第5話 友との再会

 ニルヴァーナは、あれから数分間泣き続けていた。

 周りの人々は警備兵を疑うような視線を送り、警備兵はそれを必死に否定する。

 そんな状況になっていることすら気づかず、ニルヴァーナは泣き続けた。

 そして、ようやくニルヴァーナが泣き止んだ頃。警備兵はハンカチを差し出しつつニルヴァーナに尋ねる。

「一体どうした? 普通じゃないぞ」

「あ、えっと、ごめんなさい……。でも、何でもないんです。大丈夫です」

 ニルヴァーナは借りたハンカチで涙を拭いながら、そう答える。しかし警備兵はあきれた様子でニルヴァーナを指さした。

「何でもないことはないだろう……。その服、血で汚れきってるじゃないか」

「え……」

 ニルヴァーナは、慌てて自分の服装を見直した。

 土や埃で汚れきってはいるが、それ以上に所々に血が飛び散っている。さっきまでは全く気が付かなかったが、明るいところでは割と目立つ。

 先ほどの光景を思い出しそうだったが、それを忘れるように首を横に振る。

「あ、いえ、ちょっとケガしてしまって……。大丈夫です、気にしないでください!」

「いや、それなら救急車を」

「平気です。平気ですから! それじゃ、失礼します! ありがとうございました!」

 借りたハンカチを押し付けるように返し、ニルヴァーナはその場から逃げ出した。出口からは一旦遠ざかり、周囲のゴミ捨て場を探す。

「とりあえず、着替えないと……」

 また裏路地に入るのは嫌だったが、ゴミ捨て場を探す以上仕方がない。周囲から向けられる怪訝な視線を無視しつつ、警戒するように裏路地へと入っていく。

 それから割とすぐに、ゴミ捨て場は見つかった。周囲に人目もなく、サッと着替えるだけなら問題なさそうだ。

 ニルヴァーナはリュックの中から自分の衣服を取り出す。それと同時に、今着ている服を急いで脱いでいく。

 脱いでいく中で、嫌でも服にかかった血は見えてしまう。裏路地で血を見るのは嫌だったので、視線をそらすようにその服を投げ捨てた。人からもらった服を捨てるのは抵抗があったが、今の状況ではどうしようもない。これを持って行って出口の検査で見つかったら、何を言われるかわからない。

「ごめんなさい、ケイアスさん」

 着替えていくうちに、ニルヴァーナの精神もだいぶ回復していった。慣れ親しんだ衣服が、少しはニルヴァーナの心を落ち着かせてくれた。

 着替え終わったニルヴァーナは、何も入っていないリュックを背負うと、急いで大通りへと向かった。裏路地にいるのは嫌だったためだ。

「後はこの町から出て、あいつと合流さえすれば……」

 そう言いながら、ニルヴァーナは周囲を見渡す。辺りには自分を襲いそうな人影も見当たらない。自分を監視しているような人物も見つからない。もっとも、ニルヴァーナが見つけられないだけかもしれないが。

 それでもニルヴァーナは、出口に向かって駆け出した。もし仮に兵士がいたところで、こんなに人が溢れている場所で襲ってくることは無いと考えたからだ。

 ニルヴァーナの思惑通り、出口に向かう間に襲われることは無かった。出口で形成される列に並んでいても、周囲から怪訝な視線を向けられるだけで敵意の視線は感じられない。

「やっと、ここまでこれた……」

 ニルヴァーナは安どのため息をつく。ここまで来るのにどれくらい時間がかかったか覚えてはいないが、いやに長く感じられた。道中の事は思い出したくもないが、よくここまで来れたものだ。

 辺りを見渡してみれば、実に多くの人がいた。馬車に乗って自分の番を待つ人もいれば、退屈そうに立ち尽くす人もいる。その中には、何かが詰まった袋を大事そうに抱えていたり、空になった袋を引きずっていたりする人もいれば、剣のチェックをしているような戦士も見受けられる。

 その列は、アングマールに入るときと大差ないように思える。差があると言ったら、荷台が空になっている馬車が多いというくらいか。きっと、故郷の名産品を売りさばいたのだろう。

「なあ、そこのすかすかのリュック背負ったボウズ」

「……え?」

 唐突に、右隣から声がかかる。自分が話しかけられたと思い、声のした方を見てみると、そこには馬車の御者台に乗った一人の小太りの男性がいた。男性は御者台に乗っているために、ニルヴァーナは少し見上げる形になる。

「お前、貧困民だろう」

 そう言った男性も、服装は貧困民に見える。少なくとも、富裕層の格好には見えない。

「そうですけど……」

「ハッハッ、やっぱりか。お前も出稼ぎかい?」

「いや、まあ、そんなところで……」

「大変だよなあ。わざわざここまで来ても、商品は利益にならない様な値段で買いたたかれて、あとは俺たちを待ってるのは不快そうな視線だ。故郷の町の野郎どもが腕によりをかけて作った包丁や金づち、鍋なんかもたいして金にならねえ」

 そう語る男性は、どうやら貧困民の仲間らしい。またも誰かに話しかけられたことや、貧困民としての仲間に出会えたことにニルヴァーナは涙を流しかけるが、なんとかこらえる。

最早目には涙が溜まり、泣き出す手前といった状況だが、それに気づかず男性は話を続ける。

「せっかく何時間もかけて来たのによ、これじゃあ馬の飯代で収入が消えちまいそうだ。けどそれでもたまにはこうして町に来て、媚びを売らねえと今度は町を襲いにきやがる。本当にどうしようもねえよなあ。……あ、そういや、ボウズはどこから来たんだ?」

「クライス町、です」

「おー! クライス町っていやあ、俺の故郷マグランからそうは離れてねえじゃねえか! いやー、まさかこんなことがあるとはな。ボウズ、名前は?」

 上機嫌に、男性はニルヴァーナに尋ねる。ニルヴァーナは涙声がバレない様に、小さく答える。

「ニルヴァーナ・グラール」

「ほう、ニルヴァーナか。ふむ、なんとなくいい名前っぽいな。俺の名前はココメロ・グラッソってんだ。よろしくな。……お、そうだ」

 ココメロはそう言うと、上半身だけひねり、馬車の荷台の荷物をあさり始める。その間馬車は進まず、列が遅れるがココメロは気にする素振りもない。

「ほれ、餞別だ」

 ココメロは、一つの果物をニルヴァーナに投げた。ニルヴァーナは慌ててそれをキャッチする。

「え、いいんですか?」

「ここまで来るときに、たまたまそれが生ってる木を見つけてよ。勝手に採ってきたやつだ。気にせずもらっときな」

「ありがとう……、ございます……」

 ニルヴァーナが茫然とする中、ココメロは上機嫌に笑った。

「ハッハッハッ! クライスの傭兵団には、いつも盗賊から守ってもらってるからな。お前さんの故郷の傭兵団、値は張るが確実な仕事はしてくれるから俺のお気に入りなんだ」

「はあ……」

「ま、今回の出稼ぎは金が無かったから雇えなかったがな! 一つ文句言っといてくれや、高すぎる、ってな。ハッハッハッハッ!」

 ココメロは上機嫌に笑ってから、ようやく馬車を進めた。後ろからは文句も聞こえるが、ココメロは特に気にした様子もない。

「お、そろそろ俺の番だ。じゃあなボウズ。……そうだ、クライスの近くまで送ってってやろうか?」

「あ、いえ、外で待ってる人がいるんで」

「そうか。まあ、こんなボウズを一人でここまで来させるわけもねえしな。当り前か。……よし、それじゃあな! 達者でな!」

 豪快な笑い声と共に、ココメロは馬車を検問所に進める。

 ニルヴァーナはそれが少しおかしくて、笑ってしまう。ああいう人もこの町にはいるんだな、と。

「なんか、すごい人だったな」

 そう言ってニルヴァーナは、もらった果物に目を落とす。きれいに赤く光るその果物は、とても甘そうだ。

「あの人、護衛いないみたいだし、襲われないと、いいけど」

 一人になった途端、涙が数滴あふれだした。ニルヴァーナは慌ててそれを拭うが、涙は止まらない。

「また泣くなんて……、ダメだなあ、くそ……」

 束の間に感じた幸せ。与えられた優しさ。心が壊れかけていた状況で、ここまで涙をこらえることができたのだから、むしろニルヴァーナは頑張った方だろう。

「次!」

 ニルヴァーナが必死に涙を拭っているところに、検問所内の警備兵が声をかける。ニルヴァーナは慌てて駆けていき、警備兵に荷物を預けた。

「よし、中身を確認させてもらうぞ。……大丈夫か?」

「あ、えっと、気にしないでください」

「それならいいが……。それにしても、中身は何も無いな。出稼ぎで来たんじゃないのか?」

「あ、えっと……」

 ニルヴァーナはこの町に来た理由を話そうとしたが、何も言えずに言葉を詰まらせる。

 正直に話せば、自分を追う部隊に連絡が言ってしまうかもしれない。そうなれば、町を出たことが知られてしまう。

「ん? どうした?」

「えっと、その……」

 慌てるニルヴァーナを、警備兵は不審そうに見つめる。

「……で、出稼ぎに来たんですけど、暴漢に会ってお金を取られてしまって……」

「ああ、なるほど……。それであんなに泣いてたのか」

「そ、そういうわけです」

「お前も大変だったな。……ま、荷物には不審物は無し。通っていいぞ」

「ありがとうございます……」

 そこから逃げる様に、ニルヴァーナは慌てて駆けだした。

これまで色々とあったが、ようやくアングマールから出ることができた。

壁の外に広がる大平原。何も視界を遮ることのない広大な空。それだけで、少し心が落ち着いてくる。

ニルヴァーナは振り返り、巨大な壁を見上げた。

つい先ほどまで、あの壁の向こう側で起きていたことを考えると、あまりにも非日常すぎる。本当に起きていたのか、という考えすら浮かんでしまう。

ニルヴァーナにとっては夢であってほしかったが、悲しいことに全て現実のことだ。自分を誰かが操って残虐な行いをさせたであろうことは、間違いのない現実。

ただ、そうなると自分自身のマギエが発動しなかったことがどうにも気にかかる。それだけはどうしても確かめたかったが、ニルヴァーナはまず人探しを始める。この町へ向かう道中、自分を護衛してくれた人。この町に入る際に分かれた、一人の男性を。

それからニルヴァーナは、今いる居場所を確かめる様に扉の名前を確認する。

扉の上部に書いてあったのは、スヴァタス。確か、自分が入った扉はハーオスと書いてあったから、入り口とは違うのは確かだ。

「どうしよう……」

 ニルヴァーナは困り、肩を落とした。もうそろそろ暗くなってくる時間帯だし、早く見つけておきたい。壁沿いに歩いていれば会えるだろうが、それもどれくらい時間がかかるかわからない。

 結局ニルヴァーナが思いついたのは、暗くなる前に少しでも歩いておいて、暗くなったらその場で寝る。それから明日また探す、という案だった。

「まあ、仕方ないか……」

 一度ため息をつくと、ニルヴァーナは歩き出す。空を見上げれば、段々と暗くなっていっているのがわかる。

「そういえば、飯もなければ寝袋もないのか……。うう、大丈夫かなあ」

 不安しかなかったが、とにかくニルヴァーナは歩を進める。

「イーヴァ、どこにいるんだろう」

 イーヴァ。それは、ニルヴァーナが探す男性の名前。もし今イーヴァに会うことができたら、どれだけ幸運か。

 食料も寝袋も、旅に必要なものはすべてイーヴァに預けていた。一日でマギエの手術は終わり、何事もなく帰れるだろうと思っていたからだ。

 それが、今はこんな状況でイーヴァがどこにいるかもわからない。正直言って状況は最悪だ。

「イーヴァー。イーヴァ・ドーシチ・ツヴィトークー。どこにいるんだよー」

 ぶつぶつと話しながら、ニルヴァーナはイーヴァを探す。ちなみに、イーヴァ・ドーシチ・ツヴィトークとはイーヴァのフルネームだ。

 そんな風に歩いて、大体三十分くらいたったころだろうか。ニルヴァーナは、視界の先に人だまりを見つけた。

「……ん? なんだろ」

 不幸な今の状況から少しでも気を逸らそうと、ニルヴァーナはその人だまりに向かって走っていった。近づいていくと、人に囲まれた二人の男性が見えて来た。

 こちらに背中を向けた黒髪の男性は、余裕そうにその場に仁王立ちをしている。片や、それと対面する形の長髪で赤い髪の男性は、肩を大きく上下させ、息が切れているのが目に見える。

「この……、くそったれが!」

 赤髪の男性が、拳を握りこみ、殴り掛かろうと、黒髪の男性の下へと駆けていく。そしてその勢いのまま、赤髪の男性は勢いよく拳を振った。

 一方それを見ていた黒髪の男性は、それを簡単そうに左手で弾くと、赤髪の男性の胸元をしっかりと掴む。そして一瞬のうちに、流れるような動きで赤髪の男性を投げ飛ばした。

 その瞬間、一気に歓声が上がる。とても投げ技が決まったために、観衆は盛り上がっていく。

「あー、喧嘩か」

 その光景を見ていたニルヴァーナは、すぐにそこから離れようとした。さすがに今の精神状態で喧嘩なんて見ている気にならない。

 だが、逃げようとするニルヴァーナの耳に、予想外の声が飛び込んでくる。

「はっはっは、まだまだ修行が足りんぞ!」

 余裕そうな笑い声。野太く、辺りに響くような男の声。それはまさしく、イーヴァの声だった。ニルヴァーナは慌てて振り向き、人だまりをかき分けてイーヴァかどうかを確認する。

 人だまりの中央。そこにいたのは、自慢の肉体を披露するかのように上半身が裸の男。倒れ伏した一人の男性を見下ろす、掘りの深いその顔はとても楽しそうに笑っている。

その姿はまさしくイーヴァ・ドーシチ・ツヴィトーク。待望の再会ではあったが、予想だにしない状況にニルヴァーナは思わず声を荒げてしまう。

「イーヴァ! 何してんのさ!」

「ん? おお、ニル! 何してるんだこんなとこで!」

「いや、それは割とこっちのセリフなんだけど……」

 ニルヴァーナは、周りを見渡した。どうやら、イーヴァが複数人に喧嘩を挑まれたようだ。近くに何人かがまとめて倒れ伏していることが、まさにその状況を物語っている。

「いやあ、お前の帰りが遅いから、馬で探してたらこいつに絡まれてな。いや、結果的に絡んだのはこっちか? ……まあ、相手をしていたところだ」

「ああ、それでね……」

「と、いうわけでだ。ニルとも会えたし今回はこれで終わりだ! 修行を積んで出直して来い。いつでも勝負は受けてたとう」

 そう言うと、イーヴァは近くに置いてあった大剣を担ぎ、さっさとその場を後にしてしまった。

 その様子を見て、赤髪の男性の仲間らしき男性は、安どのため息をつく。イーヴァがこの場を去ってくれることが何よりも嬉しそうに。

 一方、観衆からは不満の声が上がっていた。もっとやれだの、まだ見足りねえぞだの。しかしイーヴァはそれを気にすることなくその場を後にしてしまう。

ニルヴァーナはどうしようか迷ったが、とりあえず慌てて後に続く。

「さ、帰るかニル。とりあえず、寝床を確保しないとな」

「えっと、うん、そうだね」

 近くに止まっていた、小さな馬車にイーヴァは大剣を積み込む。それに続く形でニルヴァーナは馬車の荷台に乗り込むと、イーヴァは馬を走らせた。

 馬車が走り始めて数分経ち、少し落ち着いてきた頃。先ほどの言い訳をイーヴァが始めた。

「いやあ、待っている間暇だから馬車で散策していたら、あいつらが道を塞ぐ形で騒いでたのでな。つい、懲らしめてしまった」

「いや、それイーヴァが一方的に絡んでるんじゃ……」

「ん、やはりそうなるか。まあ、いいじゃないか。はっはっはっ!」

 呆れるニルヴァーナと、豪快に楽しそうに笑うイーヴァ。ようやく日常が戻ってきたようで、ニルヴァーナは思わず微笑んでしまう。

「ま、そんなことはどうでもいいさ。どうだ? いいマギエは手に入ったか?」

「あー、っと、その……」

 話題を変え、イーヴァが語りかけて来た質問に、ニルヴァーナは答えることができずに顔を伏せてしまう。その顔からは、微笑みは消えている。

「ん? どうした」

「実は、……マギエ、手に入ったかどうか、正直わからないんだ」

 ニルヴァーナが申し訳なさそうに、小さくそう言う。その言葉を聞いたイーヴァは、慌てて振り向く。

「な……、それは本当か!」

 驚くイーヴァに対して、ニルヴァーナは何も返答することができずに黙りこくる。それを無言の肯定として受け取ったイーヴァは、慌ててニルヴァーナの方へ振り返る。

「……何か、事情がありそうだな。ちょうどいい。寝床はこの辺りにして、そこで話を聞こうか。大丈夫か?」

「……うん」

 それから、イーヴァは近くの草陰へと馬車を走らせ、適度に隠れられそうな場所に馬車を止めた。

 イーヴァはその場から少し離れて、野営のための準備を開始する。簡単なテントとたき火を手際よく準備しているのを、ニルヴァーナは黙って見守っていた。

 今までニルヴァーナは野営など経験がなく、ほとんど手伝うこともできない。アングマールに向かう道中でも、ほとんどイーヴァに任せていた。

 もちろん、イーヴァはそれを不快には思わない。と言うのも、イーヴァは故郷クライスの傭兵団団長として、そういう準備には慣れていたからだ。慣れている者を手伝おうと不慣れな者が加われば、作業効率が落ちることもある。そう考えて、イーヴァは一人で野営の準備を行っていた。

 ニルヴァーナの護衛にイーヴァをつけるのは、最初は反対意見もあった。長たるイーヴァがいなくなってしまっては、故郷クライスの守りや傭兵団の収入はどうなるのかと。

 だが、生半可な護衛をつけてニルヴァーナに預けた大金を奪われるよりは、腕の確かなイーヴァに任せた方がいいという意見もあり、最終的にイーヴァが護衛として落ち着いた。団長がいなくても、クライスの傭兵団なら仕事はこなせるという信頼もあってこそだった。

「よし、とりあえずこれでいいか。……さ、ニル。こっちに来い」

「え、ああ、うん」

 声をかけられたニルヴァーナは、慌ててイーヴァの下へと駆け寄る。イーヴァはたき火を使って飲み物を温め始める。

「それじゃ、話を聞こうか……。何があった?」

「うん。えっと……」

 ニルヴァーナは、これまでに起こったことを話し始める。

 まず、マギエを手に入れるための手術を行ったこと。その時の協力者、ケイアスのこと。そして、それからMID社の上層部による襲撃を受けたこと。

襲撃を受けたときの、凄惨なあの事件のこと。

ゆっくりと、時間をかけてニルヴァーナは話し終える。最後の方は少し涙声になっていたが、なんとかごまかした。

その話を聞いて、イーヴァはしばらく黙っていた。顔を伏せ、ひたすら地面を見つめている。いったい何を考えているのかも分からない。

ニルヴァーナはそれを見て、少し、不安になる。もしかしたら怒られるかもしれない。失望されるかもしれない。そんな些細な不安が、ニルヴァーナの心を支配していく。

それから数分くらい経ったころ。イーヴァは深く、深くため息をつく。ニルヴァーナを震えさせるには、十分なほど重いため息。

「ニル……」

 ようやく、イーヴァが口を開いた。

「お前、体は大丈夫か? ケガはしてないか?」

「え……」

 イーヴァはとても心配そうに、ニルヴァーナのことを見ていた。ニルヴァーナは、怒られないか心配していたために、少し固まってしまう。

「見たところそこまで大きなケガはなさそうだが、無理はしてないだろうな?」

「う、うん。それは、大丈夫」

「よし、それならいいが……。あまり無理だけはするなよ。お前の体は戦いには向いてないしな」

 そう言うと、イーヴァは小さくため息をついた。それから口元に手を当てると、何かを呟きながら考え込んでしまう。

「……イーヴァ。ちょっといい?」

 黙り込んでしまったイーヴァに、ニルヴァーナは恐る恐る話しかけた。

「ん、なんだ?」

「……怒らないの?」

 ニルヴァーナが不安そうにそう尋ねると、イーヴァは少しだけ目を見開いた。

「なぜ、怒る」

「……だ、だって、マギエ手に入ったかどうかわからないのに、お金はもう、無くなっちゃったし。……なんか、よくわかんないことだって起きちゃうし。せっかくみんなのお金を預かったのに、何もできてない」

 ニルヴァーナは、早口でそうまくしたてる。今までにため込んできた不安、不満を吐き出すように。

「イーヴァを連れ出してまでこんなところに来たってのに、何もできないで。お金だって、あんな大金集めるのは相当大変だったはずなのに」

 一気に話を続けるニルヴァーナを、イーヴァはただただ見つめていた。

「それなのに、事件だけ起こして帰ってきて。何も、何もしてないんだよ。迷惑だけかけて。何も返せない。そんなの怒られて当り前じゃないか」

 ニルヴァーナは一度アングマールで泣いて、多くの恐怖や悲しさを吐き出した。しかし、それだけで十六歳の子供が、すべてを吐き出せるはずもなかった。

 イーヴァという知り合いの前で、こうして自分の思いを吐き出すことで、心の中に溜まったものが少しずつ、楽になっていく。ニルヴァーナはそんな気がしていた。

「……言いたいことは、それだけか」

 イーヴァが、優しく、問いかける。

「……うん」

「……正直、怒りはあったさ。不満もな。だが、それはニルに対してじゃない」

 ニルヴァーナが吐き出し終えたのを見届けてから、イーヴァは話し始める。

「MID社に対しては、怒りや不満は山ほどある。マギエを手にすることができる希望を与えといて、襲撃をすることなんか、あまりにもひどい」

「……」

 ゆっくりと続けられるイーヴァの話を、ニルヴァーナは黙って聞き続ける。

「ニルのことは、責めるつもりはない。これっぽっちも、責めようとは思わない。むしろ、よくやったと思うよ。よくここまで生き残ってくれた」

「え……」

「こうなったのも、俺らがお前に期待を乗せすぎてたせいかもしれんな。お前みたいな少年には、重すぎる期待を。……すまなかった」

 イーヴァが膝に手をつき、頭を深く下げる。本当に、申し訳なさそうに。ニルヴァーナは慌ててそれを止める。

「イ、イーヴァ。大丈夫だよ」

「いや、謝らなければならない。お前がそんなに不安になるのも当然だ。町中から集めた、期待があんなに乗った大金なんて、いろいろな意味でお前には重すぎた。それを、理解できていなかった。すまない」

 イーヴァは力強く握りこぶしを作り、そのまま数秒頭を下げていた。

「イーヴァ、俺なら大丈夫だから。頭を上げてよ。ね?」

「ん、……そうか、すまないな」

 そしてイーヴァは、ゆっくりと頭を上げた。それから深く息を吐いて、顎に手を当てる。

「さて、謝罪のすぐとで悪いが、これからのことを少し考えなければならんな」

「これからのこと?」

「ああ。このままクライスに帰ってもいいが、一度ニルの能力をどこかで試した方がいいかもしれんな」

「え……」

 能力を試すことは、正直不安だった。イーヴァの近くで能力を試し、それが引き金でまた誰かが自分を操ったりすれば、イーヴァの命の保証はない。

「それは、そうだけど……。せめて、イーヴァがいないところで」

「む、また操られるのではないかと勘ぐっているのか? まあ、もっともな意見だが、少し実験をした方がいいだろう」

「実……験……?」

 イーヴァが何を言っているのかわからず、ニルヴァーナは首を傾げる。

「ああ。まず、その操られることの引き金を調べたい。ただ能力を使おうとした時に起こるのか、そうではないのか」

 言いながら、イーヴァは一つ指を立てる。

「そして、それが起こるならその条件。攻撃しようとする誰かがいるときか、そうでなくても発動するのか」

 続いて、二つ目の指を立てる。その淡々とした様子に、ニルヴァーナが息を呑むことしかできない。

「三つ目。乗っ取った人格は、ニルにとっての敵味方関係なく襲うのか、そうではないのか」

 三つ目の指を立てながら、イーヴァはそう言う。それから自嘲気味に笑ってから、次の言葉を放った。

「最後に。これは俺の勝手だが、どのくらいの強さか確かめたい。ま、これは最悪死ぬ可能性もあるがな」

「え……」

 四つ目の指を立てながら言った言葉に、ニルヴァーナは言葉を失う。しかしすぐに、慌てて声を荒げる。

「いや、ダメだよそんなの! もし何かあったら……!」

「まあ、そうなんだがな。戦闘員としての本能だ。許せ。……それに実験の結果、もしすぐにでもニルを誰かが操るようなら逆に好機と受け取ればいい」

「えっ」

 少し意味が分からずに、ニルヴァーナは首を傾げる。

「つまり、その乗っ取りがすぐに発生するならば。力を求める時にわざと乗っ取らせ、敵を狩らせればいい。まあこれは、ニルにとっての敵だけを襲うという条件をクリアしたらの話だが」

 その考えは無かった。だが、イーヴァの言うことも分からないでもない。あまりにも危険ではあるが、確かに強大な力を手にすることが出来たということになる。

「ただ、その度に残虐なことが行われるなら、少し考えなくてはならないがな」

「ああ、それは……、そうだね」

 正直、もうあの光景は見たくない。マギエを手に入れる覚悟が無かったと言われればそれまでだが、あれは、いくらなんでも残忍すぎる。

「とりあえず、明日は帰路の途中、どこか広く安全な場所で実験を行おう。その後に移動魔法が使えるロムレイアスに寄って、一気にロムプリエストまで飛ぶ。そこからだから……、まあ夕方前にはついているだろうな」

「……うん、わかった」

 自分の能力がどうなったのか試したいニルヴァーナは、強く実験を拒否する気にはなれず、しぶしぶイーヴァの提案に乗ることにする。

「それじゃ、先に寝ろ。俺はある程度見張って、簡単な防御柵でも作ってから寝るとする」

「わかった、おやすみ、イーヴァ」

「ああ、おやすみ」

 それからニルヴァーナは、近くのテントに入ると、そこに敷いてあった寝袋の中に入る。体も精神も疲れているニルヴァーナは、それから数十秒と経たないうちに眠りに入ってしまう。

 その様子を見たイーヴァは、安心したようなため息をつく。

「明日は、なんともないといいが……」

 そう呟いたイーヴァの言葉は、闇夜に溶けていく。


 そしてその願いは、叶うことは無かった。

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