II.
ぐしゃっ。
この効果音は、私自身が想像で付け足したものだ。たぶん、そういう音を立てたんだと思う。
こう言うとエルなら、
「人間は水分で出来ているから、水風船が弾けるような音かもしれないよ」
なんて、あっけらかんに反論するだろう。
時間にして三秒かそこら。風が私の髪を一払いするのを感じて、フェンスに背を向けた。死を、確認するまでもない。いや、それは強がりだ。確認したくなどない。
彼女は何でも持っていて、私に無いものをたくさん持っていて、なのに空を飛ぼうなんて事を考えていた。そしていとも容易く成し遂げた。
最期まで自分の思い通りに生きてきた彼女を、正直羨ましく思う。
でも、だからといって両手を揚げて喜べるはずもない。いなくなればそれは、確かな喪失感へと変わる。当たり前の話だ。好きな人も嫌いな人も、それが必要だと感じているから記憶に居座るのだ。
私にとって彼女は――。
「おはよう、アゥル」
屋上の扉の前で、エルはついさっきまでと変わらぬ笑顔で立っていた。
「どうだった? 格好良く飛べたかな」
頭部から絶え間なく血を零しながら、変わらぬ笑顔で立っている。
「いてて、右脚が壊れちゃったよ」
指先があらぬ方向へ折れ曲がっているというのに、痛そうな素振り一つ見せず、右脚を引きずりながら歩み寄ってくる。
「どうしたの、アゥル」
「なんで……」
「『なんで生きているの』、かな」
頷くことすらできず、ゾンビのように成り果てた彼女を見つめる。見つめたくなどないけれど、目をそらすこともできない。
「それはさっきの問いの答えと同じだよ?」
制服のネクタイを取って、エルはそれを空高く放り投げた。風に乗って、それは私達とは反対方向に飛んでいった。あのフェンスの向こう側へ。彼女の死体があるはずの場所へ。
「この地域だと、『消毒液』は駅から散布される。液と言っても立派な生き物で、木や花といった植物に反応して流れを生む。蜜を求めて野原を飛ぶ蜜蜂みたいにね」
けほっ、とひとつ咳をすると、小さな口から血の塊が吐き出された。そんな状態になってなお、彼女は喋ることをやめない。
「それが何だって言うの? 人口が増えすぎたって言うなら、税金でも増やして少子化を作ればいいじゃない。邪魔なやつを根絶やしにしたいなら、そうすればいいじゃない。私、政治とかそういうの全然詳しくないけど、いくらでも方法はあるでしょう。わざわざシステム化して選民意識を生み出す理由はただ一つ」
一、と人差し指を掲げられても、それは私から見て二時の方向に折れている。裂けた皮膚の中から、驚くほど白い骨が見えている。
「理由なんてないんだよ。ただ、そうしてみたいから。そうするとどうなるか、知りたいから。私と同じだよ」
「でも、そうだとしても」
「私が生きている理由にはならない?」
ようやく、私は首を動かすことができた。悔しいけれど、彼女の声を聞けば聞くほど、心が落ち着いてくるのを感じてしまう。
「その前に、マスクを付けなくていいの」
言われてようやく、時計を確認した。午前五時四分。早まることはあっても遅れることはない。確実に『浄化活動』は始まっている。
金か人脈のある者はシェルター内で毒のない酸素を吸い、外の景色を想像している頃だ。
マスクに手を伸ばしたけれど、やめた。間に合わないだろう。これだってきっと、死ぬ間際の幻覚なのだろう。
彼女に付き合ってしまったばかりに、とうとう死の道連れに遭ったのだ。
「安心して、ここは消毒液が届くまで少し時間がかかる。それに今日は風が強い。こちらからあちらの方向にかけてね」
放り投げたネクタイは、フェンスの方へ、つまり駅のある方向へと飛んでいった。エルは消毒液を蜜蜂に例えたけれど、言い得て妙だ。
指向性をコントロールできるといっても、風や雨といった自然の力にはある程度影響を受ける。マスクを持たぬ難民が「当たり」と呼ぶ気候だ。
「それにね、貴方は消毒液で死ぬ人を見たことがないでしょう? 私もないよ。ニュースではモザイクをかけられるし、避難勧告が解除されるのは三日後、『遺体を運び終えた後』とされている。でもそれが、最初から『遺体なんて生まれない』と考えたら?」
「……全部、嘘だって言うの」
「それは分からない。目で見て確認しない限りは推論でしかない。でも、誰の悪戯か知らないけど、皆で巨大なエイプリルフールを繰り広げているなんて、そんな妄想も楽しくないかな」
午前五時七分。まだ息苦しさも体内の異常も感じない。いくら好条件が重なろうとも、とっくに消毒液を吸引してしまっているはずだ。
情報では吸引から一分で、咳や目眩、頭痛が起こる。そして数分ののち、死に至る。そのはずだった。
「全ては思い込み、誘導された妄想なんだよ。消毒液も、浄化活動も……生死の概念すらも」
「だから……?」
「今日のアゥルは、頭の回転が鈍いね。死ぬなんて事、ありえないんだよ。私達は生まれつきの不老不死なんだよ」
「でも、寿命による死はちゃんと見たことあるよ」
「うん、それは確かにある。でもそれって、『死ぬんだな』ってふと感じたから、そうなっただけでしょう。長い長い歴史のうえで、死ぬ人がたくさんいたから、『ああ、いつかは死ぬんだな』って思い込んだだけじゃないの。『死なないよ』って信じていれば、死なない。それくらいシンプルな世界になっているって、信じられない?」
信じられない。信じたくもない。私だっていつかは死にたい。いつまでも生きるなんて真っ平ごめんだ。いつか死ぬから生きるのだろう。いつか死ななくてはならないから、生きて幸せを知りたいのだと願うのだろう。
「もしくは、そう信じたい人がこの世のどこかにいるのかも」
数多の反論は声にならず、かすかなうめき声となって風の音に消される。
「アゥル、楽になりなよ。妄想でもいい。幻覚でもいい。ただ、どうせ死ぬんなら、一度確かめてみればいい」
確かめる――空を飛んで。地上にぶつかって。水風船みたいな音を立てて。死んだらそこまで、生きていたらおめでとう。何それ。
「まあ良いよ。私は待っているから」
扉を開けて、階段へと促される。ロボットのようにぎこちない動きで、私はそこへと歩き出す。どうして帰るの。今から帰っても間に合わないよ。私が私にそう告げ口をする。
でも、そんなの、分からないんだ。理由なんてないんだよ。
林檎を齧ることに理由が必要? それと同じことだ。
「ねえ、アゥル。繰り返すけど、私は待っているよ」
薄暗い階段の向こう側、扉のあちら側で、エルはにこやかに笑う。ガリガリ君のあたり棒を持つかつての姿が、ふわりと重なる。
「たくさん死んで、たくさん笑おう?」
扉は閉ざされた。冷たい空気と、どこかで響く水滴の音と、私の呼吸音だけが存在している。
もう一度、この扉を開けたら。エルはそこにいるのだろうか。それとも、これから地上階まで降りて、死体があるか見てみようか。
そのどちらも、今は実行する気になれない。ひどく疲れた。それに、シェルターにいないと他の者に気づかれたら面倒だ。
避難民が全員寝ていることを祈りつつ、戻るしかない。私は生きているから、生き続けられる方法を模索するしかない。
「空を飛ぼう、か」
ふと私は、もう一度だけ、屋上に行こうかと考えているのに気づいた。消毒液よりも強力で、依存性の高い猛毒。
彼女のあの声がまた聞こえてきそうで、それが怖くて、私はシェルターのある方へ走り出した。
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