第4話 第一章・絵本(3)

 夜も同じ部屋で寝ている。抜け出したともなれば、行きはまだしも、帰れば怒りの鉄拳を用意したグロリアに制裁を受けるだろう。

「なんかいい方法ないかなぁ」

「行くならわたしも行くよ」

 おとなしそうな顔をして、ゼフィラは大胆だ。ラーラはそのつややかで、ふっくらとした頬を指でつついた。

「いい作戦が思いついたらね」

 村は、夕焼け空の色になり始めた。

 作戦なんかないんだよな、と気落ちし、はぁとため息をつくと「今日はおしまいー」という声が聞こえた。

 腰に鈍い痛みを覚えつつ、ラーラは立ち上がった。


「やっぱり家出をしよう」

 好機などそうそう訪れるはずもなく、あれから数日たっただけで痺れをきらした。

「まずいって。相当怒られる。特に、ラーラのママは殴るから」

「私は暴力よりも好奇心が勝るの」

 食物倉庫として使われる小屋の中、二人は密談を交わしていた。倉庫内はぎゅうぎゅうで、蒸し暑いくらいだった。

 結論としては、家出をしてしまうこと。それしかない。

 本当なら、こっそり行って帰ってきたかったのだけど、そんな都合のいいことは出来そうもない。

 だったら鉄拳制裁覚悟でいくのみ、とラーラは気炎を吐いていた。

「ゼフィラは来なくていいよ。巻き添えは可哀想だから」

 しかし、ゼフィラは首を振った。

「ううん。わたしも行く! 今を逃したら、チャンスなんてないもんね」

「よく言った」

 つややかな黒髪をぐしゃぐしゃと撫でた。ゼフィラは目を細め、嬉しそうにされるがままになっていた。

 ラーラにとって、ゼフィラは肉親のようなものだった。でも親とは違う。なんと表現していいのか、村ではこの関係は何に当てはまるのか、見当もつかなかった。

 そのもどかしさも謎もすべて、街に行けば解決してくれる。そんな希望を抱いて二人は家出の計画を綿密にたてていくのだった。


 とはいっても、家出のルールすらわからない二人。

 置き手紙すら残さず、ある朝、まだ陽も昇りきっていない時間に山を下り始めた。大抵の者が迷うという森も、二人にはなんの障害にもならない。

 この不思議な森は、あの村に住む人間にだけは惑いを与えない。

 街についたのは、ようやく人々が活動を始める時間だった。

「思ったより、人がいないね」

 粗末な服はそのまま、荷物も持たずにやってきた。二人にはお金も知識もない。手ぶらで街まで下りたのは、怖いもの知らずのなせるワザ。

「街っていうから、もっとうじゃうじゃ、いっぱい人がいると思ったんだけど」

 マヤから断片的に聞いた様子では、もっと凄い状態を期待していたのだが。もっとも、家はきちんとしている。石造りのしっかりとしたものが多い。

 ラーラは絵本だけを手にしていた。二人がいないということで、部屋の中を探されたら困る品だから。バッグすら所持していないから、裸のまま持ち歩く。

 二人がきょろきょろとあたりを散策しているうち、人はあっという間に増えてゆく。すたすた歩けた道は混雑し、二人は人に当たらぬよう、道の端に棒立ちになってしまった。

 家や商店が活気付き、威勢のいい声や挨拶があちこちで飛び交う。さっきまで広く感じた街が狭くなった気がする。

「ラーラ……」

 不安そうに、ゼフィラはラーラの服をつかんだ。顔色が悪い。

「大丈夫だよ」

 とはいいつつ、ラーラだって困っていた。こんなに人がいたんだ、という思いでその流れを見つめる。

 これが、普通なんだ。

 たくさんの家があって、人がいて。

 ぼんやりと『人間』というものを見つめていた。

 グロリアに勉強を教わり、字の読み書きも数字も数えることも出来る。それで困ったことはないけれど、世の中にはもっとたくさんの学問があるのではないだろうか。

 ラーラはワクワクした。これが、求めていた世界なのかもしれない。

 だけど、今日はこれ以上の深入りをするのはやめた方がいい。ゼフィラの様子では、あまり無理をさせないほうがいいだろう。

「帰ろうか、ゼフィラ」

 今なら、遅くまで森で遊んでいたということにすれば、拳ひとつ分しか怒られることもないだろうし。

 そう思い、ゼフィラの手をとろうとした瞬間。

「その本、僕の!」

 男の声に心臓がはねた。本能的に、それがラーラに向けられた言葉だと思い、ゼフィラの手を握って走り出す。

 奪われてなるものか。これは大切なもの。知らなかった世界を教えてくれるもの。落とした本人に返したくなかった。何も知らないラーラに、罪の意識というものすらなかった。

 人と人の間をすり抜けるというのは想像より困難なことだった。いろんな人にぶつかり、それでもただ逃げた。森に帰れば、街の人間は追ってこられない。

 だんだんと人の数が減る。もうちょっと、もうちょっと。

 髪を乱し、息をきらし、ようやく森の入り口までたどり着いた。人の姿はなく、ようやく落ち着ける、そう思った時。

「ゼフィラ……?」

 つないでいたはずの手が、空になっていた。逃げるのに必死で、はぐれてしまったのだ。

 戻らなくては。ゼフィラを一人にしておけない。あちこちを見回していたその時、一人の男が目の前に立った。

 短髪は、瞳と同じこげ茶色。最初に森で見た人のように毛むくじゃらではなく、清潔感があった。若いからだろうか。ラーラより、少しだけ年上に見える。けれど、やっぱり背が高くて、それだけでラーラは萎縮してしまった。

 どうしよう、男だ。

「逃げるの早いんだから」

 ラーラが何も言えないでいると、男はきらした息を整えながら、つかつかと近寄ってきた。鼻に漂うは、今までかいだことのない汗臭いにおい。

「それ、僕が小さい頃落とした絵本なんだけど。今更、どこで拾ったの?」

 決して悪意ある顔ではなく、微笑すら浮かべている。ラーラには、少し困っているようにも見えた。何に困っているのだろう。小さい頃落とした、ということは、今は別の誰かの手に渡り、めぐり巡ってラーラの手に渡っているということなのだろうか。

 対人関係において、ラーラは表情から意思を汲み取ることなど出来なかった。

「大切なの」

「え?」

 ようやく搾り出した声は小さすぎて、さらに男は近付いてきた。思わず一歩下がる。

「私たちにとって、大切なものなの。お願い、ください」

 初対面の人間に、どうやって懇願していいかわからず、思いつくまま単語で話す。顔が見られずラーラはうつむいたままだった。

 男はしばらく黙った。

 この人は、怒るのだろうか。怒鳴りつけるだろうか。

 おびえながら顔を上げると、男は笑顔になる。

「わかった。幼い頃、祖父が作ってくれた大事な絵本だったけど、いいよ。大事にしてくれるなら」

「いいの?」

 優しい言葉にラーラは安堵した。男という生き物は、思ったよりも穏やかな人だった。この絵本と同じように、穏やかな微笑みを見せてくれる。

『そふ』というものが何か分からなかったが、尋ねる前に男は口を開く。

「他にも、街で売っているようなものでよければうちにいっぱいあるよ。そんなに欲しいならあげよっか?」

「本当? 嬉しい。ください」

 嬉しくて顔が高揚する。すると、男は少しだけ目を細めた。

「でも、今はちょっと無理だからまた今度」

 今度。次はあるのだろうかと、ラーラは不安になる。でも、もっと本が読みたい。

「はい、また」

 すると、男は胸のポケットから手帳を取り出し、さらさらと何か書いて寄越した。彼の着ているものはとても綺麗で、ラーラはなんだか情けなくなった。仕立てのいいジャケットは、高貴さを感じさせる。

「これ、僕んちの住所」

 見ても、ラーラにはその場所の見当がつかなかった。理解できたのは、ヴィック・オルブライトという名前。これが、彼の名前らしい。ファミリーネームを持たないラーラには、この長い名前が不思議に見えた。

 でも、困った。これではたどり着けない。

「あの……」

「何?」

「次も、ここで会ってもらうって出来ませんか?」

 森の入り口。街の人は誰も近寄らない。重厚な空気が流れ出てくるように感じる惑いの森。

 当然、ヴィックは首をかしげた。

「ごめんなさい。理由は聞かないで欲しいです」

 森の奥の、ずっと奥。そこに住んでいることは言いたくなかった。そもそも、あそこに人が住んでるとは思われていないが。

 住所も理解できないと思われたくなかった。

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