を上げた。

「……なんだ、君か」

「何だよ、その態度。失礼千万だな」

 そこに立っていたのは、同じ哲学科で同じクラスの友人だった。優秀だが少々変わり者で、趣味は人の口癖をこっそり数えること。もうそれだけでかなりの変人だとわかる。

「次の授業が始まるから呼びに来てやったよ」

「ああ、そうか」

 気づけば時計が授業開始五分前を指していた。僕は本を閉じてベンチから立ち上がり、ふと気になって、彼を呼び止めた。

「あのさ」

「うん?」

「うちのクラスに、透子って子、いるかな」

「トウコ?」

「そう。透明の子と書いて、透子。すごく背の小さい女の子」

「見たことないな」

「そうか。だったらいいんだ」

 何だよ、一目惚れか。友人が意地汚い笑みを浮かべて僕を見る。それをさてね、と交わしながら、僕は教室へと歩き出した。

 あれは現実だっただろうか。彼女の空想だったろうか。

 それとも彼女すら、現実ではなかっただろうか。

 どちらでも構わないと思った。

 まなうらに一瞬、青く美しい街が浮かんで消えた。

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