第19話『君を抱きしめて』

 待ち合わせ場所である大浴場の入口前に行くと、さすがに美来の姿はなかった。それどころか、誰一人としていない。フロントの方に歩いて行く人が2、3人いるくらいで。まだ、6時40分くらいだから、みんな自分が泊まっている部屋でゆっくりしているのかな。それとも、まだ寝ているか。

 自動販売機の横にある給水器で、水と冷たい緑茶の無料サービスを行なっていたので、紙コップを一つ取って冷たい緑茶を注いだ。


「……美味しい」


 温まった体に程良い冷たさが広がっていく。緑茶だから、空っぽの胃がキリキリするようなこともない。

 僕が露天風呂を後にしてから15分近く経つ。水代さんへの事情聴取が長引いているのか、美来が『女』の暖簾の奥から出てくる気配は感じられない。出てきたのはかなりのご高齢のおばあさん1人だけだった。


「……ふぅ」


 事情聴取が長いってことは、水代さんが嘘をついているのか。それとも、露天風呂で会ったことが美来にとって嫌だったのか。


「お客様、どうかされましたか?」


 女性に声を掛けられたので、顔を上げるとそこには茶髪のセミロングの女性が立っていた。スタッフの制服を着ているということは、このホテルのスタッフさんなのか。名札には『相良』と書いてある。それにしても、彼女……色っぽくて大人の雰囲気があるな。綺麗だし、将来の有紗さんを見ているような気がする。


「いえ、ただ……露天風呂が気持ち良くてずっと入っていたら、ちょっとのぼせ気味になってしまって。冷たいお茶を飲んだら、気分も良くなりました」


 縁結びの幽霊さんと一緒に露天風呂に入り、そのことを恋人に知られてしまったから、とは言えなかった。


「そうですか。それなら良かったです。露天風呂を楽しんでいただけたのは嬉しいですが、入りすぎには気を付けてくださいませ」

「はい、気を付けます」

「ただ、何となくですが……それだけではないように見えます」

「……そう見えますかね」


 さすがに、相良さんには僕の顔色を見るだけで、何かあったのだと分かるのかもしれない。


「……昨晩から色々とありまして。ちょっと気分を落ち着かせるために、ここで一息ついていたんです」

「そうだったのですか。……申し訳ございません、赤の他人が一歩踏み込むようなことを言ってしまって」

「いいえ、気にしないでください。あと、一緒に泊まりに来た彼女が今もお風呂に入っているんで、彼女が出てくるのを待っているんです」

「なるほど。……ちゃんと待ってあげていてくださいね。そして、彼女さんと向き合ってください。私も昔……色々とありましたので。そのことについてはもちろん解決しましたが。今のはお節介なアラフォー女からのアドバイス……となっていれば何よりです。聞き流していただいてもちろんかまわないです」

「いえいえ、アドバイスありがとうございました。気持ちの整理ができそうです」

「そうですか。では、私はこれで失礼いたします」


 相良さんはフロントの方へと戻っていった。まさか、遠くから僕のことを見かけたから、心配してここまで来てくれたのか。そこまで、僕は顔や態度に表れていたってことなのかな。


「もう一杯飲むか」


 紙コップに冷たいお茶を注いで、僕は一気に飲んだ。冷たいものを飲むと気持ちがいくらかスッキリするな。


「智也さん、お待たせしました」

「……美来」


 入り口の方を見ると、女湯の暖簾の前に浴衣姿の美来が立っていた。気付けば、僕はそんな彼女の前に立ってぎゅっと抱きしめていた。


「どうしたんですか。智也さん。恥ずかしいですよ、まだ人が全然いないからってこんなところで抱きしめられたら……」

「……良かった」


 美来がまた僕の目の前に姿を現してくれて。美来の温もりと甘さをまた感じられて良かった。


「どうしてなのかは分からないけど、美来が……僕から離れていってしまうんじゃないかと思って。でも、それって……美来がさっき、僕が水代さんと一緒に露天風呂に入っていたときにも思っていたことなんじゃないかって」

「……ふふっ」


 美来の快活な笑い声が聞こえる。彼女への抱擁を解くと、そこには彼女の優しげな笑みがあった。


「私が智也さんから離れるわけがないじゃないですか。10年間も想い続けて、8年近くも陰で見ていたんですよ? それに、智也さんは水代さんに対して、限りなく誠実な対応したと思っています」

「……彼女はちゃんと事実を話してくれたんだ」

「ええ。智也さんが興味を持ったのは、幽霊でも体が温まるのかってことだけで、そのことも水代さんが智也さんの胸元に触ることで確かめてもらったそうじゃないですか。水代さんのことを厭らしい眼で見ることもなかったと」

「その通りだよ」


 水代さんが嘘偽りなく話してくれ、それを知った美来も笑顔でいてくれている。それがとても嬉しかった。


「あと、智也さんは私のような巨乳しか興味がなさそうだとも言っていましたね。小さい胸に手を当てながら」

「……そんなことは彼女に言った覚えがないんだけど」


 そういえば、水代さん……自分に対する僕の態度があっさりしていることに不満そうだったな。その原因が胸の小ささにあると思ったのかな。だから、美来に対してそういうことを言ったのか。


「じゃあ、実際はどうなんですか? そういえば、智也さんに胸の好みについては訊いたことがなかったような気がします」


 いくら、他のお客さんやスタッフさんがいないからって、ホテルの大浴場前で訊くような内容じゃないだろう。


「ほらぁ、早く教えてくださいよ」


 いつになく意地悪そうな笑みを浮かべて美来はそう言ってくる。しょうがない、ここは正直に答えておこう。


「美来のような大きくて柔らかい胸かな。……美来の胸が一番好きだよ」


 美来の耳元でそう囁いた。

 何なんだろう、美来と付き合うことを告白したり、婚約指輪を渡したりしたときよりも緊張したんだけれど。もちろん、恥ずかしい。

 僕の答えを聞いて恥ずかしいのか、それとも吐息が耳に掛かってくすぐったいのか、はたまたのぼせているのか……美来は頬を赤くして、僕のことをチラチラと見てくる。


「す、素敵な好みかと思います。その好みがずっと変わらないでいてくれると、私はとても嬉しいです。私も……智也さんの好みであり続けるように頑張ります」


 僕に合わせてなのか、美来も小さな声でそう言うと……僕のことを見てはにかんだ。頑張るって言うところが美来らしくて可愛らしい。


「でも、智也さんを信じて正解でした。水代さんとは何もなかったですし、胸についても……嬉しいことを聞けましたし」

「これからも信じてもらえるように頑張るよ。美来のことも信じる」

「じゃあ、その約束のキスをしてください。大丈夫ですよ、きっと誰も来ませんから。ちゅってしてくれればいいです。水代さんと一緒に温泉に入っているのを知ってから、智也さんと口づけしたくて……」


 まったく、美来は……部屋でしても変わらないと思うけどな。まあ、それだけ僕とキスしたい気持ちが強いんだろう。


「じゃあ、端に行こう」

「……はい」


 少しでもキスを見られてしまう可能性が減るように、美来と一緒に端まで動く。そして、私に誰もいないことを確認して僕は美来にキスした。


「……これでいいかな」

「ありがとうございます」


 これ以上キスしたら美来に夢中になっちゃう気がするから。


「温泉、気持ち良かったねぇ」

「そうだねぇ」


 おっと、危ない危ない。

 女湯の方から浴衣姿のおばあさん2人組が出てきた。美来に変なことをしてしまいそうなタイミングだったので、ビックリしたけれど助かった。


「若いっていいわねぇ」

「あたしも旦那と来れば良かったかねぇ」


 そう言って笑いながらおばあさん2人組は去っていった。僕らは寄り添っている状態なので、おばあさん達には、僕達がイチャイチャしているように見えたのかもしれない。ちょっと恥ずかしいなぁ。美来はどうかな。


「あたし”も”旦那と来れば良かった、ですって! 私、智也さんと夫婦に思われていますよ!」


 きゃー、と美来はとても嬉しそうにしている。そういえば、美来ってこういう子だったよなぁ、と改めて思う。


「年配の方から夫婦だと思われるのは嬉しいですね。見る目がありますよね」

「微妙に上から目線だね。嬉しい気持ちは分かるけど」

「このまま本当に夫婦になれるように頑張りましょうね! あぁ、何だかとても素敵な旅行2日目になりそうな気がします」

「そうだね。旅行2日目を楽しめるように、部屋でちょっと休んでから、朝食をしっかり食べようか」

「はい!」


 僕のすぐ側で美来が楽しそうに笑っていてくれるだけで、僕は十分に楽しい旅行になっているけど。


「あっ、そうだ。フルーツ牛乳を買ってくれますか?」

「……忘れてた。そういえば何か買うってことになっていたね。僕もコーヒー牛乳をまだ飲んでなかった。じゃあ、買ったら部屋で飲もうか」

「そうですね。部屋で1本やりましょうか」

「……1本ね」


 僕はコーヒー牛乳とフルーツ牛乳を1本ずつ買って、美来と一緒に部屋へと戻るのであった。

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