第21話 第五章・闇の森(5)

 思わず、涙がこぼれた。今は一人だから、泣いたっていい、という油断だった。いけない。慌てて拭うと、目を開いているバニラと視線が合った。ラーラは驚いて動きを止める。

「ラーラ、どうしてここに来たの?」

 それは、さっき見せた大人の顔のバニラだった。

 バニラには、話さなくては。せっかくここまでこれたのだから、なんでもいいから教えてもらいたい。

 でも、なかなか口をつくことはなかった。どう話したら、わかってくれるだろうか。

「水、だよね」

 バニラは髪を手グシで整えながら起き上がる。

 まだ、話を保留にしてくれるようだった。

「汚いなぁ。洗わないとダメみたい」

 キッチンに置いてある水がめを、顔をしかめながらよいしょ、と手に持つ。かなり汚れているようだ。

「汲んでくるから、ちょっと待っててね」

「大丈夫? 一人で」

 手伝おうと手を出すが、さっと避けられてしまった。

「お客さんはゆっくりしていてくださいな」

 ね、と無邪気な笑顔を見せ、バニラは家を出て行く。

 なんだか力が抜けて、ラーラはベッドに腰を落とした。ぶわり、とホコリが舞う。ちょっと咳き込みながら、バニラのことを考える。

 不思議な子だ。本当は、ラーラのことをすべて知っているかのような目をし、大人びた顔をする。でも、いつもは親に甘え、弟たちの面倒を見るお姉さん。

 短時間でたくさんの顔を見たラーラは、バニラのことを理解出来ないでいた。

 ところで、どうやってここに来た経緯を説明しようか。誤解を与えてしまえば追い出されてしまうかもしれないし、ある程度本当のことを話さないと科学者の話も聞けないだろう。

 頭をめぐらせて考えていると、すぐに時間がたってしまった。窓の外は日が暮れて、薄い闇が立ち込めていた。バニラが出かけた時、まだ空は夕焼け色だった。

 水を汲む、ってどこまで行ったんだろう。

 それから、いくら待ってもバニラが帰ってこなかった。窓の外では、闇の中にぽっかり月が浮かんでいる。

 ラーラは落ち着きをなくし、うろうろと部屋の中を歩いた。夜目がきくとはいえ、ランプの場所もわからないのは困る。

 ドアを開けて外を見てみるが、バニラはおろか人の気配はない。家の中から、人の声が聞こえるだけ。

 もしかしたら、自宅に戻って遊んでいるのかもしれない。心配し続けてもしかたないから、とりあえずバニラの自宅に行ってみることにした。

 ドアを叩くと、バニラの母親が出てくる。中からふわり、と肉を煮込んでいるような匂いが流れ出てきた。

「あら、えーと、名前はラーラ、だっけ?」

 暗闇に立つラーラを、ちょっと驚いた様子で見る。この村では珍しい黒い髪で、すっかり闇に溶け込んでしまっているせいかもしれない。

「あの、バニラ、帰ってきていませんか? 水を汲みに行ったまま戻らなくて」

 あらま、とバニラの母は目を丸くした。

「お客さんを放って、あの子ったら」

 あまり、驚いてはいない。ラーラは真意を確かめようと、続きを目で促した。

「あの子ね、この山に住む科学者の元に弟子入りしてるの」

「科学者……」

 それが、ラーラの探していた人かもしれない。にわかに胸が高鳴る。

「森で拾った一人目。それで、朝晩構わずふらっとその人のところに行ってしまうんだよ。困った子だよ、ホント」

「じゃあ、私迎えに行きます。場所、教えてくれませんか」

 急ぎたい気持ちを抑え、ラーラは極めて冷静な口調で言った。

「そうだねぇ、今こっちも手が離せないし、お願いするよ。お客さんなのに悪いね。あとで説教だよ、って言っておいて」

「は、はあ」

 この人も、グロリアのように鉄拳制裁をするのだろうか。グロリアは細身だから破壊力はないけれど、この人だったら……ラーラは無意識に背筋を振るわせた。

「場所はわかりやすいけど、一応地図を描くから。中で待って」

 ドアを大きく開き、先ほど通されたリビングが目に入る。子供たちが、テーブルについてぼんやりしていた。それを、タバコをくわえた男性、おそらく子供たちの父が目を細めて見ている。

「あんた、さっき言ったお客さんだよ」

 バニラの母はそういうと、奥へ引っ込んだ。

「はじめまして、ラーラと言います」

 頭を下げると、バニラの父は視線をゆっくり向けた。

「おぉ、君がべっぴんなお客さんか。確かに確かに」

 朗らかな笑顔で言う。バニラの顔は、父親似なのかな、と思った。顔はつるっとしていて、髭でもじゃもじゃしているわけでもない。

「みんな、昼間はあんなに元気だったのにどうしたんですか」

 具合でも悪いのかと思い尋ねてみる。

「いや、お腹がすいて動けないのさ。夕飯待ち」

 そんな忙しい時間に来てしまったのか。ラーラは慌てた。

「ご、ごめんねみんな。すぐ帰るから」

「あ、お姉ちゃん。いたの?」

 ……子供というものは、とてつもなく自由な生き物だ。

「ほら、手貸して」

 黒く細長い石炭のようなもので、ラーラの手の甲の上に地図を書いてゆく。

「悪いね、紙なんて上等なものなくって」

 紙は貴重品。手の甲をメモ代わりにするのはよくあることだ。

 しるしや線を書きながら、ここは水を汲む泉、小川、大きな木、家と説明されていった。

「現在地がここ。んで、ここから出た道をまっすぐ下ると、小川が見えるわけ。水汲みはそこからちょっと横にそれた泉でやってる。で、その小川沿いに歩くと科学者の住む家があるから。小川、本当に小さな川だから、見落とさないようにね。じゃ、よろしく」

 ぱん、と肩を叩かれる。予想通り、結構な破壊力だ。

「ありがとうございます。忙しい時間にすみません」

「いいんだよ。元はといえば、ふらふらしてるバニラが悪いんだから。暗いからランプを持っていきなよ」

 そういうと、リビングの隅にあった古ぼけたランプに油をさし、火をつけてくれた。

「ありがとうございます」

「バニラのこと、よろしくね。夕飯もうじき出来るから、早いとこ帰っといで」

 じゃ、とキッチンに引っ込んでいった。

 リビングで今か今かと夕食を待つ家族に挨拶をして、ラーラは家を出た。

 ランプの明かりは、暗闇に小さな太陽が下りてきたようだった。少し肌寒い。肩をすくめながら、ランプに紙をかざし、山のなだらかな傾斜を下っていった。

 さくさく、と柔らかい土を踏んでいく。ランプをかざすと、真新しい足跡があるのがわかる。おそらくバニラだろう。

 紙に書いてあるとおり、小川の見えるところまで下りてきた。本当に小さい、水路のような川だった。

 迷ったが、もしかしたら泉で具合が悪くなったのかもしれない。川の流れに逆らい泉の方に行く。すぐに泉のある場所に出た。

 そこは草が生い茂っている。一筋、通行用に草が刈られたところを見つけ、そこを歩く。

 泉の淵、ランプであたりをかざすが、その明かりの中にバニラはいなかった。念のため、くまなく探すと、先ほど持っていったカメが置いてあった。触れてみると、水で洗ってある。けれど、中身はからっぽ。そもそも、こんな大きなカメに水を汲んだら、一人で運べないではないか。小さな盥にでもすればいいのに。

 やっぱり、あの科学者のところに行っているのだろう。ラーラは川の流れに沿って歩こうとして……先に水を飲んだ。もう我慢できない。待望の水分に、ラーラは髪を手でくくることも忘れ、泉に口をつけて水を飲んだ。

 かなり、髪は濡れてしまった。しぼると、たっぷりの水分が流れ出た。汚れているせいか、ちょっと脂っぽい。風が髪を撫でる。ぶるり、と体が震えた。まだ夜は肌寒い。二の腕を服の上からさすりつつ、小川沿いに歩く。

 遠く、明かりが見えた。あの小屋だな、とラーラは歩みを早めた。

 小屋の壁面は木の丸太で作られている。この辺りの家はすべてそうなっているから、ここも同じ人が作ったのだろうか。

 川の揺らぎが、月明かりの助けを借りて壁に模様を作る。

 家の側には、大きな木があった。その木に、何かがぶら下がっている。洗濯物? その割に大きいけれど……不審に思ったラーラはランプをかざしてみた。

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