終点三鷹

@otaku

第1話

 私は昔九年程三鷹に下宿していた。十八の春に上京して以来、大学卒業後も定職に就かず、ずるずると。緑の多い町で、かつ都心へのアクセスも良好なのが気に入っていた。それ故、此処には沢山の思い出が存在し、その中には現代日本においては少々不可思議な体験もままあった。三鷹といえば総武線の終点で、終点には津々浦々からあらゆるものが流れ着く。空き缶、酔っ払い、忘れ去られた傘やカバン。そしてしばしば、人間の理解を超える奇怪で異常なものどもがそれらに混じってやって来たりするのである。

 六月のある雨の晩、玄関の戸を叩く音がしたので開けてみると、外には艶艶しい河童が一匹立っていた。私は思わずほお、と声を上げた。

「少し前に貴君の書いた小説を拝読し、大変感銘を受けた。人間の考える河童社会というものは誠に斬新で、正に目から鱗が落ちるようであった。それで是非一度貴君にお目にかかりたいと思い、本日遥々遠野から出てきた次第である」

「僕は確かに物書きだが、そんな作品を書いた覚えはないよ」

 河童は首を傾げる。

「おかしいな、三鷹に住んでいると風の噂で聞いたのだが」井の頭の弁天様にこの近辺で小説を書いている者を尋ねたところ、私の家を紹介されたらしい。

「作品がちゃんと世に出回る程度の小説家で三鷹に縁があるのなら、もしかすると僕の知り合いかもしれないね」その頃漸く私の書いた拙作が世に出回り始めていたのだが、弁天様に地域を代表する小説家のように認められて、私の鼻は天狗の如く伸び、言葉遣いは少し横柄になった。

「貴君は顔が広いんだな」そう言って彼が告げた、国語の教科書にも載っているその小説家の名を聞き、私は直ちに身を正したのであるが。

「確かに三鷹に住んでいたけど、しかし残念ながら、その人はとっくの昔に死んでしまっているんだ」

「そうか、そうであったか」

 折角遥々訪ねてきた彼をそのまま帰すのも無礼に思われたので、雨の中あまり出歩きたくは無かったが、渋々私は御仁ゆかりの土地を案内することにした。陸橋、千草跡、中鉢家跡、野川家跡、禅林寺等々。そうして、中でも河童は玉川上水に深い関心を見せた。

「東京にも案外綺麗な水が流れているものだな」

「氏はここで入水自殺を計って、三十八歳でこの世を去ったらしい」

「人間の一生など元々明け方の月のように儚いものだろうに、その心境は全く理解出来そうにない」

 感傷に浸ったりなどはないが、河童と練り歩いた深夜の町は、まるで全然見知らぬ土地のように思えて不思議な趣があった。人気が全く無くて、木々が恐ろしい程青々としていたからかもしれない。

 全てを案内してなお始発までは大分時間があり、彼は私の書いた小説を読んでみたいと言い出した。私は自信がないと返したが、それでも構わないと彼は言った。

「河童たちはよく人間の書いたものを読んだりするのかい?」

「読む奴も居れば読まない奴も居る。ただ、人間が想像している以上には我らは人間社会に溶け込んでいるだろう」私はそして、彼から一昔前に活躍していたある覆面作家の正体を教えて貰った。

 五時頃に私は河童を駅まで送った。雨はもう小降りになっていた。彼の姿は他の人には見えていないようで、曰く、その存在を信じる者にしか見えないらしい。

 去り際にまた会おうと挨拶を交わしたが、それは単なる社交辞令で、お互い、恐らくもう二度と会う日が来ないことを知っていた。我々と彼らでは流れる時間があまりに違い過ぎるからである。

 後日、河童の言っていた小説が気になって調べてみたところ、太宰治は河童に関する作品を後世に残してはいなかった。多分、芥川龍之介あたりと間違えて憶えていたのかもしれない。しかし、それも仕方のないことである。私だって彼と他の河童の見分けが付く自信は到底ないのだから、彼を責める資格などまたあるはずが無かった。


 今でもふと、私の作品が河童の国でも読まれていたら良いなと妄想することがある。

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