第19話 第五章・闇の森(3)

 さすが、闇の森。

 昼間でも、その森は明るさを取り戻すことはなかった。それは、ラーラたちの村のふもとのあの迷いの森とは大きく違うところだった。

 森の奥深くに進んでいたつもりが、いつの間にかスタート地点に戻ってしまうのだ。ヴィックも同じように迷っているのだろうか。それとも、諦めてくれただろうか。そうなると、もう会えないかもしれない……そう考え、どんなに罵倒されてもいいから、ヴィックに会いたくなってくる。それどころじゃないのに。嫌われることが今までなかったので、人から怒りを買うということが怖くてたまらない。

 ヴィックに嫌われたら、どうしていいかわからない。

 それならばまだいい。もし、毒が効いていなかったらと思うと、会うことは出来ない。毒が聞いているだろうが、絶対とは言いきれない。自分を信じられない。もう、あんな怖い思いなどしたくない。

 ラーラは、すでに三日、この森をうろついている。

 そして、また、夜がやってきた。昼間でも暗闇とはいえ、夜の闇はもっともっと深くなる。

 街に戻るのも億劫なので、毎日ここで野宿をしていた。お金がなくて野宿するのと、お金があって野宿するのでは、ラーラの意識が違っていた。気分的には「野宿してあげている」という余裕があるため、ひもじい思いはしなかった。けれど、ここは闇の森。恐怖はある。ヘビやクモなどは、たいして恐ろしくはない。

 ただ、眠るのが、とても怖い。

 その間に、森に吸い込まれて、二度とここに戻ってこられなくなってしまいそうだった。

 そんな時は、あの絵本が心の支えになってくれた。絵本を抱きながら眠ると、不思議と安堵感が生まれた。大丈夫、ここに戻ってこられる。毎日毎日、絵本はラーラの腕に抱かれていた。まるでヴィックに抱かれているかのような心地になる。優しかったころのヴィックに。

四度目の朝を向かえ、しっかりと握っていた絵本をザックに戻す。薄暗いので、いくら目をこすっても視界は拓けない。これでも、ヴィックよりは見えているはずだ。ヴィックはもう、諦めた。きっとそうだ。それにしても、体が痛い。

 正直、引き返してちゃんとしたところで眠りたかった。

 しかし、街に戻ることは出来ない。ヴィックに会ってしまう。

 どうにかして、この森を抜けないと、とは思うのだけど、なにせ木に寄りかかって眠る毎日なので、足も腕も腰も頭も……とにかく全身が痛い。ヘビはやたら出没するし、虫も何度口や鼻に入ってきたか。

 足にはマメも出来たし、服も体も汚れている。マメからは出血が止まらない。些細な傷でも、治らなくなってしまっていた。昔はこんなことなかったのに、毒を飲んで以降、そんな体質になってしまった。

 体勢を整えるべきか、とも思うけれど、ラーラは意地になっていた。ヴィックに会うのも怖い。それに、街に戻ったら負けを認めたような気になってしまう。勝ち負けの問題でないことは百も承知。でも、そうでも思わないと嫌になってしまいそうだった。

 とりあえず、今日もここで休もう。代わり映えのしない風景の中、野宿場所を決定する。

 ザックから乾いたパンを取り出し、少し口に含む。ゆっくり噛んで、流し込む。水筒の水はもうなくなっていた。毒を飲んでから、食事量もだいぶ減った。食べ過ぎるとお腹が痛くなってしまう。

 意地を張ってもしかたない。食料もこれで最後だし、水がなくなったのは痛い。体も完全に戻ったわけではない。朝起きたら、いったん、引き返すか……ヴィックもいないだろうし。

 ラーラはうとうとし始めた思考で気の緩んだことを思っていた。ザックの中にパンを放り込むと、瞬時に眠りの世界が訪れた。仮眠の時間のようだ。

 どれくらい眠ったか、森の中では判断できなかった。でも、漆黒の闇ではない。おそらく、朝か、昼だろう。さて、そろそろ起きないと。目をこすり、ぼんやりと開く。

「あ、起きた」

 横から、ひょい、と長い髪の少女が現れた。ここの森に来てから誰にも会わなかったので、ラーラの口はうまく動かなかった。

「あ、わわわ」

「あわわ、って。そんなに驚かなくてもいいじゃない」

 ふてくされたように言う。

 年頃は、声の調子からするとまだ十四、五才といったところか。長い髪はラーラと同じくらいで、腰まである。その毛先のほうだけ、微妙にカールがかかっていた。薄暗い森の中でも、きらきら輝いているように見えるから、金髪なのだろうか。

 ふと、自分の髪に目を落とす。……まるでヘビみたい。森の中何度もヘビに遭遇し、追い払ってきたラーラは背筋を凍らせた。

 そんな森で野宿できるって、やっぱり神経が図太いんだな、と自分に呆れた。そうでなくてはこんな旅をしようとは思わないだろうけれど。

 ラーラはその少女に声をかける。一度、口の中を唾液で湿らせてから。

「あなた、どこのどなた?」

 その問いかけが面白かったのか、少女は笑う。

「あたしは、この山の上のほうに住んでいる、バニラっていいます。そういうあなたは、どうしてこの森を何日もうろうろしているの?」

 どうして知っているのだろう。驚いた顔でバニラを見ると、ああ、と上を見た。

「森の神様が言ってたの。どうしても、森を抜けたい人がいるから助けてあげなさいって」

 すると、周りの木々がざわざわと揺れた。風はないのに。

 さらに驚いてバニラを見ると、金色の髪を揺らす。

「すごいでしょ。あたし、森の神様とお話が出来るの。ここはね、村の人間以外は誰も入れないの。ただし、あたしと一緒なら別だけどね。あたしは森の神様に愛されているから」

「はぁ」

 なんと言ったらいいものかと、ラーラは言いよどむ。

 どうやら、冗談抜きでバニラには妙な力があるらしい。

 そこで、橋の上で聞いた話を思い出す。

『あの山に、どんな病気でも治す科学者がいるっていう話です。そこには他に人も住んでいて、その科学者のおかげで平均寿命二百歳とか』

 と、いうことは、バニラはその不思議な一族の一人、ということになるのだけど。

 まじまじと見るが、表情まではわからない。バニラは居心地が悪そうに肩をすくめた。

「それより、おねーさんの名前は?」

「あ、ラーラって言います」

 色々なことを調べて、自然に覚えたのは、『街に住む普通』の人にはファミリーネームがあることだ。

 しかし、ラーラの村にその名前を持つ人はいない。それで区別する必要もなかったし、少数の部族では意味もなかったのだろう。

 だから、バニラにファミリーネームを問われるのを少し恐れていた。でもバニラはそれを聞くこともなく、立ち上がってラーラに向かって手を出した。

「なんか、用があるんでしょう? あたしの村まで案内する」

 にこにこと、邪気のなさそうな顔で言う。ラーラはようやくこの迷路のような森から抜けられるとほっとしていた。もしかしたら、バニラにもファミリーネームはないかもしれない。

 バニラは変わった子のようだけど、ここまできたら、森の神の使いにも見える。

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