ありがとうを伝えたくて

さんかくこ

第1話

 楠木通りは楠木土手ともいうが、人からどこに住んでるのと聞かれて、楠木通りと答えると変な顔をされて知らないと言われる。どんな人に言っても必ずきょとんとして首をかしげてしまう。タクシーの運転手でも知らないようだ。誰も知らない通り、もしかするとそこに住んでいても、楠木通りなんて言い方は誰もしていなかったのかなと思う。けれど今でもこの通りは実在していて、わたしが生まれ育った場所だ。

 道路幅は広くなり遊歩道は整備されて、春には桜が満開になる通りへと変わった。わたしが子供の頃は通りの端から端までびっしりと家が並び、朝晩に限らず車の往来でいつも混雑していた。この通りから少し広い通りに出るためには、緩やかに左へ続く道の右側が急カーブになっていて、次の曲がり角もまたその次も同じように急になっているため、前を走る車が右折するためにカーブの手前でブレーキをかけると、後続車に影響してよけいに混雑へとつながっていたようだ。またそこは一方通行ではないので対向車と譲り合わなければならない。

 歩道から反対側の斜面には楠木が等間隔に植えてあって、暑い時季歩道は競り出た枝に作られた水鳥の巣から落ちた糞でところどころ白くなっていた。斜面はいつも背の高い雑草が生い茂っていて人を寄せつけようとしない。

 わたしはこの通りを数え切れないくらいに、あるときは三輪車で補助輪のついた自転車で、早朝の通学や買ったばかりの車を運転して、そして歩いて通った。ある日引き出しのずっと奥に入れておいた薄っぺらの懐かしい物語を見つけ出した。

 「おばあちゃん、きたよ」 わたしはドアを睨みつけながら開けてくれるのを待った。いつもならそこは開いていて中に入るとおばあちゃんが 「やあ、きたん」 と微笑んだ。じいちゃんは横になって小さな白黒テレビを見ていた。けれどその日は留守のようだった。

 おばあちゃんとじいちゃんはわたしの本当の祖父母ではない。物心ついたときにはおばあちゃんの家に来ていて、わたしはシャツとパンツ姿で勢いよくかけっこできたはずだ。2歳か3歳くらいで、自分ひとりで道路を渡って来たのだろうか。

 おばあちゃんの家は道を隔てたすぐのところにあって、とても不思議な造りをしていた。道の高さより低いところにそれは建てられていて、入口までは転んでしまいそうなくらい急な坂道になっていた。じいちゃんはときどき坂道を上がったところでたき火の番をしていた。足元は枯葉で埋めつくされてやわらかく、中に入るとそこは半分が土間になっていて、もう半分が畳の部屋で仕切りはなく靴を脱いで上がる。小さなお膳の向こう側にテレビがあった。押入れもあってときどき戸が開いていたりした。 

 童話から飛び出した森の妖精たちが住んでいそうなおばあちゃんの家の中には大きな太い幹の楠木が生えていた。家を建ててから木が生えてきたのではなく、ここにあった木を柱にして家を建てたのかもしれない。きっとじいちゃんがひとりで、おばあちゃんと住むために建てたのかな。わたしは根っこにつまづきそうになったり、爪で木肌をこそげ取ろうとしたり、壁と幹の境目を眺めたりした。

 そうやって道路よりも低い場所に建つ楠木の家には小さな窓があって、そこからいつも明るい日差しが差していたのを覚えている。おばあちゃんはいつもかまどを使っていて、真っ黒になった鍋の下でパキパキと音を立てる炎を見たことがある。わたしはデコボコの大きなたらいに入っていた記憶があり、おばあちゃんがお風呂にも入れてくれていたのだろう。きっとおばあちゃんやじいちゃんもそのたらいをお風呂代わりにしていたに違いない。わたしの実家でもお風呂はなく小学校の高学年になるまでは銭湯に行っていた。

 両親は商売をしていたのでいつも店に出ていた。ある日おばあちゃんがイチジクを持って家にやってきたことがあった。記憶の中にいつもイチジクがあって、それはおばあちゃんにつながっていた。イチジクはおばあちゃんがくれるものだ。以前からスーパーでイチジクの入ったパックを手にすると、どうしてお金を払って買わなければならないのか違和感がするのは、きっと意識の中に植えつけられていたからだろう。

 子供のわたしは薄情だ。いつしか楠木の家には行かなくなってしまった。近所の友達と遊ぶようになったからだ。次第に通りの交通量も増えていったのだろう。

 楠木の家の裏側はバス通りで道路の端に大きな石の塊が何個か集められていた。工事のドリルで削り取った石だったのか、その中のひとつに座っていて小さな水たまりを見つけた。空は晴れているのに石の周辺は濡れていて、よく見るとそれは水たまりではなく中から湧き水のようにあふれ出して砂の粒を踊らせていた。わたしは不思議に思って立ち上がり、その小さな穴につま先を乱暴に入れて穴を潰してしまえば水は止まるものなのか何度も繰り返してみた。その時運動靴を履いていたわたしは、小学生ぐらいだった。もしかすると楠木の家はもうなくなっていたのかもしれない。

 ずっと後になって母に聞いたことがある。 「あの家はボロ家だったから息子さんのところに行っちゃったみたいよ。あんたも覚えとるんなら知っとるじゃろ。」 わたしはとてもうれしかった。おばあちゃんとじいちゃんはふたり一緒に引っ越していったのだから。

 目を閉じるとわたしは懐かしい坂の上に立っている。ドアは開いていて急な坂道を踏みしめながら降りていった。今日は娘たちも一緒で、長女はさっきお昼寝から起きたばかりの孫を抱っこしている。 「おばあちゃん、きたよ。」

 

 

 

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