第2話 マギエ

 クライス町。

 ニルヴァーナの故郷であり、貧困民の町。首都アングマールからはほど遠く、富裕層からの迫害は、他の町に比べれば少ない方だろう。

 そんな町の収入源は、主に傭兵団だ。クライス町には多くの兵士が存在し、それを他の町に護衛や狩人として雇わせることで、収入を得ている。現に、町のあちこちでは鍛錬に励む男たちの声がよく聞こえてくる。

 町並みといえば、ほとんどの家が木で出来ていることが特徴だ。石造りの建物を作る技術はあるが、ほとんどの男たちが兵士として雇われ出払うことが多いため、その時間は作れない。よって、石造りよりはある程度簡単な木で家は作られている。

 そんなクライス町の中央、集会場。町の中では珍しい石造りの大きな建物の、滅多に使われない小さな一室にニルヴァーナと一人の少女、それと数人の大人たちが一人の老人を囲むように座っていた。

 老人は一度辺りを見回すと、重苦しく口を開いた。

「……ニルヴァーナよ。今日は、来てもらってすまないな」

 老人は、この町を収める町長だ。ニルヴァーナは町長に敬意を払うように頭を下げながら返答する。

「いえ、町長。とんでもないです。ところで、俺に用事って……」

「ああ、それなんだがな……、おい」

 町長が、一人の男性に指示を出した。指示を受けた男性は一度奥に引っ込むと、何か大きなものを押して戻ってきた。それを見たニルヴァーナと、彼の後ろにいる一人の少女は、なんだかわからないといった目でそれを見つめる。

 目の前まで運ばれてきて、ようやくニルヴァーナはそれがなんだかを理解した。それは、札束。それも彼が今まで目にしたことのない高額な紙幣で作られた、大量の札束。

「うわ、すげ……」

 あまりにも衝撃的な光景に、思わずニルヴァーナは言葉を漏らす。

「ねえニル、これ……」

「ああ、金だ。でも、こんな額見たことない。セレナは?」

「私もない。初めて見る……」

 ニルヴァーナの後ろに座る一人の少女。その名はセレナ・ティミトル。ニルヴァーナの幼馴染。ニルヴァーナをニルと呼ぶのも、それ故だ。

 服装こそきれいとは言えないが、短く切りそろえられた金色の髪は貧しさを感じさせないほどきれいだ。集会所の重苦しい空間でも、一際輝きを見せているように感じられる。

「でも町長。こんな金、いったい何に使うんですか?」

「ああ、それはだな……」

 町長はそこで黙り込み、その先をなかなか言おうとはしない。それは十六歳の少年に頼むことを苦としているためだ。

 しかし町長は意を決したように顔を上げ、ニルヴァーナの目を見つめる。数秒見つめた後、ゆっくりと口を開いた。

「お前に、この町の命運を託したい」

「……え?」

 何を言われたのか理解できず、ニルヴァーナは固まる。町長はそれを気にせずに言葉を続けた。

「この町はアングマールから離れているために、迫害はそれほど受けてこなかった。しかし、我々の主財源が傭兵団である以上、富裕層に交易を邪魔されることも多々ある。そんなことをされては、十分な技術や設備を与えられていない我々にとって、自力で豊かな生活を送ることは困難だ」

 町長が語り始め、ニルヴァーナは固唾をのんで聞き役に徹する。今まで生きてきて分かりきっていたことではあったが、聞かずにはいられなかった。

「我が町の数少ない若者のニルヴァーナとセレナにも、満足のいく暮らしはさせてやれなかった。……ニルヴァーナの輝かしい銀色の髪も、セレナの美しい金色の瞳も、いつかは濁らせてしまうと思うと、私は耐えられない」

 町長は悲し気に話を続ける。

「この状況を打破しようと、我々の傭兵団も幾度となく抵抗を繰り返してきた。しかし、マギエという強大な力の前に幾度となく敗れ去って来た」

 そう語る町長は、己の力不足を痛感するかのように、強く、硬く拳を握りしめる。

「こうなったら、我々もマギエを獲得し、富裕層に対抗するしかないと考えた。だが、それを十分に、多くの人員に獲得させるだけの資金は持ち得ない。……町中から集めたこの資金でも、一人分が精一杯だろう」

 ニルヴァーナは、町長の頼みごとをうっすらと理解し始めていた。セレナも同様に理解し始めていて、ニルヴァーナの服の裾をそっと握る。

「だがこの町の防衛上、屈強な大人たちを首都に向かわせることはできない。近隣の盗賊に襲われ、この町がなくなってしまっては、元も子もない。……そこでだ、ニルヴァーナよ」

 町長は一度言葉を区切り、もう一度拳を強く、強く握りしめた。それは、頼むことしかできない悔しさからか、はたまた若者に頼むしかない虚しさからか。

 ニルヴァーナはそんな町長の様子を見て、一度だけ深く頷いた。まるで、町長の背中を押すように。町長はそれを見て決意したように、再度口を開いた。

「……お前に、この資金と、町の命運を託したいのだ。首都アングマールへと向かい、マギエを習得してきてほしい」

 町長の言葉を、ニルヴァーナはただ黙って聞く。拒否は、しようとはしない。

「お前は穏やかな性格だ。行きたくないかもしれない。断ってくれても構わない。……十六歳のお前に頼むのは、間違っているかもしれない。だが、ニルヴァーナよ。お前しかいないのだ。頼む……」

 町長は消え入るような声でそう頼み込むと共に、頭を大きく下げた。

 それから、少しの静寂が訪れる。ニルヴァーナは考え込みはじめ、周りの大人たちは気まずそうに視線を逸らす。

「あの、町長!」

 そんな重苦しい静寂に耐えられないかのように、セレナが声を上げた。

「この町には、強い人たちがたくさんいます! 団長のイーヴァとか、ジェインとか、ガロスだってそう! 今訓練してる人だって、何人もいる。その人たちじゃ、ダメなんですか? なんで、ニルなんですか?」

 その質問は、ニルヴァーナを心配してのものだった。確かに、まだ訓練を始めていないニルヴァーナよりも、強い兵士たちに任せた方が安心感もあるだろう。

「ああ、それなんだがな……」

 町長は一度ため息をついてからゆっくりと頭を上げて、申し訳ないように語り始める。

「実は、団長のイーヴァはもちろんのこと、その他の団員はみな、アングマールの連中に目を付けられておるのだ。アングマールに入ることだって難しいだろうし、ましてマギエなぞ受け取ることもできんだろう」

「なら、訓練中の……」

 セレナがなんとか反論しようとするが、その反論を許さないかのように、町長は続けざまに話していく。

「訓練中の兵士たちは、良くも悪くも体が戦闘用に鍛え上げられてしまっている。そんな連中が、マギエを手にすることが出来るだけの大金を持っていくとなると、アングマールに入れてもらえるかは正直怪しい。彼らはまだ戦闘の技術は持っていないから、富裕層の奴らにもし追われでもすれば、どうにもならなくなる危険を孕む」

「あ……」

 ようやく理解したのか、セレナは黙り込んでしまった。

「しかし、ニルヴァーナは違う。まだ体はできていないし、目もつけられておらん。町へ入れてくれる可能性も高まるし、マギエだって、手に入る可能性はある。……最も、クライス出身というだけでどうなるかはわからんがな」

 話し終えた町長は、セレナに視線を向ける。もう返す言葉がないのか、俯いて、黙るばかりだ。

 続いて、ニルヴァーナに視線を向けた。ニルヴァーナは考え込むように、ただ足元を見つめている。

ニルヴァーナは、少しずつどうするか考えていた。町長の言っていることは危険なことで、何があるかわからない。正直、少しの間でも富裕層の町に乗り込むのは恐怖以外の何物でもなかった。

 しかし、ニルヴァーナにとってこの町は何よりも代えがたく、何よりも守らなければいけない町。セレナも、両親も、友人も、町の人々も。

 もしそれで仮に自分の銀色の瞳が曇ることになったって、ニルヴァーナにとっては怖くはなかった。この町が、自分の故郷が廃れていくのなんて見たくはない。


「町長」

 重苦しくこの場を制圧する静寂を断ち切る様に、ニルヴァーナが、優しい声で話し始める。

「俺、行きます。行かない理由がない。今まで育てられてきたこの町で、やっと役に立てるんです。行かせてください」

 自分の恐怖という感情を押し殺すように、ニルヴァーナは町長にそう言った。自分の気持ちを再確認するように。

「ニル……」

 セレナが、心配そうにニルヴァーナにすりよった。ニルヴァーナは振り返り、優しくセレナに話しかける。

「大丈夫だ、セレナ。俺はきっと帰ってくるから。強くなって、この町を、皆を守れるように」

「……うん」

 瞳に涙をためながら、セレナは小さく頷いた。それを見たニルヴァーナは、再び町長の方を向く。

「俺じゃあ力不足かも知れないですけど、行かせてください。必ず、町を救います」

 ニルヴァーナは力強くそう言い、強く頷いた。町長はその言葉を聞き、ニルヴァーナの手をとると、ありがとう、ありがとう……、と消え入るような声で何度もつぶやいた。


 これが、ニルヴァーナ・グラールの旅の幕開けだった。




 ニルヴァーナは、わずか数日前のそんなことを、決意を固めるために思い返しながら、与えられた席に着いた。

 通された部屋には、一つの大きな円形の机といくつもの椅子があった。あまりにも巨大なその部屋は、クライスには存在しない程だろう。机はしっかりとしていて、わずかでも揺らぐことは無い。椅子だって、その柔らかさには正直驚きを隠せなかった。

壁に張り巡らされた窓から覗く景色に目を奪われていると、男が話し始めた。

「すまないね、本当はもっと小さい部屋を使いたかったんだが、生憎ここしか空いていなかった。少し話しづらいかもしれないが、勘弁してくれ」

 そう言いながら、男はニルヴァーナに対面するような場所に腰かけた。

「さて、それじゃあ話を始めようか。……申し遅れたが、私の名前はケイアス・アシュケナージ。MID社脳機能開発部の部長を務めている。以後、よろしく頼むよ」

 そう言って、ケイアスは優しく微笑む。それと同時に、一つ小さく礼をした。それにこたえる様に、ニルヴァーナは口を開く。

「……ニルヴァーナ・グラールです」

「ああ、聞いているよ。それにしてもいい名前だね。センスがある」

 ニルヴァーナの名前を素直に感心するように、ケイアスは頷いた。しかし、そこまで感心するような名前には思えずにニルヴァーナは首を傾げる。それを見たケイアスは、わずかだが目を見開く。

「……おや、ニルヴァーナの意を知らないかね?」

「ええ。特に気にしたことも無かったので」

「そうか。今度、親に聞いてみるといい。意味さえ理解すれば、実にいい名だとわかるだろう。……そんなことよりも、ニルヴァーナ君。本題に入ろうか」

 ケイアスはそう言って手を叩いた。

「君の目的はマギエを手にすること。……間違いないね?」

「ええ、そうです」

「歳と出身を聞いても?」

「十六歳、クライス町出身です」

「ふむ。……いいねえ。実にいい」

 そう言うと、ケイアスはゆっくりと立ち上がった。そしてゆっくりと、テーブルに沿うように歩き始める。

「私はね、君を尊敬するよ」

「尊敬……、ですか?」

 ニルヴァーナは再び首を傾げた。まさか富裕層に尊敬されることになるとは。

「ああ。君は恐らく、故郷の命運を託されここに来たんだろう。単身、身分の違う町に来るなんて普通はできるもんじゃない。それもクライスなんて遠いじゃないか。よくもここまでたどり着けたものだ。それに、君みたいな若い者が」

 ケイアスは、多少芝居がかったような身振りを交えながら話を続ける。

「本来なら、将来私たちの立場を脅かしかねない君に、マギエを与えることはしないべきだろう……。しかも傭兵団で稼ぐクライス出身というじゃないか。こんなもの、マギエを与えてしまえば私たちの将来はどうなるか」

 そう言い終わると同時に、ケイアスはニルヴァーナの隣に立っていた。

「それに、だ。失礼だが、君はクライス出身の割には体は貧弱だ。周りの屈強な男たちが行けばいいという不満もあるだろう。それを乗り切ってここまでやって来た。褒め称えてあげたいくらいの勇気だ。……特別に、君に尊敬の意を表して、マギエを与えてあげようじゃないか」

満足そうに言うケイアスを見て、ニルヴァーナは無事に目的を達成できそうなことに安心し、安どのため息をつく。

「だが、これはビジネスだ。何も無料で、はいどうぞとあげるわけじゃあない。それ相応の額は払ってもらわないと困る」

 ケイアスはそう言って、ニルヴァーナに手のひらを向けた。もちろんだが、これは握手の意ではない。ニルヴァーナが抱えるリュックの中身を見せろ、ということだ。

 ニルヴァーナは一度頷くと、立ち上がる。そしてリュックの封を開け、中身をテーブルの上に広げた。

 大量の札束が、テーブルの上に広げられ、乗り切らなかった札束もいくつか落ちてしまう。ケイアスはその様子を見て満足そうに頷いた。

「うん、いいね。中身が全て札束とは聞いてはいたが、やはり実物を確認しないと気が済まない。これほどの量なら、十分に足りるだろう」

 そう言うとケイアスは、胸元から携帯端末を取り出すと操作を始めた。それから数十秒待っていると、部屋の扉を開き一人の女性が現れた。

 女性は、ワゴンのようなものを押している。十分に札束が載るほどの大きさだが、大きさの割に女性の移動は楽そうだ。

「ここにあるものを全部、頼んだよ」

 ケイアスは広げられた札束を指さし、女性に指示を出した。女性は頷くと、広がった札束を集め始める。その間に、ケイアスは説明を始めた。

「疑うようで悪いが、偽札かどうかを調べさせてもらう。稀に、金のない愚かな者が偽札を使用してマギエを得ようとすることがある。そう言う奴らは処罰対象だ。君からすれば気分のいいものではないだろうが、一応ね。別室で行うが、すぐに終わる」

 ケイアスが説明を終えると同時に、女性は部屋の外へと出て行った。それを見計らったように、ケイアスはニルヴァーナに再び座るように促した。ニルヴァーナが席に着くと、ケイアスは最初に座っていた場所へと戻っていった。

「……さて、偽札識別を待っている間に、いくつか説明をしようか」

 ケイアスは席に着き、そう話し始めた。ニルヴァーナはいよいよか、と気を引き締める。

「まず一つ目。マギエは必ず手に入る。それに関しては保証しよう。だが、その能力はどんなものかはわからない。『劫火』、『轟雷』といった直接攻撃をするもの。『具現』や『飛行』といった間接的に攻撃を助けるもの。『防陣』や『回復』といった後衛向きのものなど、その種類は様々だ。そしてついでに、能力は一人につき一つ。これは、絶対だ」

 その言葉に、ニルヴァーナは息を呑んだ。一方、ケイアスは少しだけ目を伏せる。

「……君が前衛として、この世界情勢を切り開く戦士になることを望んでいる、あるいは望まれているであろう状況では、回復能力といったものは不要となるだろうがね」

 ケイアスが放った言葉に、ニルヴァーナは目を見開く。

「……なぜ、それを」

「簡単な推測だがね。マギエを持たない貧しい人々は、マギエの情報を知ることはあまりないだろう。恐らくだが、何か攻撃をする特殊能力、くらいの情報しかないのではないかな」

「それは、そうですね……」

 ニルヴァーナは思い返す。確かに、周りの人々はそのくらいの情報しか口にしてなかったように思う。

「それくらいの情報しか無いのなら、人々は当然君に攻撃能力を望むだろう。実際その方が、革命の戦士という漠然としたイメージにも合致する」

「革命の、戦士」

「ははっ、まあ気にしないでくれ。私はそういう洒落た言葉が好きなのさ」

「はあ……」

 ニルヴァーナは頬をかきながら、少し考える。もし、回復能力といったものが自分に備わったらどうしようか、と。それで、故郷の人々は喜んでくれるのだろうか、と。

「さて、気を取り直して。二つ目。能力の強さのお話しだ。……いいかね?」

 考え込みそうになったニルヴァーナを注意するように、ケイアスが声をかける。ニルヴァーナは慌てて、「はい、大丈夫です」と返事をした。

 それを見たケイアスは一度頷いて、言葉を続ける。

「最初に手にする能力の強さは、正直個人差がある。同じ能力でも使い物にならない者もいれば、最強たりうる強さを手にする者もいる。これに関してはこちらも原因は特定できていないのが残念なところだ。巷では手術を何回も受ければその分能力が強くなるという噂もあるが、こちらは保証できない。成功例こそいくつもあるが、失敗例も少なくはないからね」

 再び、ニルヴァーナは息を呑む。最終的には運任せ、ということか。能力の種類も、能力の強さも。ただ祈るしかないということだろう。

「それから三つ目。これはとても重要なんだが……。今回、手術において脳をいじくらせてもらう。それに関して承諾書等、いくつか書類に記入してもらいたい。まあそれは後で渡そう。それに関して一つ。手術の際、君の脳に一つのチップを埋め込ませてもらう」

 ケイアスが言ったチップ、と言う言葉に、ニルヴァーナは首を傾げる。それを見たケイアスは優しく微笑んだ。

「ああ、チップには馴染みがないか。小さい電子機器なんだがね、このくらいの」

 そう言ってケイアスは指で大きさを表す。大体、小さな豆粒くらいといったところか。

「これくらいの大きさだが、多くのことができる。物によっては情報を記録したり、何かを動かしたり。それで今回、君の脳に埋め込むチップは、緊急時に君の能力を抑制する効果を持つ」

 ケイアスは、その言葉と同時に少し険しい表情になった。ニルヴァーナはなんとなく緊張しながら、ケイアスの話を聞く。

「マギエは強大な能力だ。故に、見過ごすことのできない罪を犯す者も出てくる。その際、犯罪を止めるためにそのチップが使われる。脳の一部の機能を停止させ、マギエそのものを使えなくするんだ」

「機能を停止って……、それで生活に支障は出ないんですか?」

 思わず、ニルヴァーナは質問する。確かに、脳の機能が止められてしまうのは恐ろしいことだ。しかし、そんなニルヴァーナの思いとは裏腹にケイアスは首を横に振る。

「保証はない。勿論、こちらもあまり支障が出ないように心掛けてはいるが、それでもどうしても害は出てしまう。だが治安維持局は、その支障を利用して、そうなりたくなければ犯罪はするな、と呼び掛けている」

 そう言った後に、ケイアスはやれやれ、といった様子で背もたれに背中を預ける。

「犯罪抑止力になるのはいいことだが、こちらとしては研究不足をうまく利用されてるみたいでなんともね……。複雑な気分さ」

「犯罪を止めてるなら、そのままでもいいんじゃないですか?」

「ま、それもそうなんだがね。やはり研究者として、完全なものに仕上げたい欲求には敵わんよ。……さて、ここまで一気に話してしまったが、何か質問はあるかな?」

 そう尋ねられ、ニルヴァーナは少し考え込んだ。

「そうですね……。さっきのチップの話なんですけど、害ってのはどの程度なんですか?」

「ふむ。これに関してはまとまった答えは返せないな。と言うのも、症状がバラバラなんだ。症状がひどい人では寝たきり、というのもあるし。体の一部が動かなくなったり、一部の内臓の機能が停止したりね。今までで最も軽い症状は、わずかな記憶障害だったかな」

「なるほど……」

「そうだな、それに関して一つ、忠告をしておこう」

 背もたれから背中を離し、まじめな顔でケイアスは語り始める。

「君がこれからしようとしていることは、想像できる。私はその行い自体は肯定するし、逆に否定もする。なんと言っても、君は社会を変えようとしているわけだからね。そういう勇気は偉大で、貴重だ」

 思わぬところでケイアスから賛美の声がもらえて、ニルヴァーナは恥ずかしそうに頬をかく。しかし、その態度は次の言葉で緊張へと変わる。

「だが、チップの害も考慮すれば、あまりにも危険だ。君が、そのチップの害を気にする気持ちもわかる。被害者となってしまう可能性もあるわけだからね。それに、下手をすれば全身が動かなくなり、重大な後遺症も残りかねない」

「そう……、ですね」

「だからこそ、私は君に決めてもらいたい。それでも手術をするか、やめるか。やめるというならば、君から預かった金額すべてを、すぐにでも耳をそろえて返そう。クライス町までの送迎も保証する。……よく、考えてくれ」

 そう言って、ケイアスは椅子から立ち上がり、出口へ歩き出した。恐らく、一人で考えさせようという配慮だろう。

 しかし、ニルヴァーナにとって、答えは考えるまでもなかった。ここまで来て、何もなく故郷に帰れるわけがない。怖気づいたから、なんて理由は認められないだろう。

 ケイアスがドアについたセンサーに手をかけようとしたとき、ニルヴァーナは口を開いた。

「待ってください、ケイアスさん」

 少し驚いた様子で、ケイアスが振り返る。

「手術、受けますよ。受けないわけがない」

「……いいのかね? これは、あまりにも危険なギャンブルだ」

「いいんです。たとえギャンブルでも、何もせずに帰るんじゃ意味はない」

 そう語るニルヴァーナの目からは、確かな決意がうかがえる。

「大金を、皆の思いを背負ってここまで来たんです。たとえ危険を孕んでいたとしても、望んだ能力が手に入るのが、わずかな可能性でも。その可能性に賭けなくちゃ、何の意味もない」

 ニルヴァーナは、ケイアスをまっすぐ見つめた。ケイアスも同様に、ニルヴァーナを見つめる。

 数秒間そのまま静寂が続き、耐えきれなくなったようにニルヴァーナが口を開いた。

「……なんて、ちょっと恥ずかしいですかね、さっきのセリフ」

 恥ずかしそうに、ニルヴァーナは頭をかいた。しかし、ケイアスはふっ、と優しく笑うと、ゆっくりと拍手を始めた。

「素晴らしい。君はなんて素晴らしいんだ」

「え、いや、あの……」

「ここまで覚悟を聞かされては、たとえあれが偽札でも君にマギエを与えたくなってしまう」

 あまりにも感動した様子のケイアスを見て、ニルヴァーナは少し戸惑ってしまう。

「いや、さすがにその場合は……」

「はっはっは、冗談さ。君のその覚悟から見て、あれは間違いなく本物のお金だろうさ。今まで何人も偽札を使う愚か者を見てきたからね。違いくらいわかる」

 ケイアスは、冗談交じりに軽く笑うと、上着の内側から携帯端末を取り出した。

「……おや、もう識別は終わっていたらしい」

 携帯端末の画面を見て、ケイアスは嬉しそうに微笑むと、再びドアのセンサーに手を近づけた。

「やはり、私の目に狂いはなかった。君のお金はすべて本物だと証明されたよ。……さて、案内しよう。君の、未来を変える場所へと」

 ケイアスが、ゆっくりと扉を開き、廊下へと出た。

 ニルヴァーナは慌てて空のリュックを背負うと、ケイアスの後に続いた。




 ニルヴァーナは、再びエレベーターに乗り込んでいた。先ほどいた階よりも少し上の方に行くらしい。それにしても、エレベーターの感覚はやはり慣れない。

 やがて、エレベーターが止まる。ニルヴァーナはちらりとモニターを確認して今自分が何階にいるかを確かめた。

「三十八……。あれから八階分も上がったんですか」

「ああ、そうだ。そして、ここが我がMID社の誇る本部ビル、最上階。……と、少し待ってくれ」

 そう言えば、エレベーターは止まったのに扉は開かない。閉じ込められた様子でもない。

 ケイアスがモニターを操作しているのを、ニルヴァーナはただ眺めていた。正直、何をやっているかわからなかった。

 その内に、ようやく扉が開いた。ケイアスはエレベーターから降り、歩きながら説明する。

「この階は流石に誰でも入れるようにしたら問題が発生するからね。指紋認証や網膜認証、声紋認証など様々なチェックをしないと扉が開かないようになっているんだ」

「はあ、なるほど……」

 なるほどとは言ったものの、よく理解していなかった。ニルヴァーナは、そもそも認証などしたこともない。どんなものか、想像もつかなかった。

 それから、ニルヴァーナは辺りを見渡す。先ほどの階ではいくつか扉があったが、この階には一つしか扉はない。進む先に、重く、頑丈そうな扉があった。

 なんとなく、あそこが手術場所なんだと察したニルヴァーナは息を呑んだ。ケイアスはその様子をちらりと見ると、話し始めた。

「さて、流れについて説明しておこうか」

「……はい」

「あの部屋に入った後、先ほど説明した承諾書等、書類を一式書いてもらう。その後に、AIによる君自身のチェックが入る。健康度や、適正。体格なんかもそうだね。その検査の後、ようやく手術が開始される」

 扉の前についたケイアスは、話しながら手元のパネルの操作を始める。

「……そういえば、AIについて説明していなかったか」

 ニルヴァーナはAIという言葉の意味がわからずに首を傾げる。

「AIとは、すごく簡単に言ってしまえば、人間が作り上げた知能さ。人間が思考をするのではなく、機械に考えさせ、機械に全てを任せることで安全性を上げるとともに、確実性を上げる」

「はあ……」

「ははっ、よくわからないだろうね。まあ、そういうものだと頭の隅にでも置いておいてもらえればいい。……さて、入ろうか」

 言葉と共に、ケイアスはボタンを押した。それから、豪快な音と共に、扉がゆっくりと開いていく。

 部屋の中の景色を見て、ニルヴァーナは息を呑んだ。今までいた場所とは、明らかに雰囲気が違う。今までいた場所は、明るくどこか居心地のよいものであったが、ここは違う。暗く、少し寒気すらする。

 円形の部屋の中を見渡すと、存在するのは一つの椅子だけ。それも、部屋の中央にただポツンと置かれた椅子。他に存在するものはなく、壁や、床や天井は、ただ黒く、微かな照明で照らされるのみだった。

「さ、まずは座ってくれ」

 茫然とするニルヴァーナの背中を一度叩いてから、ケイアスは声をかけた。ニルヴァーナは慌てたように、椅子に駆け寄る。

 ニルヴァーナが座ったのを確認すると、ケイアスは椅子の後ろからいくつかの紙を取り出した。

「まずは、これに記入してほしい。私は少し準備に入るから一人になるが、わからないところがあったらあとで聞いてくれ。いいね?」

「あ、えっと、わかりました」

 ケイアスが部屋を出ていってから、ニルヴァーナは書類に視線を落とす。

 書いてあることはどれも難しそうで、複雑だ。だがなんとかそれを理解して、署名を続けていく。すると突然、部屋の明かりが灯った。

「わっ、え、なに」

 ニルヴァーナは慌てて辺りを見渡す。突如灯された明かりにより、部屋の雰囲気がガラリと変わる。壁が黒くて暗いのは変わりないが、ニルヴァーナを挟むように、正反対の位置に文字が二つ書いてあった。

 ニルヴァーナから見て左手に『S』。反対の右手には『O』とだけ書かれていた。

それだけで意味を捉えることはできず、ただ困惑する。何か深い意味がありそうだが、ニルヴァーナには想像もできない。

ニルヴァーナが首を捻っていると突然、部屋に大きな音が響いた。

 扉が開く音ではない。壁が動いたわけでもない。動いたのは、ニルヴァーナの真上。

 ゆっくりと開いた天井からは、ニルヴァーナにはわからない機械がせり出してくる。少し恐怖を感じてニルヴァーナは立ち上がりかけてしまう。しかし、意識を少しでも紛らわそうと書類に視線を落とし、一心不乱に署名していった。

 それからしばらくして、ケイアスが再び部屋に入ってきた。少しおびえた様子のニルヴァーナを見て、優しく微笑む。

「大丈夫だ、緊張しなくていい。それは先ほども言ったチェックの装置さ。君に害は与えない」

「そうですか、よかった……」

「それで、書類は書き終わったかな?」

「あ、はい」

 ニルヴァーナは書類をケイアスに渡す。ケイアスはそれをしっかりとチェックすると、満足そうに頷いた。

「うむ、いいね。問題ない。後はチェックを待つのみだ」

 そう言って、ケイアスはニルヴァーナの頭上の機械を見た。ニルヴァーナも機械を見上げる。

 ニルヴァーナの頭を大きな機械が覆い、そこから天井に無数のコードが伸びている。度々どこかが光ったり、機械音が鳴ったりするところから見ると、チェックを行っているのがなんとなくわかる。

 それから数分経って、先ほどまで鳴っていた機械音とは違う、アラームのような音が鳴った。それを確認して、ケイアスは口を開く。

「ようやく、終わったようだね。さて、これから手術だ。時間はかかるが、君からすれば一瞬だ」

「一瞬……?」

「一度麻酔を打って、君の意識を失わせる。だから、目覚めたときにはもうマギエを習得しているというわけさ」

「なるほど……」

 そうしている間に、先ほどチェックを行った機械は天井に収納されていた。代わりに、別の機械が天井から降りてくる。

「あれが、手術を行う機械だ。……いよいよだ。怖くはないか?」

「ええ、大丈夫です」

 ニルヴァーナのその決意を込めた一言に、ケイアスは頷く。

「よし、決意は大丈夫そうだ。……それでは、簡単に手術の前準備を行おう」

 そう言って、ケイアスは椅子の後ろに回り込み何か操作を行った。

 そのまま少し待っていると、ニルヴァーナの目の前に一つのマスクが頭上から降りてくる。ケイアスはそれを手に取ると、優しくニルヴァーナの口元に装着した。

「大丈夫かね、苦しくはないかい?」

 ニルヴァーナは頷いて、大丈夫と返事をする。ケイアスはにこやかに微笑むと、再び椅子の後ろに回り込んだ。そして、操作をしながらニルヴァーナに話しかける。

「すまないね、少し我慢してくれ。これからAIが手術を執り行い、麻酔を打ち込んでいく。次第に意識は薄れていくだろう」

 その言葉と同時に、今度は頭上から注射器が降りてきた。ニルヴァーナはそれに少しおびえるも、素直に注射を受ける。

 そのまま数分待っていると、段々と意識が薄れていく。視界はぼやけ、周りがはっきりと見えない。段々と思考もまともにできなくなっていく。

 そんな思考の中、ニルヴァーナは、無事ととにかく成功を祈った。


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