第22話 第五章・闇の森(6)

 その姿を見て、思わず悲鳴が漏れる。人だ。人が吊るされている。

「あ、ラーラじゃん」

 顔を青くしているラーラとは対照的に、そこに吊るされた人は明るく言う。その声に、もう一度ランプをかざした。

「バニラ……何してるの」

 バニラは、体中にロープを巻きつけられていたわけではなく、ロープを使い木によじ登っていた。太い枝にくくりつけたロープを、腕と足でよじ登ろうとしている。

「いやー、ちょっとね……あ、ごめん。水持っていくの忘れてた」

 ぶら下がりながら、荒れた息で言った。

「そういう問題じゃなくて」

 ラーラはその姿を見上げながら、諌める。

「どうしてそういう状況になっているか聞いているの」

「あー、これはですねぇ」

 へへへ、と笑うと、その拍子に体がゆらゆら揺れた。「危ない!」と言う前に、甲高い声が響く。

「うるさいぞ、バニラ! 黙って吊るされていないと〝乙女の二の腕限界突破〟が調べられないではないか」

 いきなり小屋のドアが開いた。思わずラーラの肩はびく、と跳ね上がる。

 おとめのにのうでげんかいとっぱ? なんだそれ、とラーラは必死で知る限りの情報を頭から引き出そうとしたが、無駄だった。そんなこと、知っているわけがない。

「……なんだ、オマエ」

 その人は、金色の髪もぼさぼさで、暗闇でよくわかるほど色の白い、というか青い顔をしていた。不健康を体現しているような痩躯は、猫背のせいか小さく見える。年のころは、ラーラと変わらない。

 嫌だな、とラーラは警戒した。

 旅をしてきて分かったことだが、やはり同年代の男性というのが一番、ラーラにとって危ない。年の離れた子供やおじさんなら平気だが、同年代だと恋心が開きやすい気がする。その度、なるべく顔を合わさないようにしていた。実際、本当に毒が効いているかわからない。

 だが、ラーラの嫌な予感など知るわけもなく、男は冷たい瞳でラーラを見た。

「オマエ、臭いな」

 鼻をひくつかせ、大げさに顔の前で手を振った。ラーラは頭にきたものの、実際体を拭いていないし、着替えもしていない。反論できないでいると、男は面白くなさそうな顔であごをつい、と動かした。

「実験の邪魔だ。帰れ」

 しかし、ラーラは首を振る。ランプが揺れ、男の姿を現したり、消したりする。

 ちょっと痛い言葉だったけど、ここで負けてなるものか、と男を睨んだ。よく見れば結構な美形だけれど、不潔さではラーラよりも上をいっている気がする。

「そういうわけにはいきません。バニラにこんなことさせてひどい人」

 強く言うと、その男はふっと薄ら笑いを浮かべた。自信に満ち溢れた顔だ。

「別に、バニラは好きでやっているだけだ。そうだろ?」

 相変わらずぶら下がっているバニラに、同意を求めた。

「そうなの。あたし、ロクェの役に立ちたいから。大丈夫、心配しないで。危ないことはしてないから」

「今が十分危ない状態じゃないの? 二の腕、ぶるぶるしてるよ?」

 呆れていうと、バニラは照れたようにはにかんだ。

 そうか、バニラはこの変な男、ロクェに恋しているんだ。

 そう思うと、少し安心した。バニラの好きな人なら、自分の気持ちにブレーキがかけやすい。それに、あんまりタイプじゃないな、とラーラは冷静になっていた。これなら、じっくり顔を拝んでも大丈夫だろう。

「部外者は口を出すな。さっさと帰れ」

「そうはいきません。バニラのお母さんから、ちゃんと連れて帰ってくるようにいわれているし、それに……」

 本題が残っている。けれど、今話すべきだろうか。というか、この人に話していいものだろうか。深刻な話だけど、とりあってくれそうもない。相当、おかしい人のようだし、とラーラはロクェをじろじろ見た。

 緑色の瞳。金色のぼさぼさの散切り頭。麻のズボンは膝が抜けそうで、ウエストも合っていないからサスペンダーで支えている。相当ウエストが細い。ちゃんと食べているのだろうか。そんな心配までしたくなるような痩躯だった。

「なんだ。文句があるなら黙っていないで言え」

「いえ、その……」

 もうちょっと、まともな人だと思っていたのにな、とラーラは落胆していた。

「バニラ、今日は帰りましょう。落ちたら危ないから、早く降りてきなさいな」

 ラーラの言葉に、ロクェはあからさまな不満顔を浮かべた。

「勝手に話を進めるな」

 ラーラはロクェを睨んだ。

「あなたは、女の人が非力だということを判っていない。こんな状態で体を支えるなんて無理です! 彼女にケガがあったらどうするんですか?」

「それはダメだ。バニラ、早く降りて」

 ロクェは即答した。それが意外で、ラーラはちょっと驚いた。この人なら「そんなもん知るか」と言いそうだと思っていたから。

 バニラはすとん、と地上に帰ってきた。

「バニラ、怪我ない?」

 ラーラが声をかけると、大丈夫、と答えた。でも、腕をさすっているところを見るとやはり腕は痛そうだ。

「ラーラってば、言うこと言うのねー」

 きゃっきゃと笑いながら、感心して言うバニラに対し、ロクェは視線を送っていた。不思議なものを見るかのように。

 視線の意味は分からないが、バニラの手をとった。

「さ、帰ろう」

 有無を言わさず、小屋までの道のりを歩き始めた。

「え、え。あの、ロクェ。明日また来るから!」

 バニラは振り返りながら言った。ロクェからの返事はなかった。その代わり、ラーラに問いかけがあった。

「おい、オマエ」

 二人は足を止める。何事かと振り返り、ランプを持ち上げると、ロクェはその明りの中でラーラをじっとみつめていた。

 なんだ、と身構えていると、すたすたと近付いてきた。

 瞳を覗き込み、あごを持つ。ぐい、と下に引き、口をあけさせた。口腔を覗き込む。

 何をするんだ! と言い返したいが、ロクェの力は強かった。これが、男の力なのか。

「オマエ、アファレトの根を食べたな」

「え……?」

 聞き覚えの無い単語にラーラは首を捻る。

「あれを食べてよく生きていたな。また食べたかったら来い。私も持っている」

 それだけ言うと、ラーラから手を離し、小屋の中に入っていった。

 アファレト? もしかして、あの毒のことだろうか。

「なーに? なんのこと?」

 無邪気に尋ねるバニラには、曖昧な笑みを返し、歩き始めた。なんで、わかったのだろう。天才というのは本当なのかもしれない。瞳と、口の中を見ただけで分かるのだから。ラーラの胸は高鳴った。

 しばらくは、無意識のうちに走るように歩いていたが、それに気がついてラーラは歩く速度を落とした。バニラと二人並んで歩く。

「バニラは、あの人のこと好きなんだね」

 うつむいて言うと、バニラは元気に答えた。

「うん!」

 羨ましいな、と思った。バニラは人を好きになってもいいんだ。

「ラーラにはいないの?」

 無言で首を振った。

「恋は、もうしないんだ」

 小さな声で呟き、それから余計なことを言ったな、と反省した。

 その落ち込んだ様子をバニラはいぶかしんだ。それを感じたラーラは、明るい声を出し、バニラの脇を指でつついた。これ以上深入りされるのは怖い。話を変えた。

「好きだからって、あんなことさせていいわけ?」

 すると、バニラも笑顔を見せる。

「いいの。あの人の役に立てるなら」

 輝いた瞳で言う。その瞳に、狂気はなかった。ただただ純粋に、誰かを愛している。

「それに、優しいんだ。さっきみたいに、ケガでもしたらどうするの、って言うと無理強いはしないから」

 それが、優しいという基準になるのかな。ラーラには分からなかった。でも、瞳の純粋な輝きに目をあわせられない。

 ラーラにも、ゼフィラにもそれはなかった。恋したとき、ふたりのその瞳には赤い狂気が浮かんでいた。

 ゼフィラの、ラーラを拒否するマゼンタ色の瞳、そしてヴィックの瞳に映る自分を思い出し、思わず足を止める。

「どうしたの?」

 首を振る。また歩みを進めようとしたとき、バニラのはしゃいだ声が聞こえた。

「わぁ、今日はお月様が綺麗!」

 言われて、空を見上げる。月は丸く、強い輝きを放っていた。まるで十字架のように、光は四方向へと延びている。周りの星がかすむほどの光は、白いオーガンジーが空にかかったようだった。

 そういえば、こうやってのんびりと空を見ることがなかったな。この一年間、ずっと文字を見ていた。勉強だけの一年。

 家の隙間から、小さな空の月を眺めたことを思い出した。あれが、のんびり月を見た最後。ヴィックの家の近く、身を隠していたときのことだ。

 ゼフィラとは、こうやって空を眺めて、いろんな話をした。あの絵本を見つけるまでは、主に村の話。自分の母親の悪口とか、畑仕事への愚痴とか。悪口といっても、可愛いものだ。すぐ殴るとか、すぐ怒るとか……基本はグロリアの悪口だった。

 絵本を見つけてからは、もっぱら恋の話。まさか、こんな結末になるなんて、思いもよらずに。

 昔のことを思い出し、目を閉じた。あまりに月の光が眩しくて、責められているような気さえしたから。

「なんだか、月にくちづけしているみたい」

 その言葉に、目を開く。

「え?」

「そうやって、目を閉じてると、神話に出てくる女神様みたい」

 うん、絵になる、とバニラは手を後ろに組み、いろんな方向からラーラを見た。

 神話がどんなものか、ラーラは最近知った。信仰はしていない。

 男と女がいて、それで世界が作られるということは、神話の世界において大きな比重を占める部分でもあるから、今まで教えてもらえるはずもなかった。

「そんな、崇高なものじゃないわよ……」

 力なく言うと、バニラは真面目な顔つきになった。

「何か、あるんでしょ。ここに来た理由」

 話すべき時が来た。バニラには話してみたかった。

 拒絶されるかもしれないという恐怖と、理解してくれるのではないかという希望を、バニラは感じさせてくれていた。

 でも、まだいい。まだ怖い。

「まずは、ご飯、食べよう」

「うん」

 バニラはラーラの腕に絡みついた。それがゼフィラのようで、ラーラは寂しくも、嬉しくなった。

 しかし、バニラはすぐにラーラから離れてしまった。開いた左腕に、夜風が冷たく突き刺さる。

 急に、不安になった。けれど、眉間にシワを寄せた表情を見て、その理由が分かった。

「臭い……?」

 しかし、バニラは首を横に振った。けれど、完全に鼻の呼吸をやめているのは、ぽっかり開いた口を見れば分かる。

「……いいの。ここ何日か、汗をかいたのに着替えもしていないし」

 落ち込んで言うと、バニラはラーラの腕を取った。

「綺麗にすればいいんだよ!」

 帰り道からそれて別の方向に向かう。

 向かった先は、カメが転がったままの泉だった。

「え、今?」

 着替えも、タオルもない。そんなラーラのためらいを無視し、バニラはラーラの手からランプをもぎ取った。

「いってらっしゃーい」

 背中を強く押され、ラーラは泉の中に落とされた。

 ぼこぼこと、耳の中まで水の音が響く。驚いたあまり、少し水を飲んでしまうが、どうにか冷静さを取り戻し、体勢を整える。

 水面に顔を出すと、新鮮な空気が体に入ってきた。水位は、足がちゃんとつく高さだった。落ち着いて水面を見ていると、マゼンタのビンが浮かんできた。首から離れてはいないが、あわてて手で掴む。なくしたら許さないから!

 じろり、とバニラを睨む。顔にへばりついた髪の毛を手でどかしながら、文句を言う。

「何するの! 危な……」

 後半は、咳き込んでしまってうまくいえなかった。

「えー、だって体も服も汚いなら、いっぺんに洗った方がいいでしょ?」

「タオルとか、着替えとかはどうするの。結構寒い!」

 睨み付けるラーラに、バニラはようやく頭をかいて困った顔を浮かべた。

「あー、そういうものも必要だったね」

 すると、ランプを地面に置いてバニラも泉に飛びこんだ。水しぶきをかぶったラーラは、また咳き込むハメになる。

「これでおあいこ」

 長い金髪が水面を覆う。にっこり笑う顔が、月明かりの下輝く。

「……変な子」

「ラーラだって、変な子だよ」

 年下に変な子呼ばわりされるとは。ラーラは苦笑する。

「バニラは、私のこといくつだと思っているわけ?」

「え、わかんない。あんまり人を見ないからなぁ」

 うーん、とラーラの顔をじっと見る。しかし、ラーラの瞳を見ると、ちょっとおびえたような表情になる。気のせいかもしれないが、ラーラは泉に視線を移す。暗くてわからないが、大丈夫、『普通の』顔だと安堵する。

「十八よ」

 うつむいたまま答え、手で水面を揺らした。ラーラの顔は歪んで、波打つ。そして静かにまた鮮明さを取り戻す。

「へぇ、まあ、そんなもんか」

「バニラは?」

「十四だよ」

「……やっぱり年下」

 ぼそりというと、バニラは首をかしげた。

「何か、変?」

 バニラにとって、年上との接し方はこれで正解らしい。まあいい。

 ラーラはもう一度泉にもぐる。

 するとバニラもそれについてきた。闇の水の中、月明かりを頼りに目配せする。バニラは面白そうに口を膨らませた。笑いを我慢している様子。笑わせてやろうと、ラーラは自分の顔をひっぱって面白い顔を作る。バニラは空気をたくさん吐き出し、先に水上にあがった。

「私の勝ち」

 手で髪の毛を押さえながらラーラもあがった。咳き込みながら、バニラは顔に滴る水を拭っている。

「もう、ラーラって意外と面白いんだから」

 ラーラが何かやると面白いという方向になってしまうらしい。それは橋での踊りでも証明された。

 本当にコメディエンヌになろうかしら、などと考えていた。

「さっぱりしたことだし、帰ろう。おなかすいた」

「うん」

「あ、カメも持って帰らないと」

「えー、重い」

「盥にすればよかったのに」

「うっかりうっかり」

 二人はカメに水を汲み、泉を後にした。二人が歩いた後は、水が新たな道を作っていた。



 それから小屋に戻り、着替えをすませ、髪の毛が濡れたまま夕飯を食べた。その前に、バニラはお説教をくらったのだが。子供たちはみんな寝てしまっていたので、おかげで静かな夕飯となった。

 バニラの母の作る料理はおいしかったけれど、やっぱりグロリアには敵わないな、と心の中で思った。

「あの、きちんとお金支払います」

 食べ終わってそう申し出ると、バニラの母は首を振った。

「お客さんにいちいち金なんかもらえないよ」

「でも、しばらくはここにいるつもりですし……」

「けど、ここで金あっても、使い道がないんだよねぇ」

「じゃあさ、畑仕事でも手伝ってもらおうよ!」

 バニラの提案に、母は不満そうな表情を浮かべた。

「あんたがサボりたいだけでしょ」

「へへ……」

「私は、そうしていただけると嬉しいです」

 かくして話はまとまった。

 あの小屋に帰る。ドアを開けると忘れていたホコリ臭さが鼻につく。明日、掃除をしないといけない、とラーラは顔をしかめた。あんまり掃除は得意じゃない。

 それに、バニラにここへ来た本当の理由のことをいつかは言わないといけない。いつ切り出すべきか、ラーラは明かりもつけずひとり考えていた。しかし。

「ラーラ、おやすみ」

 いつの間に着替えたのか、バニラはすっかりベッドの中だった。

「え、もう寝るの?」

「早寝早起きは大原則です。それじゃ、いい夢を」

 といって、本当に寝息を立ててしまった。意気込んでいたラーラは肩透かしを食らった気分だが、仕方ない。着替えをすまし、ラーラもベッドにもぐることにした。かび臭いにおいに耐えて眠るのは辛い。しかしようやくゆっくり眠れると思えば、気にもならなくなった。


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