第26話 第六章・決意(4)

 ランプがないので、この世にたった一人、取り残されたような気分だった。今日は月明かりも心細い。目を慣らし、歩き始める。

 川のせせらぎが聞こえる。虫の音も、興奮した気持ちを落ち着けるにはちょうどいい音色だった。

 バニラの待つ泉まで行くと、暗闇の中に明かりが見えた。ランプを泉の脇に置き、ぺたんと座っている。

「お待たせ。終わったよ」

 腕に巻かれたガーゼを痛々しそうに見て、バニラは目を潤ませていた。

「もしかして、泣いてる?」

 驚いて声をかけると、月明かりで光るほど大粒の涙を流した。

「ちょっと、どうしたの」

 慌てたが、バニラは口を真一文字に閉じて泣いている。

「バニラ……」

 そっと手を伸ばすと、バニラは大きな声をあげ、ラーラの胸元に飛び込んできた。

「何? どうしたの?」

 どうしていいかわからず、ラーラは両手をばたばたさせた。

「ごめ、ごめんなさい。あたし聞いちゃった」

 また、大声で泣く。

 聞いた? あの話を?

 憤りとか、裏切られたとか、約束をやぶったとか、そんな気持ちは起きなかった。

 どうして、あの話を聞いたのに、ラーラのそばにいてくれるのだろう。その思いの方が強かった。

「あんなに辛い思いをしていたのを知らなくて、ごめんね、ごめんね」

 同情してくれている。恐れではなく、親しみを持ってくれている。

 それが嬉しくて、ラーラまで泣きそうになった。

「どうして。怖くないの? 私が」

 ラーラの胸の中、ぶんぶんと首を振る。

「短剣を渡された意味とか、恋が出来ないとか、全部全部、知らなくてごめんね」

 謝ることじゃないのに。バニラはどこまでいい子なんだろう。それがとても愛おしくて、ラーラはその髪を撫でた。

「ありがとう、バニラ。私を受け入れてくれて。それだけで十分よ」

 受け入れてもらえないかもしれない、と疑って申し訳ない気持ちになった。


 しばらくして、泣き止んだバニラと家路につく。

 ラーラとバニラは、二人ゆっくり歩いた。緩やかな上り坂も、今日は辛い。

 隠し立てしても仕方ないと思い、すべて話した。バニラが聞いていなかった部分も含め、すべて。

「よかったね、ラーラ。ロクェがやる気になってくれて」

「うん。優しいね、ロクェ」

 ラーラがぽつりとこぼすと、バニラは笑顔になる。

「そうよ、彼はああ見えていい人なの」

 少しだけ、バニラがロクェを好きな理由がわかった。少しだけだが。

「ロクェ、いつも妙な実験ばかりしているけど、これでラーラたちが幸せになれたらいいね」

 妙な実験とはバニラを木に登らせることに代表されるようなことだろうか。あれになんの意味があるのか不明だし、心配なことは多々あるが、まあ大丈夫だと思って任せるしかない。

「妙な実験を迫られても、断りなよ」

 そう忠告するラーラに、バニラは不思議そうな顔をした。そんなこと言っても、バニラはロクェのためならなんだってしてしまうのだろうけど。

報われないんじゃないかな、なんて思いは言葉にしなかった。

「ロクェさんの素性って、どのくらい知っているの?」

 ラーラの質問に、バニラは寂しそうに、小さく首を振る。

「さっきも言っていたけど、妙なことばかりするようになった、ってことくらい」

 そういえば、悪に利用されたと言っていた。

 悪。科学者が悪に利用されるときは、決まって戦争だ。人を殺す薬剤を作り、そしてばらまく。

 ラーラたちの住むこの国は大きな戦争がない国だ。内陸に位置する中立国としての自衛は、戦争を放棄すること。だから、街は建設されて何百年たった今も美しいままなのだと、書物で読んだ。けれど、周りの国ではすぐにいさかいを起こして戦争をしたがる。

 ロクェもそんな悲しい犠牲者だったのかもしれない。だから、人嫌いになった。けれど、それが事実なら彼は本当に能力のある科学者だ。期待が持てる。

夜風が吹く。だいぶ柔らかくなった風はやさしく二人の間を抜けていった。さらさらと、髪がなびく音が聞こえる。

「そうだ、さっき言っていた、男のこと」

 バニラの口から『男』と聞くのは不思議な思いだった。

「ああ、そうね……どうしよう。ロクェがせっかく薬を作ってくれても、完成しないわ……」

 ラーラがそう落ち込むと、バニラは小さく笑う。

「何よ、おかしくないわ」

「その人なら、ここ最近森をうろついている」

 その言葉を聞き、ラーラは一気に顔を青ざめさせた。

「もしかして、ヴィックさん? どうしよう、私を追いかけてきたんだ……」

「どうしてそんなに落ち込むの? せっかく追いかけてきてくれたのに」

「彼は、私を怒っているのよ。ケガをさせられたから。だから、仕返しをしようと追いかけてくるの」

 怒ったヴィックなんか見たくない。会いたい。けれど、怖くて会えない。嫌われていることを窺知したくない。

「それに、血を浄化した時点でヴィックに会ったら、次こそは恐ろしい出来事が待っている」

 それを聞いたバニラは人差し指を立てた。

「でもー。そろそろ迎えに行ってあげないと、死んじゃうかも」

「それはダメよ! 早く助けてあげて! いつから森にいるの?」

「ラーラが森で迷い始めた……一日後くらいかな」

「そんなに……。知ってて、放っておいたの?」

 思わず青ざめる。あんな森に、何日もいるだなんて。

「だってー。ラーラが逃げてるから、危ない人なのかと思って」

「違うわ! とにかく早く助けて!」

 思わずバニラの両肩を握ってゆする。ランプがぐらぐら揺れた。

「あぶなっ……。もう、本当に大好きなんだね」

 その言葉に、ラーラは恥ずかしくなってうつむいた。彼に嫌われても、好きな人が別にいても、自分はまだ好きだった。きっと、これからも。

「ラーラに会わないようにすればいいんでしょ。別々にロクェの研究小屋に行けばいいのよ。あたしが協力する」

「ありがとう」

 ふぅ、と小さくため息をつく。取り乱してしまった。まだ、ヴィックのこととなると冷静でいられない。

「でも、薬が完成したら、ラーラは帰っちゃうんだね」

「まぁ、そうなるけれど」

「寂しくなるな」

 うつむきながら、バニラはごまかすような笑いを乗せて言葉を発した。

「何も、一生会えないわけじゃないでしょう。遠く別の国に住んでいるわけじゃないから、会おうと思えば会える」

「うん……」

 バニラの元気がないと、どうしても悲しくなる。

 これから、何度もこんな悲しみを味わうのかな。ラーラは空を見上げた。

 今日の月は、三日月だった。弱い光を放ちながらも、毎日夜道を照らし続けてくれる月。自分も、そんな人になりたいと、なぜか思った。

 月明かりの中の土色の道は、いろいろな人の行き交う足跡が残る。そこには、悲しみも喜びもあったろう。

 次につく足跡。それが希望に満ちたものであればいいと思った。次にここを通るときは、きっと。

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