第7話 戦慄の帰路

「クライスが、クライスがやばい!」

 イーヴァの旧友、モーナグが慌てた様子でそう叫んだ。予想もしていなかった一言に、イーヴァの表情は一気に変わって不安さがにじみ出る。

「……は? 何を言っている?」

 とにかくイーヴァは信じられないと言った様子で、とりあえず馬車を止める。即座に御者台から飛び降り、モーナグに近寄ると、静かに、淡々と言葉を交わす。

 荷台から身を乗り出しながら待っていたニルヴァーナであったが、その会話はよく聞き取れない。だが、イーヴァの顔つきがどんどんと険しくなるのを見て、ただならぬ様子なのは伝わった。

「……ああ、モーナグ、悪いが頼む! おい、ニルヴァーナ!」

「え、え、なに?」

 モーナグと言葉を交わし終えると、イーヴァは慌てて御者台に飛び乗った。しかしそれは馬車を動かすためでなく、ニルヴァーナに状況を伝えるため。

「いいか、落ち着いてよく聞け。パニックにはなるなよ」

「え、ああ、うん。……何さ」

「クライスが、貧民狩りに合っている可能性があるらしい」

「……なっ」

 余りの衝撃に、ニルヴァーナは言葉を失う。

 貧民狩り。それは、一部の富裕層が行う、非人道的な行い。

 マギエを使う人々を引き連れ、貧困民の村や町を襲撃。その圧倒的な力で貧困民をねじ伏せ、男女問わず攫い、奴隷にする。貧困層は、その行いに為す術はない。精々、命乞いをするか、逃げ惑うくらいだ。

 クライスはこれまで、傭兵団で生計を立てている関係か、貧民狩りにあうことはなかった。それに、わざわざ転移魔法まで使ってやっとアングマールから行けるような遠方の町なのも理由の一つだった。

「なんで、そんなっ……!」

「今、モーナグが魔法使いや受付に掛け合って、どうにか順番を割り込み出来ないか相談してくれている。俺も、この後辺りを回って多くの商人に割り込みを許可してくれるよう頼み込んでくる。お前はここで待っていろ。くれぐれも、離れない様に」

 そう言って、イーヴァは御者台から飛び降りて、たくさんの商人たちの下へと駆け寄っていった。

 イーヴァが説得をしている間、ニルヴァーナは荷台に座り込み、色々と考え込んでいた。なぜ、貧民狩りが。奴らはクライスには来ないんじゃないのか。なんでこんな遠くまで。

 どうして貧民狩りが行われたのか、理由を考える中で、ニルヴァーナは一つの可能性を思いつく。

 その可能性とは、ニルヴァーナがMID社から逃げたこと。それの報復で、自分を追って、クライスまで来たんじゃないだろうか。

「あ……、あ……」

 それなら、逃げなければよかった。捕まってしまえば、きっと故郷が襲われることは無かったんじゃないか。

「そんな……、嘘だ……」

 このタイミング。この状況。本当に、それしか考えられない。ニルヴァーナの中を、不安が埋め尽くしていく。偶然であるとも考え難い。

 だがニルヴァーナは、それを認めたくはなかった。認めてしまっては、昨日のように不安に押しつぶされてしまうと思った。

 真偽を確かめるためにも、一刻も早くクライスへと帰りたい。しかし、これだけの人数がロムレイアスに集まっている状況では、説得がどれほどかかるか分からない。ニルヴァーナは、ただその場に座り込み、祈る。一刻も早く説得が終わる様に。

 しかし、予想に反して、イーヴァは割とすぐに帰って来た。慌てた様子で出発の準備を整えながら、イーヴァはニルヴァーナに説明を始める。

「魔法使いさんが優先的にやってもいいと言ってくれた。他の奴らには、魔法使いさんが説明してくれるらしい」

「ほんと! そっか、よかった……」

 その知らせは、何よりも嬉しいもの。ほんの一秒すら惜しいこのタイミングでは、とてもありがたい知らせだ。

「よし、すぐに行こう。ロムプリエストに着いたら、すぐに馬車を飛ばす。さっきみたいに激しく揺れるだろうが、勘弁してくれ」

「ううん、俺は大丈夫。どれくらいかかりそう?」

「そうだな……。最低でも三十分はかかるかもしれん」

 三十分。普通なら短く感じる時間だが、今の状況では余りにも長すぎる。その間、家族や友人が無事でいる保証はない。

 ニルヴァーナが深く落ち込む中、馬車は動き出す。外を見てみると、モーナグが心配そうに見つめていた。

 それから、馬車は祭壇のような場所にたどり着いた。四本の四角い柱に囲まれ、中央には大きな魔法陣が形成されている。

 そしてその魔法陣のすぐそばに、ローブを着込んだ男性がいた。魔法陣に向かい、一人で何かの準備を行っているようで、魔法陣が、淡く光っている。イーヴァは、声を張り上げながらその男に話しかける。

「魔法使いさん! イーヴァだ! よろしく頼む!」

「ん、ああ。少し待ってくれないか」

 男性は、魔法陣に顔を向けたまま返答した。魔法陣の準備からは手が離せないようだったが、そのまま言葉を続ける。

「今回は状況が状況だ。本来ならロムプリエストに元から設置してある魔法陣に転移させるが、特別にクライスからそう離れていないところに転移させる」

「な……、ありがたいが、そんなことは可能なのか!」

「勿論だ。いつもこれをやらないのは、目的地に合わせて魔法陣を変えなければいけなくなり、作業効率が落ちるから。だが、今回は仕方ない。さすがに、作業効率なんて言っていられない状況だしな」

 その魔法使いの言葉を聞いて、イーヴァは申し訳なさそうに頭を下げた。商売の邪魔をすることにもなるから申し訳ないのだろう。その肩は、少し震えている。

「なに、気にするな。同じ貧しい者同士、皆も分かってくれるだろうさ。……よし、準備ができた。魔法陣の上に乗ってくれ」

 指示を受けたイーヴァは馬車を進め、魔法陣の上で停止する。

 それを確認すると、魔法使いの男は両手を前にかざした。それと同時に魔法陣は淡く光り、馬車を幻想的に照らす。

「よし、これでいい。……無事を祈るぞ」

 男はそう言うと、かざしていた両手を一気に横へと振り抜いた。イーヴァが感謝の言葉を口にする間もなく、まばゆい光が馬車を包み込む。

 その光のまぶしさに、ニルヴァーナはたまらず強く目を閉じる。目を閉じた後の視界はいつもなら黒いはずだが、周囲の光の強さのせいか今は少し赤い。耳には強い風の音が届くが、荷台は風できしんでいる音も聞こえず、揺れは感じない。自分がいまどこにいて、どんな状況なのかまるでわからなくなる。

 しかし、そんなことを考えている暇は無かった。気が付けば、耳に届く音は鳥のさえずりに変わっている。感じる空気も温かさを持ち、どこか心地よさを感じる。いつの間に変わったのか、判断もつかなかった。

 ニルヴァーナは恐る恐る、目を開けていく。辺りが光に包まれている様子はない。視界は、段々と通常の明るさを取り戻し、明瞭になっていく。

 俯いていた顔を上げ、周囲を見回してみる。さっきまで見えていた石の柱や、無骨な建物、ところどころに群がっている商人の姿はどこにも見当たらず、馬車を囲む多くの木々と、馬車一台がようやく通れるくらいの小さな獣道だけが確認できた。

「移動……できたようだな」

 イーヴァが小さく、声を出す。

「とりあえず、ここの居場所と周囲の状況を確認してくる。ここで待っていてくれ」

 軽く辺りを見渡してから、イーヴァは馬車を降り、そこを立ち去った。

 待つように命じられていたニルヴァーナであったが、正直居ても立っても居られなかった。今すぐにでも、クライスへと駆けていきたい。

 しかしその衝動を抑え、ニルヴァーナは少しでも今できることをする。馬車から軽く身を乗り出し、周囲を見渡してみる。もしクライスの近くなら、見慣れた光景、つまり目印となるものがどこかにあるかもしれない。

「ニル、今の居場所が分かった。移動するぞ」

「えっ、ああ、うん」

 だが、ニルヴァーナの努力虚しく、イーヴァがすぐに帰って来た。やはり年の功といったことはあるのだろうが、少し悲しい。

 少しだけ落ち込むニルヴァーナに気づくことなく、イーヴァは淡々と言葉を続けた。

「実にいい場所に転移させてくれた。ここからなら歩きでもそう時間はかからない」

「えっ、馬車は?」

「まあ、馬車で行きたいところだが、クライスに近い以上、派手な音を立てるわけにはいくまい。いつどこで、誰が見張ってるかも分からんしな」

 淡々と説明を続けながら、イーヴァは手早く準備を進めていた。水筒や財布など、戦いに必要のないものを馬車の荷台に投げ捨てていく。それから単眼鏡だけをポケットに仕舞い込むと、大剣を担ぎこんだ。

「よし、これでいい。……ついてこい」

「う、うん」

 馬車に荷物を置いたまま、イーヴァは歩き始めた。勿論盗まれる危険はあるが、気にしている場合ではないだろう。それを分かっていたのか、ニルヴァーナも素直についていく。

 獣道はあるが、イーヴァはあえて木々の間を進むことを選択した。何か視界を遮るものの中を進む方が安心だという判断からだ。

 イーヴァが先頭で、木々の間を縫うように歩を進めていく。後ろに続くニルヴァーナが歩きやすい様に、生い茂る葉を強く踏み固め、危険な枝を折っていく配慮をイーヴァは見せていたが、ニルヴァーナはそれに気づかなかった。

 ニルヴァーナは気づかず歩きながら、どうしても気になっていたことをイーヴァに尋ねる。

「ねえ、イーヴァ」

「ん?」

「今更だけどさ、俺ついていっていいの? 戦いの邪魔になるんじゃ……」

 ニルヴァーナは、そこが気になっていた。非力な自分がついていって、イーヴァを困らせたらどうしようかと。

 だがそんなことなんとでもないかのように、イーヴァは小声で返答する。

「構わんさ。お前だって、すぐにでもクライスの状況は見たいだろう」

「でも、助けを呼びに行かせるとか……」

「遠方のロムレイアスにいたモーナグでさえ、クライスの状況を知っていた。ならば、近隣の村や町にはとっくに情報は入っていると考えるべきだろう。それなら、今更救援を頼むのも遅いだろうさ」

 それに言葉を返すことができず、ニルヴァーナは黙り込む。すると、イーヴァが恥ずかしさを隠すように、自嘲気味に鼻で笑ってから言葉を続けた。

「それに、こんな状況だ。今は近くにいてもらった方が、俺は安心する」

「あ……」

 ニルヴァーナは、少し驚いていた。というのも、イーヴァはこんなことを滅多に言わないからだ。今は背を向けているためイーヴァの顔はわからないが、きっと恥ずかしそうな顔をしていることだろう。

 そんなことを口にしてしまうほど、今の状況は余りにも例外的、イレギュラーだ。イーヴァが不安になるのも無理はない。

 それから二人は無言でしばらく歩いていたが、突如イーヴァが立ち止まる。そして身をかがめてからゆっくりと振り返り、かなり小さな声でニルヴァーナに話しかけた。

「もうすぐ、クライスが見えてくる。ここからは私語禁止だ。なるべく音を立てない様に」

 ニルヴァーナはその注意に頷き、ゆっくりと身をかがめる。それを確認すると、イーヴァは歩を進めた。

 注意深く歩きながらも、ニルヴァーナは周りを見渡してみる。ほとんど葉や木で遮られてはいるが、時折覗く光景の中には、自分が見慣れた場所も見えてくる。

 しかし、その見慣れた光景はニルヴァーナを緊張させた。いよいよクライスに到着するんだ、と。もし、目も当てられない様な状況になっていたらどうしようかと。

 心を埋め尽くしそうになる不安をなんとか押し殺し、ただ歩を進める。その内に、イーヴァが立ち止まった。イーヴァは単眼鏡で、その先の光景を確認しているようだ。

 ニルヴァーナは、イーヴァの確認が終わるのを待つ。イーヴァの背中と大剣に遮られ前方はうまく確認できないので、指示を待つしかなかった。

「……くそ」

 数分観察を続けていたイーヴァが、舌打ちと共に小さく呟く。それから、ゆっくりとその身を横にずらし、ニルヴァーナに単眼鏡を渡した。

 単眼鏡を受け取ると、ニルヴァーナは少しだけ前に進む。身を隠すには十分な大きさの茂みに近寄ってから、単眼鏡に目を当てた。

 クライスは、大きめの丘の上に住居を構える町だ。その為町の中に入るには、限られた緩やかな坂道を通らなければならない。その緩やかな坂道に、大きめの木の柵で広い一本道が作られている。

 その一本道をニルヴァーナが見てみると、道を塞ぐ形で三台の大きな車が止まっているのが確認できた。当然、その車は富裕層の物だ。

 そして、その車を取り囲むように、男が七人ほど待機している。恐らく門番の役目だろう。単眼鏡を目から離して周囲を観察してみれば、十人ほどの男が散らばる形で警備しているのが分かる。

 次に、町の中を確認しようとする。丘の上にある町なのでほとんど確認することができなかったが、中央広場に人々が集められているのが辛うじて確認できる。確認できたのはほんのわずかではあるが、傭兵団の団員が数名ほどいるのが何よりも残念だった。

 単眼鏡を通して目に飛び込んできた光景は、ニルヴァーナを落胆させるには十分だった。支配が完了しているのが手に取る様に分かるし、何よりも傭兵団の団員まで捕まっていては、希望が削がれた気分になる。

「さすがに、どうしようもない……、か」

 イーヴァが小さく声を出す。ちらりと目をやれば、苦虫を噛み潰した様な顔でクライスを見つめていた。たまらず、ニルヴァーナは声をかける。

「どうする? ……こんなんじゃあ、何にもできないんじゃ」

「ああ、何もできないな。助けに向かっても返り討ちに合うのが関の山だ」

 それを聞いて、ニルヴァーナは肩を落とす。薄々わかってはいたが、やはりイーヴァでもどうにもならないらしい。

 しかしイーヴァは、予想外の言葉を放った。

「……さて、行ってくるか」

 そう言うと、イーヴァは背負った大剣の柄に手をかける。

 一瞬何を言っているのか理解できず、ニルヴァーナは硬直する。ついさっき、返り討ちに合うと言ったばかりではないか。

「な、何言ってるのさ。そんなの……!」

「ああ、無謀な行為だ。蛮勇なのは間違いない。……だが、行くしかあるまい」

「でも!」

「ここで行かねば、クライス傭兵団団長の名が廃る。俺は仲間を見殺しにするなんてできんよ」

 イーヴァは、その言葉と共に微笑んだ。それはまるで、すべてを覚悟したかのような微笑み。そんな微笑みを見てしまえば、もはやニルヴァーナは止めることはできなかった。

「だがな、ニル。お前は逃げてくれ」

 その微笑みのまま、イーヴァはそんなことを言った。

「……え」

「お前は生きろ。近くの村なら、きっと匿ってくれる」

「そんな、そんなこと! 俺だって、見殺しになんか……! 力だって、きっとあるんだ、だから!」

 ニルヴァーナが叫ぶ。発見される恐れもあるが、叫ばずにはいられない。そんなニルヴァーナを見て、イーヴァは優しく頭を撫でた。

「勿論そうだろう。お前だって、俺と同じ気持ちのはずだろう。……だがな、お前には未来がある。今はまだ不安定な力で、この腐った世界を変える未来が」

 確かに、ニルヴァーナが頼ろうとしている力は今はあまりにも不安定だ。ここで前に出たところで、操られる保証はない。ただ、殺されに行くようなことにもなり得る。

「こんな小さな町のために、その未来を消してはいけない。生きて、その力を自分のものにして、この世界を変え、貧しい仲間たちを救ってほしい。……わかるな?」

 イーヴァの言っていることは分かる。理解はできる。だが、それはあまりにも悲しき願い。故郷を捨てろと、そう言っているようなものだ。

「こんなの、俺の自分勝手な願いだろう。お前には悲しすぎる選択を強要しているようなものだ。だが、分かってほしい」

 ニルヴァーナは、それを拒否することはできない。零れ落ちる涙のせいか、悲しき願いを理解できてしまっているせいか。自らの意思を口にすることはできなかった。

「イー、ヴァ……」

「すまないな。ニルヴァーナ。お別れだ。逃げる時は、振り返らないでくれ」

 そう言うと、イーヴァはニルヴァーナの頭から手を離す。

 くしゃくしゃに泣くニルヴァーナの顔から眼を逸らすように、イーヴァはクライスの方を見つめた。その顔からは微笑みは消え、すっかり真面目な顔つきに戻っている。

「じゃあな」

 それだけ言ってから、イーヴァは茂みを飛び出してしまう。ニルヴァーナは、それを目で追うことはできない。見てはいけない気がした。

 このままここにいるのは危険だと理解はしている。だから、せめて体だけでも振り返って、少しずつでも歩を進めていく。それでも耳に届いてくる、男たちの怒号、叫び声。爆発音や、剣と剣がぶつかりあう音。

 それらを聞くまいと、数度頭を振って歩を進めた。自らの意思を押し殺して。しかし、押し殺していたはずの意思はある出来事で突如爆発する。

 音が、止まった。

 それは戦いの終わりを示す。そして嫌でも、その状況が脳裏に浮かんでしまう。この短時間ですべてを殲滅できるわけがない。イーヴァが敗北したことは、明らかだ。

 それが分かってしまったからだろう。もはやニルヴァーナは自らの行動を抑えることはできない。

 気が付けば、ニルヴァーナは茂みを飛び出していた。

 ニルヴァーナの身に降り注ぐ、大量の視線。体は震えあがり、歯は音を立て、今にも倒れそうなほどの目まいが襲う。だが、不思議と涙は止まっていた。

 揺らぐ瞳がとらえたのは、鮮血の中転がる屈強な男。

「イーヴァ……」

 ニルヴァーナの怒りと絶望は、一気に膨れ上がる。分かっていたはずなのに、現実を受け入れられない。本当に、イーヴァがやられてしまったのか。自分が出て来た意味はあるのだろうか。

「くそ、くそ……」

 拳を握りしめ、ただただイーヴァを見つめていた。周囲にいる敵になど視線が移ることはない。何か言っているようだが、聞き取ることもできない。

 そこに突如、拍手の音が響いた。

 この場に場違いすぎるその音は、強烈にニルヴァーナの耳に飛び込んできた。何が起きたか理解できない。そして、ゆっくりと音がした方に視線を移していく。

「あ……、あ……」

 ニルヴァーナは、視界に飛び込んできた光景を信じることが出来なかった。

「そんな……、なんで……」

 拍手の主は、そこにいてはならない、最もいて欲しくなかった相手。ニルヴァーナにとって、何よりも絶望を味わわせる相手。

「ケイアスさん……、なぜ、あなたが……!」

 楽しそうに手を叩いていたのは、ケイアス・アシュケナージ。孤独に震えたあの町で、ニルヴァーナを助けてくれた何よりの恩人。

 そんな人が、なぜ貧民狩りの場にいるんだ。それも、自分の故郷の場に。まるで、この集団の中心のような立ち位置で。

「いやあ、ニルヴァーナ君。やはり君はいい」

 少し離れた位置にいるはずの彼の声は、なぜかやけに明瞭にニルヴァーナの耳に届いてくる。そしてその表情は、愉悦で歪み切っている。あまりにも楽しそうなその微笑みは、今は不気味に感じてしまう。

「私の期待通りだ。仲間を見捨てることなく、こんな状況下でもしっかりと立ち向かいに来る。んー、なんて素晴らしいんだ君は!」

 ケイアスは両手を広げ、天を仰いだ。もちろんニルヴァーナはその行為を理解できない。

「まあ、最初に来た時に君がいないのは驚いたが。どこかで道草でも食っていたのかね? いや、それとも遠回りでもして来たのかな? ん?」

「な……、んで……」

「ん、何かね? 少し遠くてな。聞き取りづらい」

「なんで、あなたが! 何をしているんですか!」

 ニルヴァーナは、悲痛に歪んだ声で叫ぶ。どうしても現実を受け入れられないと。あり得てはいけない現実を認めない様に。

「はあ、質問には答えてほしいものだが。ま、許してやろうか。……そうだな、私の趣味の話から始めようか」

「は……? 趣、味……?」

「私はね、無類の貧民狩り好きなんだ。有り余る金でこういう兵士を雇い、暴虐の限りで町や村を狩る。たまらないんだよ、この時が。力の差を、権力の差を見せつけているようでねえ」

 語り始めたケイアスの顔は狂気に歪んでいた。ニルヴァーナは、声も出せず、ただ茫然とその言葉を聞いていることしかできない。

「だがね、最近同じパターンの繰り返しで飽きていたんだ。急襲し、まともな抵抗もなく狩りを行い、奴隷を回収し、売り捌く。基本的にその繰り返しさ。だがそんな時……、君が来た」

「……え」

 突然、ケイアスに指を向けられたニルヴァーナは一瞬たじろぐ。まさか、こんな話の最中に自分に矛先が向いてくるとは。

「貧民が、力を求めてやってきた。それ自体は無いわけじゃないが、偽札を一枚も使わずに来たのは初めてだ。こうなると、マギエを与えずにはいられない。……これは仕事上の性格のせいだが」

 実に楽しそうに話すケイアスの話を、周囲の人間は引くことはなく不敵に微笑みながら聞いている。同意するように頷くものすらいた。

「これは転機だ。抵抗する力を持った貧民を狩るチャンスを得たわけだ。くっくっく、最高じゃないか。いい、実にいい! マンネリ化していた状況を、最高の形で崩させてくれた!」

 語られていく言葉は、ニルヴァーナの怒りを増幅させていく。だが、その怒りをケイアスに向けたところで敵うわけもない。ただ虚しく、ふざけた話を聞いていることしかできない。

「だが、流石に微塵な力ではつまらない。だから君をテストした」

「……テス、ト?」

「そう、テストだ。覚えているだろう? マギエを得た君のことを上層部が……、とかいう話。あれな、全部嘘なんだ」

 またも、信じていたことをすべて覆してくる発言。ニルヴァーナは足元が崩れるような感覚に襲われる。

「大体、貧民一人にマギエを与えようが、あの耄碌爺どもが何か言ってくるわけがないんだよ。あいつらはそんなことに興味を示さないクズ共だ。だから利用させてもらった。……ちなみに、君に与えたあのスーツは、私の趣味に付き合せるせめてもの詫びの証だ。高いんだぞ? あれは」

 完全に、だまされていた。まさかあれが嘘だなんて、微塵も疑いもしなかった。

「だが、身なりを全て整えては君を追う部下共が判断できなくなる。だから不完全にリュックは残した。……ああ、そうだ。部下と言えば、気になったことが一つだけあったんだ」

「え……」

「君は、どんなマギエを手に入れた?」

 心臓が跳ね上がる。

 思い出すのは、あの悲惨な光景。

「二人の死体を調べさせてもらったよ。……驚いたね。それぞれ死因が違う。それに、生き残りの一人に話を聞けば、不可解な情報しか出てこない。前例がない話ばかりだ」

 答えたくない。答えられるはずがない。自分も知らないのだから。何が起こったのか、そもそもマギエを手に入れられたかどうかすら。

「つい調子に乗ってベラベラと種明かしをしてしまった。計算外だが、まあいいだろう。私の質問の答えもどうせすぐわかる」

 ケイアスが、指を弾き音を鳴らす。その音と同時に、周囲の敵は臨戦態勢に入る。

 ニルヴァーナは、揺れる視線で見渡す。きっと、戦いが始まってしまう。だが、何ができるだろうか。この怒りに震えあがる体で、何かできることはあるだろうか。

「さ、て。始めよう。いいかお前ら、くれぐれも殺さぬようにな。貴重な実験材料だ」

 動けない。ニルヴァーナは、足は愚か指一本すら動かすことが出来ない。

 今すぐにあの男を殴り飛ばしたいのに、血反吐を吐かせ、意識を失ったとしても殴り続け、あの憎たらしい微笑みを消し去ってしまいたいのに。

「……あ」

 ニルヴァーナが何かハッタリでもかまそうと、能力があるように見せつけようと口を開いたまさにその瞬間。

「きゃあああああああああ!」

 周囲に、女性の悲鳴がこだました。

 先ほどよりも強く、強く心臓が高鳴る。

「む、奴ら始めおったな。待てと言ったのに……、まあいいか」

 今の声。聞き間違えるわけがない。十六年間を共に過ごしてきたあの少女の声を、判断できないわけがない。

「さ、仕切りなおそうか。……君から来てくれて構わないぞ? ん?」

「ふ、ざけ……」

 何もできないと分かっていても。何もしないわけにいかない。

 まるで、先ほどイーヴァのために飛び出したように。

「ふざけ、るなああああああああ!」

 体が動く。その体は、ケイアス目がけて一気に駆け出していた。

 どうせ、殴ることは叶わない。セレナを助けることも、イーヴァを救うことも。分かってはいるが、ただただ足を走らせた。

 ケイアスの口が強く歪み、楽しさを強く表す。周囲の敵も、どこか嘲笑っているようだ。

 ニルヴァーナの心臓は、強く、強く高鳴っていた。どこか不自然に感じるほどに、痛みすら感じるほどに。

 その高鳴りは、段々とニルヴァーナを苦しませていく。

「くそ、ったれ、があああああ、あああああ!」

 その苦しみを紛らわそうと叫び、駆けるが、徐々に速さは下がっていった。

 そしてついに、ニルヴァーナは立ち止まり、左胸を強く握りしめる。

「なん、だよ、これ……。ふざ、け……」

 最悪なタイミング。ケイアスにせめてもの暴言を吐き出すことも、敵へのわずかな抵抗もできそうにない。動くことすら苦しい。

「おやおや、少し言葉攻めをしすぎたかな。……反省だ」

「う、る、さ……」

 強く、強くケイアスを睨みつける。それしかもう、出来ることは無い。

「俺は、おまえ、を……を、……っ!」

 その時だった。今までよりも強い、心臓の高鳴り。視界は歪み、最早立っていることすらできない。

 そしてそれと同時に、後頭部を誰かに強く殴られたような衝撃。たまらずニルヴァーナは前方に倒れこみそうになり、同時に意識を失った。

 しかし実際には誰もニルヴァーナの後頭部を殴ったものなど存在しない。もちろん、ケイアスの部下が何かの能力を使ったわけでもない。

「おや、なんだ。ついにうなだれたまま動かなくなったぞ?」

 ケイアスは、不審に感じて少年を見つめていた。最後の方は、少し様子がおかしすぎた。

「……罠かもしれん。攻撃はするな」

 その場にいた全員が黙り込み、注意深くニルヴァーナを観察する。

 ニルヴァーナの姿は、あの時と同じように、昨日の凄惨な事件の時と同じように、うなだれたまま動かない。しかし、昨日と同じような状態なんて、ケイアス達は知る由もない。

 それから数秒ほど経ったとき。突然、少年は体を上げた。

 そして右手で髪の毛を掻き上げると、周囲を軽く見回す。

「……はっ。また同じ状況じゃねえか」

 少年が、一人呟いた。

 その声は、その目つきは、その雰囲気は。まるでニルヴァーナのものではない。

昨日のあの残忍な少年が、再び現れた。

「仕方がねえな。また、楽しませてもらうとするか」

 そして、ニルヴァーナだった少年は、不敵に、怪しく。

 とても楽しそうに、微笑んだ。

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