1-2 蓮江の歩く速さはわたしよりもほんの少し速い。

 蓮江の歩く速さはわたしよりもほんの少し速い。


 のんびり歩いていると先に行ってしまうのだが、そのくせよく道を間違える。これと決めるとそこに向けてひた走るけれど、決める段階の考えが足りない。早合点というか、刹那的というか、わたしとは正反対の性格だ。

 帰り道、蓮江がいきなり脇道に逸れたものだから、またいつもの衝動的な寄り道かな、と思っていたのだが、道を進むにつれていやな予感が頭をもたげてくる。細い砂利道を上って堤防へ出ると、予感は確信に変わった。遠くの川面がきらきらと夕日を反射しながらうねり、周辺に光を振りまいている。梅雨時には珍しい晴れの日だというのに、歩く人の姿は少ない。

 まあ、今月の初め頃にこのあたりで殺人があったのだから、人が寄り付かないのも無理はないが。


 「ちょっと、話を聞いてほしくて」


 蓮江が立ち止まって、近くにあった看板のコンクリート基礎に腰掛ける。遊泳禁止の文字は日に焼けてほとんど消え落ちていて、代わりに赤錆びがじわじわと浮かび上がっている。今にも折れそうな錆びだらけの支柱に触れないように気を付けながら、蓮江の隣に座った。


 「あの日のことなんだけど、ね。特にさ、なにかあったわけじゃなくて。雨が降ってたから散歩しようと思ったんだ」


 相槌を打つでもなく、わたしは黙って話を聞く。相槌というのは聞いていることの合図だから、あえて合図をする必要がなければ返さない。


 「そこの堤防脇の道から上がってきたときに、ちょうど斬りかかるところで、それで、血が飛んで、倒れて……」


 蓮江の話はたどたどしくて、起きたことをひとつひとつ必死で喋っているようだった。だから、それが逆に生々しくて、痛々しくて。


 「動けなかったし、叫び声も出なかった。ただ、本当にどうしていいかわからなくて」

 「逃げようと思わなかったの?」

 「怖いとか、危ないとか、そういう感覚がなかったんだ。見ちゃいけないものを見た気がしたけど、それだけ」


 好奇心のせいで命を落とすことがあるというけれど、無関心でいれば安全なわけでもない。今回は運がよかったが、ともすればついでに斬り殺されていたかもしれない。


 「理屈では逃げるべきだってわかってたんだ。でも、感覚が付いてこなくて。考える自分と行動する自分が別のものだなんて考えたこともなかったけど、本当はわたしなんてたくさんの自分のが集まったものでしかないんだって、思い知らされて。自分の中の無感覚な部分が、怖くて」


 ああ、そうか。

 蓮江は人殺しを見たことで心に傷を負ったわけではなくて、人並みに傷つけず怖がれなかった自分を恐れているのだ。


 「それは、べつに変なことじゃないよ」

 「でも、普通じゃない」

 「普通じゃないけど、普通じゃないことが変なことってわけじゃないでしょう?」


 蓮江はまだなにか言いたそうにしていたが、返す言葉が見つからないのか、口を閉ざしていた。


 「……三月のはじめに、伯母さんが亡くなってね」

 「ああ、忌引きで休んでたよね」

 「両親が出張の多い仕事をしてたから、子どもの頃はずっとお母さんの実家に預けられててね。離婚して実家に帰ってきた伯母さんと、おじいちゃんとおばあちゃんがわたしの家族みたいなものだった」

 「みたいなものって、それは普通に家族でしょ。一緒に住んでるんだから」

 「みたいなものだよ、あくまでも」


 感謝はしているし、親愛の情もある。ただ、あのひとたちを家族だと言えるだけの温かさが、わたしにはない。


 「お正月に一緒にご飯を食べた時には伯母さんが死ぬなくて想像もつかなかったけど、脳出血で突然、ね。呆気にとられた、っていうか。棺に入っている伯母さんの顔を見ても、ぜんぜん涙が出なかった。まだ小学生のいとこが大泣きしてるのに、わたしは平然と立ってるの。なんだか情けなくなっちゃって」

 「情けなくなんて……それは、ささねが強いからで」

 「泣くのを堪えるのは強さだけど、泣かないのは強さじゃなくてただの無神経だよ。でも、だからこそ感情と理解がべつの方向を向いてしまうことって、珍しくもなんともないんじゃないかな。無神経なひとはいくらでもいるんだから」

 「そういうもんなのかな」

 「そういうものだよ、わたしも蓮江と同じ」


 同じ、という言葉が効いたのか、蓮江の表情からは次第に曇りが晴れていった。

 わたしは、無償の愛というやつが嫌いだ。許せない、と言ってもいい。

 与えられるものは、常に与えたものと等価であるべきだ。愛した分だけ愛されて、憎んだ分だけ憎まれる。物理学の原則と同じように、感情も差し引きが常に正しく行われるのが当然というものだ。だから、わたしは蓮江が犬みたいに懐いた仕草を見せるところが嫌いだ。けれど、わたしが与えた言葉に対して返ってくる笑顔は嫌いじゃない。


 「ありがと、ちょっとすっきりしたかも」


 そう言って、蓮江は立ち上がって堤防の先を見た。特になにがあるわけでもない、一車線の狭い車道。その真ん中を見ているということは、おそらく。


 「そういえば、あれは本当に肉屋の娘さんだったのかな」

 「自首したんじゃなかった?」

 「そうだけど、顔は見なかったから。あのひと、通り魔なんてするような性格じゃなかったし」

 「通り魔するような性格ってなによ」

 「こう、触っただけでも怪我しそうって言うかさあ、うーん、強いて言えばささねみたいな感じ?」

 「……わたしが通り魔になったときは、最初の被害者にしてあげるね」

 「やっ、ちがくて、ちょっと! もののたとえで!」


――この日を境に天候は一気に崩れて、梅雨明けまで快晴の日は一日もなかった。

 長く長く続く雨にいい加減嫌気がさし始めたころに、最初の殺人が起きたのだ。

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