3-2 どこか遠くから、獣の唸り声のようなサイレンが聞こえた。

 どこか遠くから、獣の唸り声のようなサイレンが聞こえた。


 昨日から雨が降り止まないから、上流の大堰で放水を行っているのだろう。パトカーのサイレンとは違う音だが、どうしても昨夜のことが思い出されてしまう。


――あのあと、わたしたちはすぐに事情聴取を受けた。

 何時間かかっただろうか、とにかく同じことを何度も繰り返し聞かれて、ようやく解放された時には深夜になっていた。わたしが塾を出た時間ははっきりしていたし、まどかの方も途中でコンビニに立ち寄った時間が証明できたので、犯人として疑われる要素はほとんどなかった。そのうえ、わたしたちが事情聴取を受けているまさにそのとき、新たに辻斬りの被害が出たとの報告が入り、現場の位置関係や状況から見てもわたしたちが関与した可能性は薄い、というような判断がなされたようだ。第一発見者として提供できる情報も特にはなかったので、相場から言えば早めに解放してもらえたということらしい。

 警察署にいる間、まどかはかなり憔悴した様子で、自分の手のひらをじっと見つめていた。あのひと助かるのかな、と彼女がつぶやいた言葉に、わたしは気の利いた答えも返せなかった。きっとまどかもわかっていただろうが、あれで生きている人間なんているわけがない。


 今朝のワイドショーは昨夜の辻斬りのことで持ち切りだが、まだ決定的な証拠は出てきていないらしい。目撃証言がなければ遺留品もなく、わかっているのは凶器が日本刀であるらしいということくらい。市内にある登録済みの刀剣については現状の調査がなされたそうだが、盗難や紛失の報告はひとつも挙がっていないという。ただ、市内には未登録の刀剣が相当数あると目されていることから、今回の凶器は未登録の刀剣なのでは、なんていう根拠のない無責任な論が展開されているようだった。


 「またキャラメルラテ?」

 「これが気に入ってるの。ちょっと過剰なくらい甘ったるくて好き」


 砂糖の飽和水溶液みたいに甘いキャラメルラテを飲みながら、ぼんやりとガラス越しの街並みを見る。わたしたちの町から30キロも離れていない街なのに、活気は段違いだ。都会ほどではないにせよ、そこそこの人通りがあって、いつも誰かの声が聞こえている。逆に、あの街には無音の時間がありすぎるのかもしれない。


 「蓮江はブラックのコーヒーが好きよね。眠れなくならない?」

 「できるだけ長く起きていたいから。寝てるのって死んでるのと変わんないし」

 「寝てるひとは起きるけど、死んだひとは生き返らないよ」

 「まあ、そういう些細な違いはあるよね」


 そう言ってコーヒーを啜る彼女の指に、細く赤黒い線が走っていた。


 「……怪我したの?」

 「包丁で切っちゃって。慣れない料理なんてするもんじゃないね」


 もう塞がったから大丈夫だよ、という言葉通り、かさぶたはもう取れかかっているようだった。ただ、血の跡を見ると、やはり。


 「ごめん、もしかして嫌なこと思い出させちゃった?」


 蓮江がさっとテーブルの下に手を隠して、心配そうに言う。心配してくれるのは嬉しいけれど、べつにあれがトラウマになっているわけではなくて。


 「昨日のことを考えてはいたけど、べつに嫌ってわけじゃなくて。ただ――辻斬りの目的ってなんなんだろうなって」

 「辻斬りって言うとそれらしいけど、要は通り魔でしょ? だったら目的なんてないんじゃないかな。目的と手段が入れ替わっちゃってるから、きっと斬るために斬ってるだけだよ」

 「でも、目的と手段が入れ替わったってことは、そもそも目的はあったんじゃないかと思って。ひとを斬らなきゃいけない理由って、あったんじゃないかって」

 「ささねはさ、優しすぎるよ。ひとを斬らなきゃいけない理由なんてあるわけないんだ。ひとを斬りたい理由があるだけで。悪人はいつも自ずから悪を為す、ってなんかの本に書いてあったよ」

 「蓮江のくせに難しいもの読んでるのね」

 「その言われ方は心外だなあ」


 悪を為す人間がすなわち悪人だとするならば、善人とはなんなのだろう。

 悪を為さない人間は善人だろうか。善意によって悪を為した人間は悪人になるのだろうか。

 もしも、悪意によって善を為す人間がいたとしたら、それは善人なのだろうか。


 「また、難しいこと考えてる」


 蓮江の声にはっとして我に返る。


 「心でも読んでるの」

 「顔を見てるだけ」


 机の上で指を組み、見透かすような目でこちらを見る蓮江の視線に耐えられなくて、わたしはキャラメルラテを飲み干して窓の外へ視線を反らした。

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