即効性ジェノサイド

I.

「空を飛んでみよう、とか考えた事ない?」


 エルはいつも鳥になりたがっていた。あの小さな身体に、綺麗とは呼べない脳みそに、色鮮やかな眼に憧れを抱いていた。


「またスピッツの曲でも聴いたの」


 私は消去法で人間を望んでいるだけだが、たまには翼を生やすのもいいかな、なんて考える程度だ。彼女ほどの情熱はない。だから雲の上の風よりも、大地に頭を垂れる雑草を愛でる。


「違うの、例えば高いところから飛び降りたとして、その時ってどんな気持ちになるのかなとか、そういう好奇心って無い?」


「無い」


「冷たいなあ、アゥルは」


 彼女は気分で髪の毛を真っ青に染めるような娘だ。そして色んな人に怒られたり話題に出されたりする。それを良いとも悪いとも思っちゃいない。

 だから普通のロジックが通用しないことはよく知っているけれど、しかし同調したって得をしない。



 助かるのは、私が否定しようと、馬鹿にしようと、ごく稀に共感しようと、エルは怒ったりしない。

 私は私が思うことを口にするだけ。貴方は貴方の思うままに返せばいい。返さなくてもいい。それが彼女の生きるスタンスなのだ。

 故に、いつも側にいたくなるのだろうか。


「ところで」


 電気のつかない八階の階段は、暗いのはもちろん、寒い。スカートを翻して、入舞が一段下に座り込む私を覗き込む。


「これ、何でしょう」


 目の前に、ちゃりん、と小気味よい音が鳴る。銀色の小さな物体。つるんとしたフォルムに、丸と四角の彫り込まれた身体。いちいち聞かれるまでもない。


「鍵だね。屋上のでしょ」


「正解」


 ああ、この先の展開が一瞬で想像できる。腰を上げ、行くの、と上を指す。そこには屋上へ続く重い扉がある。言葉を介するまでもなく、彼女はそこへ鍵をねじ込んだ。



「おっ、良い天気。風が少し強いけど」


 街は一面、灰色を羽織っている。くだらない巨大広告も、毒電波の如き街頭演説も、蟻に似た通行人も、そこにはいない。

 あるのはしみったれた景色と、目には見えない毒物の味。今日は『消毒日』だから、誰も外へ出たがらないのだ。


「いま何時?」


 尋ねる彼女は、素肌を目一杯さらけ出して、二日ぶりの娑婆の空気を楽しんでいる。時計を見る――午前四時五十二分。予定では午前五時より『消毒液』が散布されるが、人間のやることだ、多少早まる時もままある。

 時刻を伝えると、別段焦る様子もなく、


「まあ、大丈夫でしょう」


 と笑いかける。エルはよくても、私は良くないんだよ、と言いたい。最悪の場合は、腰に巻きつけてあるマスクを一足先に付けさせてもらう。

 それでもきっと許されるだろう。彼女だけが死のうとも。それを運ぶこともせず、一人でシェルターに帰ろうとも。


「さっきの話の続きだけど」


「鳥の話?」


「そう。もちろん人間は飛べないけどさ、落ちることはできるでしょ?」


「そうだね」


「林檎の味はみんな似たようなイメージを持てるけれど、落下する景色は『実際に経験した人』しか分からない」


?」


 まあ、誰だって分かる。分かるけれど理解できない。それが普通だ。あと五分余りで『消毒液』が散布され、シェルターへの入居契約を持たぬ者や防護マスクを買えぬ貧民層が根絶やしにされるっていうのに、制服姿で屋上に出る馬鹿を、理解しろという方がおかしい。



 ただし私は適度におかしい人だから、死の危険がくる三秒前までなら、彼女に付き合うと決めている。


「なら飛んでみなよ。貴方、マスク持ってないでしょ。どの道あと四分でシェルターに着かない限り、死ぬんだもの」


「『ジュシュレ・イーブゥル・プレッラ(どうせ死ぬんだから)』。本当、その無関心っぷりが大好きだよ」


 馬鹿で頭のおかしい人だけれど、エルはそれ相応に美しい。美しいから不気味であり、不気味であるから惹き込まれる。そういう女だ。

 私は誰からもほどほどの評価をもらえるだけの顔だから、羨ましく思う。


「さて、アゥルに迷惑かけるわけにもいかないからね。飛びまーす」


 まるでバンジージャンプか高飛び込みでもするようなノリで、右手を掲げるエル。助走を付けてフェンスを一発で乗り越える。

 金網を隔てて、あちらとこちら。仕方なく私もその境界へと足を運んで、あちら側に立つ彼女のすぐ目の前に着く。


「本当にやるの」


「本当にやるよ」


 ガリガリ君のあたり棒を引いた時と同じ笑顔で、彼女はそれが嘘偽りのない決心だと証明する。

 例えそれが、引き返せない選択だとしても。私はそれを止められないし、彼女もまたそれを止めようとは考えやしない。

 つまり、


「一人は嫌だったんだね」


「そうかもね」


 立会人が欲しかっただけ。私にとって付き合いやすい人柄を演じていたのかもしれない。いつからか――空を飛ぼうと思ったその時からだろう――ずっとずっと前から。仲間とも同志とも異なる、ただ側にいてくれる人を探していたのかもしれない。


「あと二分」


 午前四時五十八分。このビルは十階建てだから、飛んで落ちるまではものの数秒だ。踵を返し、走って帰ればぎりぎり間に合う。私だけは。


「ごめんね、何だかんだでもうそんな時間かぁ」


 彼女は防護マスクを持っていない。買おうと思えば百個だって買えるだろう。盗もうと思えばいつでも盗めるだろう。私は自分のものを買うだけでも精一杯なのに。彼女には、私に無いものをたくさん持っているのに。



 何が不満なんだ。何が嫌なんだ。

 そんなに嫌なら、さっさと死んでくれ。時々、そう思う時があった。今もそうだ。落ちるなら早めにね。『消毒液』は吸引しなければ害はないはずだが、肌に良いとも思えないから。


「さてアゥル、あと一分二十三秒くらいかな? それくらいで『浄化活動』が始まるわけだけど、あれがどうして実施されるようになったか、分かる?」


「社会的リソースにならないような、つまり利益にならない人を皆殺しにするためでしょう」


「それなら、『マスクの付け忘れ』とかみたいなを引き起こしかねない手段はとらないよ。もっと単純で、もっとバカバカしい理由だと思うよ」


「それじゃあ、何?」


「それはね」


 午前五時。時計のアラームがけたたましく鳴り出した。年に一度、もしくは二度。その瞬間がやってくる。


「私がこれからする事と、きっと同じ」


 軽く手を振って、彼女はその身を空中へと預けた。

 ふわり。一瞬だけ、この空間から重力が無くなったような気がする。呼吸が止んだ。アラームの音も消えた。この瞬間を知覚しているのは私達だけなのか、と錯覚するほど、世界が静寂に包まれた。

 そして次の一秒で、彼女の姿が消えた。

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