第3話 第一章・絵本(2)

 ポプラの綿毛が舞い始めた。

 先ほどの草原から家に帰る途中、空をひとつの白い綿毛が飛んでいった。そろそろ本格的に乱舞するだろう。

そ の時期は楽しみであり、ちょっと面倒な気もしていた。綿毛が地面を覆うと掃除が大変だから。

 コテージのような小屋が五つ並ぶ場所が、ラーラたちが住むところだ。絵本で見たお城の、馬小屋のような家だ。

 街からはだいぶ離れている。ふもとから森を抜け、山を登る。草原を渡り、ポプラの木の間を抜けた山の頂に村はある。名もない小さな村。

 この村は誰にも存在を知られていない。人が住んでいるとも思われていないだろう。

 ゼフィラとは家の前で別れ、おのおのの家に帰る。

「ただいま」

 軽い音を立てた戸を閉めるや否や、グロリアの不機嫌な顔が台所からひょっこりのぞいた。

「どこに行っていたの」

「草原。ゼフィラも一緒」

 少しおどおどしながら、本当の事を言う。しかし、ラーラの母、グロリアはまだいぶかしんでいた。

「あなた、最近怪しいのよ。あれほど村の外に出るなといっているのに……」

「草原は村の一部でしょ!」

「厳密には違います」

「細かい」

 舌打ちをしながら言うと、グロリアは顔を赤くした。

「ダメなものはダメ!」

「どうしてよ」

 ふくれながら言うと、グロリアは黙った。

 聞いてはいけないことを聞いてしまった、といつも後悔してしまうが、いい加減聞いてもいいのではないだろうか。今日は、引くつもりはなかった。

「母さん?」

 あまりに長い沈黙の中、いたたまれなくなりつい母のうつむいた顔をのぞく。すると、グロリアはそのラーラの顔めがけてこぶしを突き出した。

「ちょ、危ないじゃない」

 すんでのところでかわしたものの、結構な勢いがあった。もし殴られでもしたら……思わずラーラの背中は凍りつく。

「余計なことを詮索しないで、裏で畑の手伝いでもしなさい」

 相当、怒っている。瞳の色は黒いが、この村に住む女はみな、そのふちがマゼンタ色に染まっている。よく見なければわからない程度だが、感情が高ぶるとその比率が増える。まさにグロリアは、その比率が秒単位で増えていた。

「そんなに怒らなくても……」

 ぶつぶつ呟きながら、ラーラは粗末な白いワンピースを右手で握った。

「それに、こんなかっこうじゃ街には行けないよ」

 諦めたように呟くと、グロリアの目が光る。

「どうして、その格好じゃ街に行けないの?」

 まずい。ラーラは内心あせった。

 人と比べることなく生きてきた十七年。村には女ばかりが十人しかいない。人数が減ることはあっても増えることはほとんどない。

 ラーラよりも年下なのはゼフィラだけだ。しかし、わずかに一歳だけでは、年下とも呼べない。

 そんな生活だから、これが当たり前だと思っていた。けれど、森に行くようになって人と比べることを覚えてしまった。

 森に迷い込んでくる人間はみな、ラーラたちが身につけているものよりも清潔で、デザインも凝っていた。あれが、普通なんだろうか。街ではきっとそうだ。

 そう心の奥底で思っていたことが言葉になってしまった。

「だって、マヤさんが街に行くときはいつも綺麗な格好をするじゃない」

 村だけでは生活に必要なものは揃わないから、村で栽培した野菜を売りに街へ下りることもよくあること。その金で、生活に必要なものも買う。

 この村で街に下りることが許されているのは、齢三十のマヤだけだった。

 グロリアよりも年下の彼女が街に行けるのに、グロリアもラーラもゼフィラも、街に行かせてはもらえない。

 その苦し紛れの言い訳を信じたのかどうかは定かではないけれど、グロリアはとりあえず表情を和らげた。

「まあいいわ。とにかく、畑、行きなさい。おいしい夕飯作って待ってるから」

「はぁい」

 グロリアの料理は村一番だ、とラーラは思っている。それが毎日の楽しみ。

 ワンピースのまま農作業用の下穿きだけを履く。よごれは染み付き、洗濯では落ちない。ワンピースの裾はたくしあげて、腰の位置に紐で縛る。

 入ってきたばかりの戸を開け、小屋の裏にある畑に向かった。今は春野菜の収穫だ。腰まで伸びている黒髪を紐でくくり、腕まくりをした。

 そこではすでに、ゼフィラが手伝いをしていた。

「母さんに怒られたクチ?」

 こっそり耳打ちすると、ゼフィラのボブの髪がくすぐったそうに揺れた。

「ラーラも?」

 うなずき合うと、野菜を収穫するふりをしながら会話を続けた。

 ここには六名、畑仕事に精をだす女たちがいる。グロリアは織物を作ることが仕事なので、畑仕事はしない。不器用なラーラには手伝えない仕事だ。

「どうして、ここには女の人しかいないんだろう」

 土をほじくりながら呟く。

 ラーラが森で見た中には、自分たちとは見た目も声も違う人間がいた。口の周りや腕に濃い毛が生えていて、始めは獣の一種かと思ったほどだ。

 けれど、何度も森に通うようになり、それが同じ人間で、男という性別を持ったものだと知った。

 時にラーラと同じ女性と、仲良く寄り添うようにして歩く。たくましい腕。太い足。ラーラがはじめて見た男という生き物。

 それが、この村にはひとりもいない。

「男がいないなんて、ただの偶然じゃない? それに、街に行けばもっといろんな性別がいるかも」

 無邪気に言うゼフィラ。

 そうかもしれない。けれど、ラーラが見た中では男と女しかいなかった。少なくとも、この村には男がいない。それは今わかる絶対の事実だ。

「外には、きっと、もっと広い世界があるに違いないと思うんだ」

 知らないことがたくさんある。間違いなくあるのに、なぜこんなにも隔絶された生活をしているんだろう。

 十七年間疑うことなく、それが正しいことだと信じて生きてきた。でも違った。

ラーラの好奇心は、より深い知識を求め、抑圧された心を解放したがっている。

「まさか、ラーラ……」

 不安そうな瞳をラーラに向ける。もちろん、ゼフィラの瞳にもマゼンタの輪が出来ている。

「いつか、村を抜け出そうと思う」

 え、と大きな声を出そうとするゼフィラの口を押さえる。当然、ゼフィラの顔は土で汚れてしまった。慌ててラーラは手持ちのハンカチでぬぐう。

「家出とかそういうんじゃなくて。森に迷う人を見ているだけじゃつまんない。もっと広い世界のことを知りたいだけ」

「でも、どうやって。ママたち、意外と鋭いよ」

「それが問題なんだよね」

 グロリアは一日中家にいる。ちょっと散歩、で森まで行くのが精一杯だ。街まで下りるとなれば、半日は家を開けないといけない。

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