3-1 暗闇の中をさらさらと降る霧雨の音がうっとうしくて
暗闇の中をさらさらと降る霧雨の音がうっとうしくて、頭を隠すように傘を低く差した。
塾が終わって外に出てみれば、時刻はもう九時半過ぎ。空いている店なんて駅前の居酒屋くらいで、あとは軒並みシャッターだらけ。さながら商店街は巨大な貸しガレージだ。中央通りにはまだ人影があるが、例の辻斬り騒ぎの影響か、ただでさえ少ない人通りがさらにまばらになっている気がする。
とはいえ狭い街だから、歩く人々の中にはよく見かける顔もあって。
「あれ? さっちゃんなにしてるの?」
だから、こうして知り合いとばったり出くわす可能性もないではないのだが、あってほしくはなかった。
「わたしは塾帰りだけど……そっちこそなにしてるの」
「辻斬りを探してるんだけど、ぜんぜん見つからなくってねー」
黒っぽいレインコートのフードを少し上げて、まどかが屈託なく笑う。彼女の身体はレインコートにすっぽり覆われていて、顔が見えなければ誰だかわからない。たぶん、すれ違っても気づかなかっただろう。
「見つけてどうするの」
「見つけたいだけ。べつにそれ以上はなんにもないよ? ものすごく退屈でさ、こんなことでもないと気が紛れなくって」
「暇つぶしで死んでたら世話ないよ」
なんとなく気持ちがざわついて、わたしはまどかを家まで送ることにした。まどかはまだ探したいのにー、なんて不満そうに言っていたが、とりあえず軽く小突いて黙らせた。
「さっちゃんってたまに暴力的だよね。怖いなあ」
「辻斬りは怖いじゃすまないけどね」
まあねー、とまどかは上の空で答えながら、軽やかに水たまりを飛び越える。
「……昔さ、映画を見たことがあるんだ。何度も過去に戻って運命を変えようとするんだけど、どうやっても回りまわって最悪の現実に戻っちゃう話」
「運命は変えられないって話?」
「少なくとも、あたしはそう思ってるかなあ。ここで辻斬りに殺される人間は、いま死ななくてもきっといつか殺される運命なんだよ。早さの違いはあっても、たぶん辿り着く場所は同じ」
「ちなみに、その映画ってどんな結末だったの」
「ハッピーエンドだったよ。運命は変わらなかったけど、その先を変えようって感じ。都合がよすぎるけど、物語はそうでなくちゃね」
一緒に歩きだしてから、まどかはフードを外してわたしの傘に入っている。無邪気に笑いながら辻斬りのことを話し、髪を濡らすのも構わず大げさな身振りをしてみせる。
しばらくして、小川を渡る小さな歩道橋に差し掛かったとき、ふとまどかが足を止めた。
見れば、川面に開いたままの傘が浮いている。川岸に引っ掛かって流れが遅くなっているが、このまま雨が続けばいずれ流されていただろう。おそらくは、川に落ちてからそれほど長い時間は経っていない。辺りには街灯もなく傘の柄はわかりにくいが、白っぽい生地に不規則な水玉模様が散っているのが見えた。
まどかは黙ってスマートフォンを取り出すと、ライトアプリを起動して川岸の土手を照らした。川面には、わたしの背丈ほどまで伸びた緑の葦が一面に広がっていて、けれど橋近くの一か所だけ、なにかに倒されたような形跡がある。スマートフォンの灯りはそのまま周辺を照らし、そして。
――鮮烈な、赤。
若い女性の身体。投げ出された四肢。肩から脇腹までを見事に斬り裂いた傷。緑の葦に飛び散った血。断末魔の形に開かれた口。
濃い、死の気配。
まどかは叫びこそしなかったが、雨の音に混じって彼女の荒い息遣いが聞こえてきた。恐れというよりは、緊張、あるいは高揚感だろうか。わたしはと言えば、ガラス越しに現実を見ているようで、どこか他人事のように死体を眺めていた。まどかが救急車を呼ぶ声を聴いて、そういえば死んでいるとも限らないんだな、と気づくくらいに、意識と思考がぼんやりしている。
人間は、斬られれば死ぬ。
言葉にすれば当然だけれど、そのくらい当たり前の事実をいままでは知らなかったし、理解できていなかった。こうして目前にしてはじめて、身体を巡る血液がわたしを生かしているのだと気づく。心臓の音が聞こえるような錯覚がして、全身が熱くなる。生と死のあいだには、こんなにも大きな溝があって。けれど刀のひと振りはその溝をいとも容易く埋めてしまうのだ。一瞬のうちに、なんのためらいもなく。
はは、と。面白くもないのに乾いた笑い声が零れた。
現実はこんなにもあっけなくて、不条理なのか。
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