第4話 目覚めし破壊者

「なんだよ、これ……」

 金髪の男が、驚きで目を見開く。

 金髪の男が見つめているのは、緑に光った、円形の魔法陣のようなものに守られたニルヴァーナの姿。男の攻撃は空中に浮かぶ緑の魔法陣により防がれ、ニルヴァーナに届くことは無かった。

 だが金髪の男が驚いたのは、攻撃が防がれたことではない。実際にマギエの能力の一つに、防御の陣を形成し自らを守る『防陣』という能力はある。その能力を使って攻撃を防いだのだろう。

 男が驚いていたのは、守られていたニルヴァーナの姿だった。状況的に少年がこの能力を使ったと考えるのが妥当だが、その少年は力が抜け、うなだれたように上半身を下に向けている。

 防陣のマギエを使う際は手をかざし、そこに防御の陣を作るのが一般的だ。相当な上級者になるとそんなこともしないのだろうが、つい先ほどマギエを手にしたばかりの少年に上級者と同じ芸当ができるとは思えない。

 まして、男が攻撃をした瞬間にこんな体勢になったことを考えると、より不可解だった。

「お前、いったい何を……」

 金髪の男が右手を引いて、後ずさりしつつそう呟くが、少年は答えない。魔法陣のようなものは消えはしたが、少年の体は微動だにせず、奇妙な体勢を続けている。

 奇妙な光景に男たちが固まる中、少年はゆっくりと目を開いた。その目の焦点は定まらず、何かを探すようにただただ地面を見つめる。

 そのまま数秒ほどした後、少年はゆっくりと上半身を起こした。

「あ、あー……、あー、あ?」

 マイクチェックをするかのように、少年は声を出す。先ほどまでのニルヴァーナの声色とはどこか違い、まるで別人の声のような錯覚に陥る。

 さらに、少年の目つきまでもニルヴァーナでは無いようだった。先ほどまでのニルヴァーナの目つきは、戦闘の意志など感じられないと言っていいほど穏やかな目つきだった。だが、今は攻撃的な目つきだ。今すぐにでも戦いを始めそうな、そんな雰囲気をもっている。

「あー……、ったく、やっと出てこれた……」

 そう言ってニルヴァーナだったはずの少年は自分の右手を上げ、じっくりと観察する。手を握り、広げる行為を何回か繰り返した後に、今度は右腕全体を観察し始めた。

「こりゃ……、ダメだな。使い物にならなそうだ。ま、宿主様の体に文句も言えねえか」

 ここまでの少年の行いは、自らを取り囲んだ三人の男たちを完全に無視してのものだった。視線すら移さず、全く気にしている雰囲気もない。

「ていうかなんだこの服装。戦いにくいったらありゃしねえぞ。くそ、めんどくせえ」

 そう言いながら、少年はネクタイを乱暴に外し、投げ捨てる。それからスーツやシャツのボタンを適当に外しつつ、上着を巻き込む形で、袖を乱暴に捲った。すべてを終えて自らの体を見渡すと、少年は満足そうに頷いた。

 一方で三人の男たちは、どうすればいいのか戸惑っていた。

 奇妙な体勢で攻撃から身を守るような少年に攻撃を仕掛けても、果たして通用するのだろうか。かといって、逃げるわけにもいかない。防陣を使いこなすだけならば増援を呼ぶほどとは思えないが、雰囲気がガラリと変わった少年を見ては、そう簡単に判断も下せない。

 頭の中でそんな風に迷いつつ、金髪の男が不安そうに息を呑む。それから、隣にいた長髪の男に話しかけた。

「……どうする」

「どうするって、捕らえるほかねえだろ」

「でも、どうやって」

 少し弱弱しい声で、金髪の男がそう尋ねた。長髪の男は、腰に下げた剣の柄を強く握りしめてから返答する。

「……策はある」

「なんだ、言ってみろ」

「防陣は、初心者には扱いが難しい能力と聞く。初めのうちは、陣を作るのは一つが限度らしい。それならば、いくつもの攻撃を同時に仕掛ければ、あの少年に攻撃は届くかもしれん」

 長髪の男は、そう言ってから少年を睨みつける。

 今もなお、少年は余裕そうに体の観察を続けている。と言うよりも、体の感覚を確かめている、と言った方が正確だろう。

 正直言って、隙だらけだった。多少の戦闘経験を積んできた男たちならば、すぐにでも倒すことが出来そうなほどの隙。それでも、長髪の男は攻撃に踏み込めない。

「だが、あんな体勢でお前の攻撃を防いだあの少年に、そんな常識が通用するかどうか……」

 先ほど少年が見せた、奇妙な防御。あれが、ただただ長髪の男を迷わせる。

「確かに、そうだな」

 不安そうに同意する金髪の男も、長髪の男とは同意見だった。今までの戦闘経験において、あんなに奇妙なことは無かった。

 それから金髪の男は、少年を挟んで向こう側にいる赤い髪の男を見る。赤い髪の男は不安そうに頷いた。やるしかない、というような視線を二人の男に向けている。

 それを

「とにかく、今はやれることをやるぞ。何もせずに帰れん」

「……ああ」

 男たちは決心したように、それぞれ攻撃の体勢に入る。金髪の男は右手を掲げ、赤い髪の男は両手を前に出す。長い髪の男は、腰に下げた剣を引き抜いた。

 長い髪の男が、能力を使う。それと同時に男の周りに風が吹き、剣が緑色に光り始めた。

「行くぞ!」

 タイミングを見計らったように、三人の男たちがそれぞれ攻撃を放った。

 赤い髪の男は勢いよく地面に両手を叩きつける。すると地面は勢いよく割れて、その割れ目は少年へと迫っていく。

 長い髪の男は剣を縦に振り上げた。剣は光り輝く軌跡を描いたかと思うと、その軌跡は衝撃波へと姿を変える。衝撃波は、少年を切り刻もうと飛び出した。

 金髪の男は右手に力を込め、雷を生成する。雷は一度大きく弾け、周囲に何本も飛び散った。それぞれの雷が飛び回る龍のように動いたかと思えば、突如収束し少年に襲い掛かる。

 三者三様の攻撃が、少年へと迫っていく。迫る時間は刹那とも言っていいほど短い時間だった。この狭い路地で、かなり近い距離でここまでの攻撃を放たれ、対処できる人間などそうはいない。

 しかし少年は、いとも簡単に、視線すら向けずそれらを防いで見せた。

 地面では少年を中心に防陣の魔法陣が形成され、それに沿うようにして地割れが止まっている。衝撃波と雷は、先ほどと同じように空中で展開した、防陣の魔法陣に弾き飛ばされていた。それぞれの攻撃を止めると同時に、魔法陣の中央に描かれた盾の模様が怪しく光る。

「くそっ……」

 悔しそうに、金髪の男が呟く。

 その言葉を聞いた少年は、ようやく金髪の男へと視線を向けた。

「なんだよ、こんなもんか?」

 ひどく侮辱するような視線で、少年は男たちを見つめていた。とてもつまらなそうにため息をつく。

「ったく……。ベラベラと無駄口叩いて、警戒のかけらも見せねえから、さぞかし力に自信があってお強いのかと思ったら……、ただの雑魚じゃねえか」

 少年は首を回し、音を鳴らす。

「えーっと、轟雷に波動、それと破砕……、か?」

 少年が口にしたのは、三人の男たちのマギエの名称だ。雷を放つ『轟雷』、衝撃波を操っていた『波動』、そして地面や岩をも砕く『破砕』。

「これ、か」

 少年が、指を軽く弾いて音を鳴らす。

 その瞬間、男のすぐ近くに魔法陣のようなものが生成された。その魔法陣は先ほどの物とは違い、赤く、鮮やかに光っている。そしてさらに中央には、今にも燃え上がりそうな炎の模様が光っていた。

そしてその魔法陣から、巨大な火炎が放たれた。そしてその火炎は、長い髪の男に一直線に向かい、その体を一気に染め上げる。

 それは、余りにも短く、ほんの一瞬の出来事だった。男たちが視線を移す間もなく、長い髪の男は火炎に包まれていた。

「う、あ、……、つ、あづい。あぁづい!」

 長い髪の男は倒れ伏し、無様にのたうち回る。そうしている間にも男の体は黒く、焼け焦げていく。

 その光景はあまりにも残酷だった。残った二人の男は、ただただそれを見つめ、立ち尽くす。その視線は恐怖で揺らぎ、焦点もまともに定まっていない。

 当然だ。人間が焼け、焦げていく様を冷静に見ていられるはずはない。

 しかし、少年は違った。燃える男をただただ不思議そうに見つめて、首を捻る。

「あれ、おかしいな……。こっちか」

 そう言って、今度は指を鳴らすことなく、魔法陣を生成する。それは青く光り、中央に水の模様が描かれ、今までとは違う幻想的な雰囲気を放っていた。

魔法陣の幻想的な雰囲気とは対照的な、あらゆるものを飲み込みそうな豪胆さを誇った大量の水が、燃える男に降り注ぐ。

 水は火炎によって蒸発し、水蒸気を作り上げる。それと共に、男の体から火炎は消え去った。だが、その体はひどく焼け焦げ、見るに堪えないものになっていた。

「あ、あ、あ、……あぁ、あ」

 まともに声もだせず、かすれた音を立てて長い髪の男は呼吸をする。今となっては長い髪はすっかり燃え、ちりぢりになった髪が残るだけだった。

「お、おい、だいじょ」

「んじゃあ、これか」

 金髪の男が、心配そうに駆け寄ろうとした時。少年は再度魔法陣を生成した。すべてを照らすような黄色に光る魔法陣によって、瞬間的に辺りが明るくなったかと思えば、長い髪の男の体に、別のまぶしい明かりが集中していく。

 明かりの正体は、雷。先ほど金髪の男が使ったものよりも明るく、大きく、禍々しさすら持つ雷だった。

 その雷は、焼け焦げた男の体を無残に引き裂いていた。気が付けば、男の体は呼吸すらせず、わずかに振動するばかりだ。

「……な」

 あまりにも簡単に、ためらうことなく行われたその行為に、二人の男は言葉を失う。少年を見れば、ただ満足そうに頷いている。

「やっと当たった。くそっ、まだ微妙に感覚が掴めねえなあ」

 そう言うと、少年は赤い髪の男へと視線を向けた。

 赤い髪の男は、「あ……、あ……」と弱い声を上げたかと思えば、無様な足取りで逃げようと、少年に背を向ける。

「おいおい、待てよ」

 少年は不気味な笑みを浮かべながらそう言うと、勢いよく右手を振り上げた。

 振り上げられた手に合わせたかのように、赤い髪の男の進路上に突如巨大な壁がせり上がる。巨大な壁の真下部分には、重々しく光る茶色の魔法陣が広がり、中央の五芒星が物々しさを醸し出している。

「おー、今度はうまくいったな。……ま、付き合えや。オレのお目覚め記念だ」

 赤い髪の男の能力、破砕ならこんな壁は壊せるだろう。しかし、男にそれを判断するだけの理性は残っていなかった。ただ震え、諦めたように地面に座り込み、壁を見上げるのみだった。

「さて、てめえは……」

 少年は振り返り、金髪の男の方を見る。しかし、そこに男の姿はない。奥の方に目をやれば、必死に走る男の姿が確認できる。

「ちっ、逃げられたか」

 面倒くさそうに、少年は頭をかく。それから靴をならすように、爪先を地面に数回叩きつけた。それと同時に少年の両足にそれぞれ魔法陣が生成されたかと思えば、少年はその場から姿を消した。

 姿を消した少年は、あり得ないような速さで空中を駆けていた。

 空中を駆ける、という表現は通常あり得ないが、少年は実際に駆けている。白い魔法陣を空中にいくつか生成したと思えば、それに何度か足をついて速度を上げている。あまりにも速く駆け抜ける少年は、あっという間に金髪の男に追いついた。

 そして少年は、金髪の男の目の前に降り立つ。荒々しく、少年の体重ではあり得ない様な地響きを起こしながら。

「ひっ……」

「まあまあ、待てって」

 その姿は、金髪の男にとっては、さぞ恐ろしく見えただろう。それは悪魔のようにも、化け物のようにも、死神のようにも見えたはずだ。

「お楽しみは、これからだぜ」

 少年が不気味に笑ったその瞬間。男の体は宙を舞っていた。それは、少年が放った蹴りの衝撃によるものだった。金髪の男は悲鳴すら上げることなく、何回か地面を転がっていく。そして、無様に座り震える赤い髪の男にぶつかり、両者は地面に倒れ伏す。

 少年は、足を中心に広がる灰色の魔法陣を消すと、再び白い魔法陣を作り出す。その中央にはとがった羽のような模様が描かれ、速さを表しているようだ。

 再び空中を駆け抜け、倒れ伏した二人の男の傍らに少年は降り立った。

「ぐ、あ、……、う……」

 全身に走る痛みを耐え、金髪の男は少年を見上げる。

 ひどく楽しそうな笑みを浮かべる少年は、もはや死神にしか見えなかった。少なくとも、まだ年端もいかない少年の浮かべていい笑みではない。あんな不気味な笑みは、男は見たことが無い。

 男が絶望する中、それを嘲笑うかのように少年が口を開く。

「おいおい、無様に寝てんじゃねえよ。もうちょっと気張れや。な?」

 その声に呼応したかのように、金髪の男はゆっくりと立ち上がった。能力者として、戦闘員としての矜持がそうさせるのだろうか。それとも、死神に対する微かな抵抗か。

「おっ、いいねえ。よく立ち上がった。褒めてやる」

 力を振り絞って立ち上がった男を挑発するように、少年は数回だけ手を叩く。それを見た金髪の男は、憤怒の表情で自らの能力を振るった。しかし、その雷は少年の体には届かない。盾の模様の魔法陣が、簡単に雷を弾き飛ばす。

 それと入れ替わる様に、今度は水色の魔法陣が浮かび上がる。中央に描かれた、揺れ動く波を表した曲線が光ったかと思えば、そこから衝撃波がいくつも繰り出される。それは、長い髪の男が放った衝撃波よりも鋭く、どこか美しかった。

 『波動』という能力は、衝撃波を生み出すだけの能力ではない。他にも音波を生み出したり、水中では津波を生み出したり、波に関する事柄を操ることのできる能力だ。

 そして、波動という能力の中で最も攻撃能力の高い衝撃波を生み出すには、長い髪の男がやっていたように刃物を用いるのが一般的である。その方が、安定したイメージで波を操り、衝撃波を生み出しやすいからだ。

「なっ……!」

 金髪の男は、その性質を知っていたからこそ、少年の繰り出した衝撃波に驚きを隠せなかった。何かを媒体にすることなく、ここまで多くの衝撃波を生み出すことは、信じられなかった。

 そしてその衝撃波は一瞬のうちに、幾重にも金髪の男の体を切り刻んでいく。腕や足、顔だけにとどまることなく全身を切り裂く衝撃波によって、男は大量の血を噴き出す。

 一瞬短い悲鳴を発したかと思えば、全身を真っ赤に染め上げた男は地面に崩れ落ちた。

「いやあ、初めてにしては上出来なんじゃねえか?」

 少年は、切り刻まれた男のことなどまるで気にしない。残酷な風景を見ても、表情を歪ませることは無い。まるで何事もなかったかのように、楽しそうに、何かを指折りで数えていく。

「えーっ、と? 防陣に劫火に轟雷、豪水。あとは疾駆に槌撃に、……剛土と波動か」

 少年が数えていたのは、今までに使った能力の数。八個も能力を使うのは、通常の人間では不可能だ。マギエは、一人につき一つのはずだ。

「はっ、それにしても、本当に滑稽な名前だな。マギエの能力名ってのは。無駄に格好つけてて、仰々しい」

 少年は、嘲笑を浮かべながら赤い髪の男に近づいていく。

「炎を出すだけで『劫火』、雷なら『轟雷』。何かをぶっ飛ばすのは『槌撃』で、土を操るのは『剛土』だ。どんな能力でもアホみたいに格好つけてよ、笑っちまうよな」

 赤い髪の男は、それを黙って聞いていた。ご機嫌取りに同意する気も、愚かな抵抗で否定する気もなかった。命がなくなるのを、ただ待っている。

「そんで、てめえの能力は……、破砕か。そう言えば、一個気になるんだけどよ」

 何か実験をするような雰囲気で、赤い髪の男の顔面を少年は鷲掴みにする。

「破砕を人間に使ったら、どうなるんだろうなあ?」

 狂気的で、恐ろしいそんな言葉をとても楽しそうに、無邪気で不気味な微笑みと共に、少年は言い放つ。

 男は、その言葉に、その表情に、その雰囲気に、一気に全身の毛が逆立った。

 一体、この少年はなんなんだ。どこまで猟奇的で、狂気的で、残忍であれば気が済むんだろうか。ここまで破壊を好む少年なんて、いままで見たことは無い。存在してはいけないはずだ。

 そう、誰もが感じるだろう。事実、男はその思いでただただ震えあがっていた。

「さ、て。……フィナーレだ」

 少年が、男の顔面を掴む手に力を込める。男は、死を覚悟する。

 しかし、男に死は訪れなかった。少年は男から手を離し、残念そうに後ろに後ずさっていく。

「あぁ、くそ。時間だ……。よかったなあ赤髪。命拾いしてよ」

 後ろに数歩揺らめきながら、少年はそう呟いていく。

「ま、仕方ねえな。初めてでここまでやれたんだ。上出来だろ」

 特に苦しそうな様子ではないが、立っている姿は、今にも倒れそうなほど不安定だ。

「さて、交代だ」

 そう言うと、少年は深く目を閉じる。

 しかしその直後。ニルヴァーナは、ぱっと目を開けた。

「え、あ、え……? うわっ、と!」

 バランスを崩したように、ニルヴァーナは後ろに数歩よろめく。なんとか倒れずに済んだものの、慌てふためく様は、正直不格好だ。

「え、何、……え?」

 ニルヴァーナは、目の前に座る男を見る。

 自分を取り囲んでいたときとは違い、赤髪の男から生気や恐ろしさは全く感じられない。無様に濡れるズボンの股間部分は、かなり滑稽だった。

「いったい、何が……」

 男を起こそうとニルヴァーナが手を伸ばす。しかし男は震えあがり、後ずさる。

「な、なんだ、結局、ころ、こ、ころすのか?」

「いや、何を言って……」

 ただただ困惑するニルヴァーナの様子を見て、男は何かを悟ったように目を見開いた。そしてすぐさま立ち上がり、ニルヴァーナを押しのけて暗闇へと駆けていく。

「だから、何なんだよ……」

 茫然とニルヴァーナはその様を見つめていた。本当に、なぜ自分を恐れるのだろうか。

 ニルヴァーナは、ふと視線を地面に向ける。そして視界に飛び込んできたのは、焼死体と無残に切り刻まれた死体。

「……っ!」

 ニルヴァーナは震えあがり、全身に鳥肌が立つのを感じた。あまりにも凄惨な光景を見てられず視線を移すが、一瞬で吐き気が込み上げてくる。

「うえっ、……か、はっ……」

 たまらずニルヴァーナは嘔吐する。路上に広がる嘔吐物を見つめながら、ニルヴァーナは思考を巡らせた。

 なぜ、こんな状況になっているんだ。丸焦げの死体。あり得ないほどの血を流す死体。一体誰がやったと言うのか。

 誰かが助けに来たのだろうか。いや、それならば、先ほどの男が自分を見て恐怖で逃げるのはおかしいはずだ。

 ……まさか、自分がやったのだろうか。

「いや、でも、俺にそんな力は……。記憶だって、ない、し……」

 記憶がない。

 それはこう考えることもできる。何かが自分を乗っ取ったのではないだろうか。自分の意志とは関係なく、何かの能力を振るい、こんな状況を作り上げたのではないか。

 無理矢理自分に殺人を、犯させたのではないだろうか。それも、こんな残虐なやり方で。

「なんで……、そんな……」

 ニルヴァーナは、そんなこと認めたくなかった。そんな残忍な何かが自分を乗っ取ったというのか。そんなはずはない。そんなこと、考えたくもない。

「違う……、違う……」

 ニルヴァーナは、転がる死体を見ないように、その場から歩き出す。

 壁に体重を預け、這うような速度で、ゆっくりと歩を進める。

 それでも蘇る、あの悲惨な光景。自分以外、あれをやったとは思えない状況。

「違う……、違う……」

 同じことを呟き、虚ろな目で、ただただ歩く。

 心が壊れたかのように、ニルヴァーナは同じことを呟き続けていた。自分が思いついた可能性に納得しないように。認めないように。

 確かに、ニルヴァーナは力を望んだ。人を、人間を、富裕層を倒せるだけの力を。それでも望んだのは、こんな残忍なやり方ではないはずだ。

「違う……、ちが……っ!」

 その内に、ニルヴァーナは足をもつれさせ、転んでしまう。

 うつ伏せに倒れ伏したニルヴァーナは、そのまま涙をこぼし始めた。

 擦りむいた膝が痛む。転んだ時に擦れた手の平が痛む。しかし、その涙はそんな些細な痛みから出たものではない。それは、あまりにも絶望的な、この状況にこぼした涙。

 男三人組に囲まれたときも絶望的だった。自分の能力は使えない、助けも望めない。命を落とすことだって有り得た。それでもニルヴァーナにとって、今の方が圧倒的に絶望的だった。

 確かに、自分は力を望んだ。それも、人を傷つける力を。それは分かっていた。だが、果たしてこれが、本当に自分の望んだものなのか。

 違う。違う。こんなものは、違う。絶対に違う。

 生前の姿など想像もつかない程焼かれ、焦げた死体。切り刻まれ、血に染まり、見たくないものが余りにも多く露出している死体。

 そんなこと、自分はしない。するはずがない。

 そうだ、あれはきっと、他の誰かが俺を操ったんだ。近くに誰かマギエ使いがいて、俺に能力を使わせるようなマギエでもあって。赤髪の男が俺を恐れたのも、きっとそれが原因だ。俺の意志じゃない。俺のせいじゃない。

 自分がやったのではないという理論で、ニルヴァーナは自らを納得させる。

「そうだ、俺じゃない……。俺じゃ……」

 ニルヴァーナはゆっくりと立ち上がり、その場から逃げるように歩き始める。

 今の場所はわからなかったが、ニルヴァーナはとにかく逃げることだけを考えようとした。あの状況のことは、考えないように。

 不確かな足取りで、ニルヴァーナは歩を進める。最早どこに出ようが、襲われようが、発見されようが構わなかった。とにかくあそこから離れたかった。

 大通りに出たい。明かりが欲しい。なんでもいいから、こんな路地から出させてくれ。

 ニルヴァーナはそんなことを、繰り返し呟く。確実に気が滅入っていた。

 それから、ニルヴァーナにとっては永遠にも感じられるほど歩き続けたとき。巨大な壁が、ニルヴァーナの目の前にそびえたっていた。一瞬だけ、ニルヴァーナはこれが何だか判断できなかった。自分の知らない巨大なビルか何かだと思い、視線を背けて歩き出す。

「……いや、これって」

 突如顔を上げて、ニルヴァーナはもう一度壁を見上げる。

 周りの建物と見比べても、余りに巨大な壁。この町にだってこんなものはそうそう無いだろう。

「中と外とを隔てる、あの壁だ……!」

 ニルヴァーナの予感は確信へと変わる。この壁に正式名称があるかどうかなんて、知りっこない。そんなことはどうでもいい。この壁に沿って歩いていれば、間違いなく出口にたどり着く。逃げ切ることだって夢じゃない。

 そう確信したニルヴァーナの表情に、段々と人間味が戻っていく。目の焦点はようやく合い、顔色も少しは良くなる。

 先ほどまでとは違う、軽やかな足取りでニルヴァーナは壁に沿って駆けていく。早くこの町から出たい。その一心で駆けていく。

 出口で誰かが待ち伏せをしているとか、途中で誰かに襲われるとか、そんなことは考えていなかった。ただ、どこかわからない出口を目指す。

 すると、遠くの方に一か所だけ壁からせり出た部分が見えた。

「あれ……、多分、出口だ!」

 ニルヴァーナの表情は気が付けば笑顔に変わっていた。気が付けば、先ほどまでの恐怖心と不気味さは、ここから出れることの希望に押しつぶされていた。

「や、った……!」

 ようやく、出口にたどり着く。

 辺りを見渡せば、この町から出ていく商人たちや、出口を守護する警備兵。少なくとも、今までの非日常ではなく、どこか日常的な光景。

 突然裏路地から現れたニルヴァーナを、警備兵は怪しそうに見つめた。擦り切れ、汚れきったスーツ。さらには涙や汚れでぐちゃぐちゃになった顔。不審に思うのも無理はない。

「おい、君……、大丈夫か? なんだその恰好は」

 警備兵がニルヴァーナに駆け寄り、話しかける。その瞬間。ニルヴァーナの目から涙があふれ始めた。

「お、おい、どうした! 何かあったのか?」

「いえ、……いえ、なんでも、ないです。なんでも」

 今のニルヴァーナの精神状態では、生きている人間に話しかけられることが何よりも嬉しかった。自分を怖がることのない、普通の一般人に。

 そんな当たり前のことすら歓喜に感じるほど、ニルヴァーナの精神は崩壊寸前だった。十六歳で、これまで戦いに生きてこなかったニルヴァーナにとっては、これまでに起きた怒涛の展開は余りに非日常すぎたのだ。

 ニルヴァーナはその場に座り込み、涙を流す。周囲の視線も気にすることなく、ただ泣き続ける。

 それまでため込んでいた不安、恐怖、悲しさを吐き出すように。

 そして、人の生を実感できること。その状況に湧き上がる喜びや安堵を、噛みしめるように。

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