4-3 橘の花に似た、重花丁子の刃紋に夕焼けの残り火と夜の藍色が映り、きらめく。

 橘の花に似た、重花丁子の刃紋に夕焼けの残り火と夜の藍色が映り、きらめく。


 蓮江の持つ花散里は刀身のみで、刀の根本――茎の部分に厚手の布を巻きつけて固定し、即席の柄にしているようだ。あの状態なら、辻斬りの後に血で拵を汚すこともない。刀身には大きめの布を巻きつけて、そのまま傘に入れて運んでいたのだろう。筐の姫のために切り詰められた花散里の長さは五十センチほどだから、七十センチの傘なら充分隠すことができたはず。

 辻斬りの夜には、雨合羽でも着て刀入りの傘を持ち歩き、事を終えればまた同じように傘の中へ刀を片付ければいい。


 考えてみれば、至極単純な話だ。


 最初の犯行を終えた後も含め、蓮江は何度か花散里を戻している。蓮江は合鍵の位置を知っていたし、祖母が旅行に出る日取りもわたしの口から聞いていた。家に忍び込んでも絶対に見つからない術を持っていたわけだ。


思えば、一緒に出掛けた時に見た指の傷は、刀を拵に納める際に付けた傷かもしれない。祖母の調子が優れなかったのも、素人が拵を付けていたと思えばうなづける。


 「……いつから気づいてた?」

 「ほんのついさっき。正直、蓮江が殺してるなんて考えもしなかったから」

 「気づいたなら、どうして来たの。殺されるかもしれないのに」

 「殺されたくないと思わなかったから、来たんだよ」


 はは、と蓮江が乾いた笑いを漏らす。


 「怖いものなしだよね、ささねは」

 「怖いものがないんじゃなくて、怖がる必要がないだけだよ」


 花散里の切っ先に滴るようなほの赤い光は、本当にきれいで。その刃がわたしを殺すとしても、それはそれで幸せかもしれない。


 「人間はふつう、殺されるのを怖がるものなんだよ」


 諭すような口調で言う蓮江の手で、花散里が行き場もなく揺れる。


 「出会ったときからずっと、感情のズレみたいなものは感じてた。同じものを見て、同じように生きてるのに、ささねはわたしたちと違う生き方をしてるみたいだった。本当にささいな違いなんだけどさ、でも、違っちゃいけない部分が違ってる気がしたんだ。確信したのは、一緒に死んだ猫を埋めたとき。あのとき気づいちゃったんだ。この子は怪物だって。人間みたいな顔をした怪物が、わたしたちの世界に紛れ込んでいたんだって」


 蓮江にはわたしが怪物に見えたのだろうが、それはわたしだって同じこと。自分と異なる倫理観を持つ人間ばかりがいるこの世界は、怪物の巣みたいなものだ。


 「正直、その頃からずっとささねのことが怖かった。でも、友達だから、それは変わらないから、ささねの姿が痛々しく見えて、助けてあげたくて、だから傍にいなきゃいけないと思った」

 「……勝手に哀れまないで欲しいな」

 「ちがう、そうじゃなくて、ささねは親友だったから、誰よりも大切な友達だったから、だから」

 「だから、自分の手で殺すことにした?」


 この場での沈黙は、おそらく肯定を指すのだろう。蓮江は今から絞首台に向かうように神妙な態度で、わたしに縋るような視線を向けてくる。


「たぶん、誰も殺していないささねを殺すことは悪だ。誰から見たって、ささねは被害者で、わたしはただの人殺しになるだろうね。でも、目の前にいる怪物を見過ごせば、わたしは自分の善を信じられなくなる。だから、善を失わないために、悪を為すべきだと思うんだよ。善意っていうのは、善を行おうとする意志じゃなくて、善であろうとする意志なんだ。だから、心からの善意による殺人っていうのは、なにもおかしなことじゃないよね」

 「言い訳はやめてよ」


 正義を隠れ蓑にしたって無駄だ。衝動に理由を付けて正当化したがっているだけで、実のところはきっと、ただ――。


 「わたしが怖いだけなんでしょ?」


 花散里の切っ先が、小さく震えた。


 「自分には理解できない怪物が怖くて、それだけの理由で殺すこともできなくて、自分を納得させるために理屈を付けてみただけ。わたしを殺したいだけなら、あんなにたくさん殺す必要はなかったはずだよ。最初からわたしを殺す勇気がなかったんでしょ」


ちがう、と蓮江は消え入りそうな声で反論する。


「殺人の出来合いには差があるんだ。先月の辻斬りを見た時に、はっきり意識した。完璧な殺人――つまり、最高の場所で最高の方法を以って人間を殺すためには、練習が必要だったんだ。だから」


「もういいよ」


 その一言だけで、蓮江を黙らせるには十分だった。


 「……ごめん。わかっては、いるんだ。でも、わたしってこんなに臆病で自分勝手だったんだって、変に自覚が湧いてきて、自分が嫌になって」

 「自分勝手で当たり前だよ。わたしは蓮江の気持ちを変えられないし、蓮江だってそれは同じ。みんな気持ちを押し付け合って、分かり合った気になってる」

 「ああ、そうだった。家出した夜に言ってたよね。心から分かり合う術なんてなくて、だから本当の理解は諦めなきゃいけないって」

 「そう。だから、いいよ。蓮江が思うこと、わたしに押し付けたいなら、それでいいよ。あなたは間違ってない」


 殺しても、いいんだよ。


 その言葉を待っていたかのように、蓮江は花散里を空に高くかざした。蓮江の視線はわたしをまっすぐに捉えていて、こちらも同じように見つめ返す。刃先よりも冷たくて鋭い瞳。

この子にこうして殺されるのならば、そういう運命なのだろう。やがて来る痛みと死を想像することもなく、わたしはすべてを受け容れる覚悟ができていた。


――怪物か、と思いながら目を閉じる。


 自分でも薄々気づいていた。表面上は他人と同じように振る舞っていても、どうしてもわたしは倫理を『考えている』。倫理はもっと感覚的なもので、誰にでもわかるもののはずで。それを直感的に解さないのだから、やはりわたしはひとの範疇になかったのだ。

 人間社会の自浄作用は、人間から大幅にかけ離れたものを許さない。


 だからわたしは、最初から最後まで異物だったのだ。


 落ろされる刀を待っていると、ふと頬に冷たいものが落ちてきた。ひとつめが落ちて、続けざまにぽつぽつと落ちてきたものが頬を伝う。


 雨だ。冷たい、雨。


 「はなちゃん」

 「なあに、さっちゃん」


 懐かしい呼び名だ。

 懐かしい呼び名だ。子供の頃、お互いの苗字がなんとなく呼びづらくて、頭文字を取って呼び合っていた。花筐笹音で、はなちゃん。逆瀬蓮江で、さっちゃん。

 中学を出てからは、お互いそんな風に呼び合うこともなかった。その声は、いまのわたしに向けられているものだろうか? それとも、とうにいなくなった過去のわたしを呼んでいるのだろうか。

 どちらにしても、わたしは応えてあげられないけれど。


「わたし、怖いよ」


 雨脚が強まるにつれて、急激に熱量が失われていくような気がした。生への熱量、死への熱量、そういうものがすべて冷え切って、最後に残るのはがらんどうの鉄のようなもの。鳴らない鈴に似たもの。それが、わたし。


 「大丈夫」


 雨に濡れた彼女の腕は、思ったよりもずっと暖かくて。皮膚の下をめぐる血の速さまで感じられる気がした。


 「怖いなら、逃げればいいの」


腕を撫ぜ、指先を経て、花散里の刀身に触れる。血の通わない鋼の冷たさが、いやにわたしの心を落ち着かせる。刃に触れた人差し指から、一筋の血が伝う。消えた夕焼けの最後の残り火が、鮮やかな赤色となって自分の中から零れ落ちていく。

 最後の熱が、失われる。


 「ねえ、どこへ逃げればいいか教えてよ。どうやって逃げたらいいのか、教えてよ……」


 城山の頂上は、わたしたちの狭い世界で一番高くて遠い場所だ。ここから逃げたいのなら、落ちて行けばいい。ずっと深くて暗い場所へ。どこまでも落ちて行ったその先へ。

 彼女の指を解いて花散里を離させ、自分の手で強く握りこむ。こうしてこの刀を持つのは、猫を埋めた時以来だというのに、花散里は腕の延長のように馴染んだ。というより、互いの境界がわからなくなるほど、わたしと刀の体温は近かった。


 「考えなくてもいいの。ただ落ちていくだけなんだから」


 花散里を掲げて、切っ先で頭上の月を衝く。落ちてこい、落ちてゆけ。どこよりも低い、夜の底へ。


 熱量もなく、爆発力もなく、ただただ重力と慣性のままに、わたしは彼女の身体を引き裂いた。


 蓮江は叫び声ひとつ上げず、むしろ恍惚すら感じさせる笑顔を浮かべたまま、仰向けに倒れていった。水たまりに血が混ざりあって、蓮江の身体から急激に命が流れ出していくのが目に見える。


 「いつか、また出会うことがあったらさ、せめてそのときは、わたしも、さっちゃんと同じ側に……」


 そして、彼女の呼吸は聞こえなくなった。

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