II.

 一昨日の話だ。私は奇妙な空を見た。

 その日は雲がうっすら伸びる軽やかな天気で、休日ならば散歩にでも出かけたいと思えるほどに良い日であった。しかし夜になるとやや不気味な色をしていて、青と白とが反転したような様相に変わっていた。

 雲が青く光っているように見えて、反対に空は穴が空いたように白の斑模様に広がっていたのだ。

 日没時間かなにかで稀に見える光景ではあるが、見るたび不安な気持ちに駆られる。しかし同時に、美しいとすら感じられるのはおかしなことだろうか。



 私はというと、勿論散歩などせず、脂汗を拭いながら、部屋にこもっていた。『空白の時間』が始まっていたからだ。

 年に一度だったと思う。ややこしい名前の化学物質――通称『消毒液』が散布されていたのだ。害虫駆除なんてレベルではない、明確な殺意を持った兵器だ。

 植物や他の動物に害はないが、人間にだけは効果を発揮する、使いみちなんてひとつしかないだろう、と言わんばかりの代物だ。



 こめかみに銃口をつきつけられた状態で、目の前の女を喰らえ、と言われ、否定するだけの勇気を私は持ち合わせていない。むしろそんな事態が来たならば、その胸は、その脚は、その首筋は、心の臓腑は、どんな味がするのか。懸命に自らの好奇心を呼び起こそうとする。そういう人間だ。



 つまりこの『浄化活動』を、役に立たない人間を根絶やしにするための行為を、そうやすやすと止められる者などいなかった。金や地位のあるものは防護マスクを手に入れ、屋内でがたがたと震える。そうでないものは、どうか私の元には飛散するな、と祈るしかない。

 いらないものは廃棄する。残飯と同じように、ちり紙のように。それがただ人間であるというだけで、あらゆる人種が残酷性を叫ぶのだ。



 私は特に恐怖もなく、口元にマスクを押し当てているだけだった。浄化活動中の外出禁止期間は、その時その時で変化する。巨大なスピーカーから音楽が流されたら、それが解禁の合図なのだ。一昨日には確か、ノクターンかG線上のアリアかが流れていたと思う。

 街にはすでに、息絶えた者などいなかった。死体は調査員が回収し、元通りの姿でそこに再構築されているのだから。



 消毒液が自然消滅したことを確認できたら、ようやくマスクを外すことができる。

 私はしばらくぶりに空気に触れた口元をさすりながら、明日は仕事か、なんてぼんやりと考えていた。

 ゴミ袋には、いくつかの灰が捨てられていた。

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