第6話 第一章・絵本(5)
しばらくは動けなかったものの、いつまでも森の入り口でへたり込んでいては村の人に見つかってしまう。
ラーラは頭をふり、立ち上がった。
なんとしてでも連れ戻さなくてはいけない。
なぜ、恋をしてはいけないのか、わかった気がした。あれほどまで思いつめ、大事なものを捨てても構わないと思える衝動は恐しく感じる。
今なら間に合う。今なら。
ラーラはふらつく足に喝を入れながら、街の中をさまよい歩き始めた。
街行く人、だれかれかまわず声をかけた。始めはためらいがあったものの、次第に声のかけ方も慣れていった。しかし、手がかりは見つからない。
あれほど粗末な服で、この辺りでは黒髪は珍しいはずなのに、人が多すぎて誰も他人なんか気にしていなかった。少数の村で育ったラーラには考えられないことだった。
あちらこちらからいろんなニオイがする。人のニオイというものがあると初めて知った。
男の人には男の人、女の人には女の人。食べ物のニオイに服のニオイ。いろんなものが混ざっていて、どうも落ち着かない。人が多い、ということは大変疲れる。何時間も歩いた。でもゼフィラはいない。
すぐにみつかるだろうと高を括っていたのに、空はすっかり夕方の衣装に着替え始めている。足は畑仕事をした後よりも疲れきっていた。
心配、しているかな。
村がある山を見上げ、ラーラは心細くて気持ちが折れそうだった。今村に戻って、みんなでゼフィラを探せば効率がいい。ゼフィラを置いて村に帰るのは怖かったけれど、夜の森を歩く勇気はない。
森に向かって歩き出そうとしたとき、ふと、家と家の間に黒髪の少女が見えた。
「ゼフィラ!」
走り出して、その少女の後を追った。ボブヘアの、くすんだ白のワンピース。間違いない。疲れた足をものともせず、ぐんぐんとその後姿に追いつく。角を曲がる。
「ゼフィラ……っ」
すぐに角を曲がった時、ラーラは強い衝撃を正面から受けた。絵本が手から離れる。しりもちをつき、しばらく立ち上がることが出来ない。
顔をしかめながら、そっとその相手の様子を伺う。怒られる、と恐縮していた。
顔を上げると、見覚えのある顔がそこにはあった。朝出会った男、ヴィックが目を丸くして立っていたのだ。
「どうしたの、大丈夫?」
かがんでラーラを見る。それよりも、とラーラは辺りを見回した。
「今、女の子がこっちに……」
いない。ヴィックの向こう側にその姿は。どこか角を曲がったのだろうか。
「女の子? 誰も通らなかったけれど?」
首をかしげ尋ねられた。そんなはずは……幻でも見たというのか。
とにかく立ちあがろうとして、腰の強い痛みに顔をしかめる。村の柔らかい土の地面と違い、レンガが敷き詰められたこの街の強さについて行けない。
「立てない……」
泣きそうになりながら呟くと、ヴィックは絵本を拾った。
「うち、どこ?」
「え?」
「授業終わったし、家まで送るよ。それじゃ一人で歩けないだろうし」
にこにことヴィックは言うが、このままじゃ帰れない。というか、村まで連れて行くわけにはいかない。
「大丈夫です、一人で」
無理やり立ち上がるが、すぐによろめいてしまう。朝からずっと歩きずくめで、なぜかヴィックの顔を見て気が緩んでしまった。足に力も入らない。
「無理だって。家は?」
言えない。無言でいると、ヴィックはふぅ、とため息をついた。
「まさか、家出?」
こくり、とうなずいた。余計なことは言わず、嘘をつかないことしかできない。
「あの、お願いです」
ラーラは腰をかがめながら、ヴィックの顔を見ないで言った。
「腰の痛みが治まるまで、あなたの家で休ませてはもらえませんか」
いつもなら、体がどんなに傷んでも、すぐ元に戻る。
沈黙が流れる。どういう反応だろうかと、ちらりと顔をうかがう。ヴィックは困った顔だった。それぐらい、ラーラにだってわかる。
「ごめんなさい。変なこと言って」
初対面に近いのに無理なお願いだった、とラーラは反省した。来た道を帰ろうと、腰を曲げたままくるりと体の向きを変える。
そうか、ここで別れたらもうこの人とは会えないんだ……そんなことが、こんな状況なのに頭をよぎった。明日の約束だって、叶わないかもしれない。今、村に帰れば無理だ。家から出してもらえるわけがない。もう二度と会えない。
その瞬間、背筋が凍る。
今、ゼフィラと同じことを……?
いやだ、そんなの。
しかし、その意味を考える間もなく、ヴィックから声がかかった。
「絵本、忘れてるよ」
ふと、足を止めた。振り返ると、絵本を手にしたヴィックの姿。突如、その本が忌々しいものに思えた。
「もう、いりません」
はき捨てるような言葉になった。今まで、こんな厳しい言葉を口にしたことはない。ラーラ自身驚いていた。
けれど、あんなものを拾い、ゼフィラに見せたからこんなことになったのだ。すべてはラーラの責任。今頃、ゼフィラはどうしているのだろう。そして、ゼフィラの母になんと謝罪すべきか。
「事情はわからないけど、休むくらいならいいよ」
その声に、亀のあゆみを止めた。
正直、今の状態で山登りなど無理だと思っていた。
「いいですか?」
ゆっくり振り返ると、ヴィックは照れたように、空を見ながら頭をかいていた。
少しだけ、それが可愛らしいと思った。
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