第5話 第一章・絵本(4)
「わかった。いいよ」
「ありがとう」
ほっと息をつく。胸に持っていた絵本を抱いた。
「じゃあ、明日。明日の、今の時間でいい?」
確証はないけれど、うなずいた。絶対、来るつもりだ。
「それじゃ」
ヴィックは時間がないのか、その場をすぐに立ち去ろうとした。しかし、数歩進んだところで振り返る。思わずラーラは身構えた。
「名前、聞いてなかった」
「ラーラ、といいます」
そう、とヴィックは笑顔になり、人の多いところへと消えていった。
その後姿が見えなくなると、どっと疲れが出た。
初めて、男の人と、会話をした。
うまくしゃべれただろうか。あれでよかったのだろうか。何か間違いはなかったか。
いろいろ思い返してみるものの、よく思い出せない。それだけ頭はいっぱいだった。ぎゅ、と絵本を握る。
明日、新しい本が手に入るんだ。ゼフィラにも教えてあげたい。
と、そこでゼフィラとはぐれたことを思い出す。大変。探さなくちゃ。
「ラーラ!」
街に戻ろうとしたところ、どすん、と抱きつかれた。犯人はゼフィラ。心配していたわりに、当の本人は顔を赤くし、目を輝かせて楽しそうだった。
「何、どうしたの」
「わたし、恋しちゃったかも!」
「……え、今?」
うふふ、とゼフィラが嬉しそうに、ラーラの肩に頬をくっつけもじもじしていた。まったく心配させて、と呆れ半分、安心半分だった。
「心配したんだから」
「ごめん、でもね、いい人が助けてくれたんだ」
しまりのない口元を手で覆う。助けてくれた人が、恋の相手らしい。
「どんな人?」
人差し指を口元にあて、記憶を探るように宙を見た。
「えーとね、髪の毛が金色で、瞳が緑とか青みたいな色でね、背が高くて、声が低くてね……」
それどころではない。ラーラは大切なことを思い出し、慌ててゼフィラの肩を持ち、揺さぶった。
「ちょっと、忘れたの?」
「え? 何が」
きょとんとラーラを見つめ返す。忘れているな、と感じたラーラは、この希望に満ちた顔が曇るのを想像してため息をついた。それから口を開く。
「私たちは、恋をしてはいけないのよ」
ゆっくり、しっかりと理解できるように言った。すると、ゼフィラはやはり顔を曇らせ、うつむいた。
「そう、だけど……。でもこれがちゃんとした恋じゃないかもしれないじゃない」
そうかもしれないが、この表情を見ると、あながち冗談でもない。
二人にとって、何が本物かもわからない。だからこそ、ラーラは恐れた。直感というのは、恐しいもの。
「それに、どうして恋しちゃいけないかなんて聞いてない。わたし、こういう気持ちになったのは初めてなの」
思いもよらぬ強い瞳で言い返される。はっきりと自分の意見をいう事はあれど、こんなにも思い詰めた 顔は初めてだった。
「理由は……私も知らないけど。でも、何も理由がないわけないと思う」
グロリアを始め、村の人たちが理由もなく二人に意地悪しているとは思えない。現に、村の人たちは恋なんてしていない。マヤ以外、村から出ることもないのだから。
それに、ラーラには『恋』というものが理解できていなかった。何を定義として、人は恋をしたというのだろう。
手にした絵本を見つめる。
家族も友人も捨てて、それでも一緒にいたいと思える人。
絵本では、『恋』の定義をそうしていた。そうであることが本気のしるし。
ゼフィラはそういう人を見つけてしまったのだろうか。まだラーラには考えられない。グロリアを捨て、ゼフィラを捨て、見も知らぬ他人に走ることなんて。
「ゼフィラは、その人を私よりも大切に思っているの?」
否定を期待して尋ねてみた。
予 想に反し、ゼフィラは困惑した。迷っている。瞳がさまよう。それが、想像以上にショックだった。
ゼフィラにとって十六年間、家族同様に過ごしてきたラーラと、今日、ほんの短い時間知り合った男とのことを天秤にかけられている。そう感じた時、今まで味わったことのない絶望が襲った。
村で毎日同じことしかせず、山も谷もない、感情になんの変化もない毎日だった。
だから、今、この感情はラーラにとって初めての経験だったのだ。まるで深い闇が待ち受ける谷底に突き落とされたような孤独。
どうしたらいいのだろう。今すぐ、村に連れ帰るべきだろうか。
ラーラたちにとって、親という存在は絶対だった。
母一人で、ここまで育ててくれた。言葉も、勉強も、仕事もすべて、教えてくれるのは親なのだ。
そんな人を裏切ることは出来ない。ラーラだけじゃなく、ゼフィラだってそうだと思っていた。
そんなこと、出来るわけがない。甘ったれで、母か祖母、ラーラがいなければ一人で何も出来ない子。村で一番の年下だから、皆から愛されて育った。
しっかりもののラーラと、頼りないゼフィラはいつも比較されている。実際、今日ここに来たのも、ラーラが言い出したからにすぎない。
それなのに、それほどまでに、人を恋しがるというのか。
「じゃあ、ゼフィラは、私や、あなたのお母さんを裏切って、その人のところに行く勇気、ある?」
そう言えば、思いとどまると思った。恋とはいえ、ゼフィラには未経験のこと。いざとなれば、村に帰りたくなるに違いない。
ゼフィラは瞳を揺らした。黒い瞳の淵が、マゼンタに染まる。ラーラは、その時、もうゼフィラから「ラーラの元にいたくないの」と言われた気がした。
「あなた、まさか……」
瞳に拒否され、狼狽した。お願い、待って。もう少し考えたって遅くないよ。そう言いたかったのに、口はそれ以上動かなかった。
ゼフィラ自身が自分の反応に驚いている。
「どうしよう、わたし、わからない……なんで、こんなに悩むの? おかしいわ」
「帰ろう、ゼフィラ。ね」
説得するラーラの姿に、ゼフィラは涙を浮かべた。
「ラーラ、ごめん。ごめんね」
ゼフィラはそういうと、街に向かって駆けていった。
見慣れた顔も、髪の毛も、その後姿も、すべてがラーラの知らないものに見えた。追いかけて、連れ戻さなくちゃ。そう頭では理解しているものの、足が動かなかった。震えている。ゼフィラに拒否されたことが、ラーラの体にダメージを与えていた。
ずっと一緒にいると思っていた。あの村で平和に過ごせると。ゼフィラが裏切るなんて、夢にも思わなかった。
初めて感じるめまい。立っていられなくなり、ラーラはその場にしゃがみこんだ。
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