第18話『朝スパ』
さすがに午前6時過ぎとあって、1階のフロントには宿泊客・スタッフ共に人がほとんどいない。この時間にチェックアウトする人もいないだろうし、朝食の時間になれば少しは賑わうのかな。
大浴場の入り口の前に着いても、静かな雰囲気は変わらず。その分のんびりできるから僕にとってはいいけど。あと、こういうところにはやっぱりコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を瓶で売っているんだな。
「じゃあ、智也さん。ここで一旦、お別れですね」
「お別れって。混浴はないからしょうがないね。じゃあ、お風呂から上がったらここで待ち合わせることにしようか。お金は持ってきているから、そこの自動販売機で何か買って飲むことにしよう」
「それいいですね! 分かりました。では、また後で」
「うん。僕のことは気にせずにゆっくり入ってきていいからね」
「それは私のセリフですよ。ゆっくり入ってきてくださいね」
「ははっ、お言葉に甘えることにするよ」
僕は美来と別れて『男』と書かれた黒い暖簾をくぐり、男性用の脱衣所へと入っていく。
入り口にいたときも、中から声とか物音が全然聞こえないな……とは思っていたけれど、脱衣所の中には人はほとんどいなかった。年配の方が2、3人くらい。そういえば、前に温泉旅行へ行ったときも朝風呂に入ったけど、そのときも全然いなかったな。朝風呂に入る人ってあまりいないのかな。
服を脱いで、タオル1枚でいざ大浴場の中に入ると、中にも年配の方が3、4人くらいしかいない。そのことに寂しい気持ちもあるけど、人が多いよりは落ち着いて入れそうなのでいい。
僕は髪と体を洗って、屋内の大きな湯船に浸かる。
「あぁ……気持ちいい」
家のお風呂よりも熱いな。このお湯は温泉なのかな。
温泉なら、効能などが書いてあるパネルが壁に掛かっていると思うので探してみると……あった。あまり字が大きくないので、近くまで行ってみる。
「なになに……疲労回復、筋肉痛、関節痛、腰痛、冷え性、あとは子宝……か」
男湯に子宝は必要ない気もするけど……あぁ、もしかして種的な意味かな。
あと、もしかしたら時間帯で男湯と女湯が入れ替わるからかもしれない。男湯か、女湯かってはっきりと書いてあるのは入り口の暖簾くらいだし。
「まあ、今日も運転するし、プールで遊ぶ予定だから温泉で体を癒やしておくか」
昨日の夜は……たくさん腰を動かしたからなぁ。美来の方も温泉で少しでも疲れが取れているといいけど。
そんなことを思いながら湯船に浸かっていると、湯船のすぐ隣にある扉からご老人が入ってきた。あそこから露天風呂に行けるのかな。
「行ってみるか」
まだ朝だから、ここよりも外の方が涼しいかもしれない。
湯船から出て、すぐ近くの扉を開けると、そこには誰もいない露天風呂があった。露天風呂の側にさっきと同じ効能が書いてある看板が。ここも温泉なのか。
「あぁ、露天風呂も気持ちいいなぁ」
「そうだねぇ」
「結構気持ちいいですよね……って、うわあっ!」
さっき来たときは誰もいなかったのに、いつの間にか頭にタオルを乗せた水代さんが露天風呂に浸かっていたのだ。もちろん、今は浴衣姿ではなくて裸。彼女は肩まで浸かっており、湯気も立っているので彼女の裸ははっきりと見えていない。
しかし、段々と僕に近づいてくるので、少しずつ見えてきている状況だ。
「水代さん、こんなところで何をやっているんですか?」
「見て分からない? 露天風呂に入っているんだよ」
「いや、それは見て分かりますけど……幽霊なのにお風呂って入れるんですか?」
「入れるよ。ちゃんと温泉の温かさも感じているし」
「そう……ですか」
考えてみれば、冷たかったけれど水代さんの手に触れることもできたし……実体があるのかな。宿泊客の部屋に勝手にお邪魔したり、客と話したり、温泉に入ったり……幽霊とはいえ、このホテルで色々と楽しんでいるようだ。
「って、ここに入っていて大丈夫なんですか? 誰か入ってきたら……」
「大丈夫よ、私の姿や声は智也君にしか分からないようにしているから。それに、この時間帯に来る人はお年寄りばかりで、そんな人には全く興味ないし」
随分と都合良く姿を現せるんだな。あと、自称・永遠の16歳の水代さんはお年寄りの男性には興味なしか。
「もし、私と喋っているときに、他の人が入ってきても、その人には智也君が独り言を言っているようにしか見えないからね」
「……なるほど」
旅先とはいえ、変な人だと思われるのは嫌だから、誰かが来たら水代さんと話すのは控えることにするか。
それよりも、このことを美来が知ったらどう思うか。後で凄く怒られそうだな。だからといって、隠しておいたらそれこそ一番怒ると思うし、美来も嫌な気持ちになると思うから、お風呂から出たらこのことは正直に言おう。
「それにしても気持ちいいわね」
「……そうですね。思ったんですけど、幽霊なのに温泉に浸かったら体って温まるんですか?」
「温泉に入るとお湯は温かく感じるけど、体は冷たいままだよ。……あっ、もしかして、昨日、美来ちゃんはハグをしたのに、自分はしなかったから後悔してるの?」
「いえいえ、別にそんなことありません。純粋に興味があって」
「……そこまであっさり言われると、からかう気がなくなってくるね。てっきり、ドキドキするかと思ったのに」
今の水代さんを見てドキドキしないと言ったら嘘になるけど、幽霊なんだと言い聞かせることで平静を保つようにしている。
「ほらっ」
「うわっ」
彼女の手が僕の胸元に触れたけど、とても冷たいな。
「結構冷たいですね」
「幽霊だからかな。生きていればもちろん温まるんだろうけど。智也君の胸、とても温かいし」
「さっきまで中にある湯船に入っていましたからね」
さすがに、幽霊の体まで温める効能まではないのか。入っている本人は温泉の温かさを感じられるみたいだけど。
「それにしても、あなたには恋人がいるのに、僕と一緒に温泉に入っていていいんですか? せめて女湯に入った方が……」
「最近、年下のかっこいい男の子を見ると愛でたくなっちゃうの。家に来た可愛い野良猫を可愛がるみたいな」
「僕は猫と一緒ですか」
「こんなに可愛いと思ったのは智也君が初めてだよ」
「……そういうことは、恋人さんに言ってあげてください」
永遠の16歳と自分で言っておきながら、23歳の男のことを年下の男の子って言うなんて。やっぱり、心はアラフォーなんだな、水代さんは。まあ、異性として意識されてしまうよりも、動物のように可愛がられる方がマシか。
「あれ? もしかして、そちらに智也さんがいるんですか?」
「み、美来かい?」
竹でできた柵の向こう側に、美来が入浴しているのかな。
「はい。今、露天風呂に入りに来たのですがとても気持ちいいですね」
「そっか。それは良かった」
「こっちは智也君と一緒に温泉を楽しんでるよ!」
「えっ! 今の声、もしかして水代さんなんですか? しかも、智也さんと一緒に温泉を楽しんでいるなんて……!」
あぁ……美来にバレてしまった。いずれは話そうと思っていたけれど、水代さんが楽しげに話したから美来のショックが大きそうだ。
「羨ましいです! 混浴があれば良かったのになぁ……」
大きな声で美来はそう言った。声色からして、怒ってはいなさそうだ。他に誰もいないと言ったら、今すぐにでも仕切りを登って、こっちに入ってきそうな気がする。
「ちょっと待ってください。一緒に入っているということは……水代さんは今、裸の状態ということですか?」
「そうだね。頭の上にタオルを乗せているだけだよ」
「……今すぐに温泉から出るか、大事な部分を守ってください!」
「智也君とそんなことをする気ないから安心してよ。それに、美来ちゃんが温泉に入っているんだったら……」
ニヤリ、と水代さんは不敵な笑みを浮かべると、僕の目の前から姿を消した。
そして、次の瞬間、
「ひゃあっ! 冷たい!」
「改めて見るけど、さすがのプロポーションだね。憧れちゃうなぁ」
「あううっ……」
なるほど、水代さんは女湯の方に行ったのか。本来の居場所に戻ってくれたので安心している。美来にとっては気の毒だと思うけれど。
「あっ、でもこうやって抱きしめていると意外と気持ちいいかもしれないです」
「そ、そう?」
「温かい温泉に浸かっているので不思議な感じがしますけど、これはこれで悪くないです」
「なるほどねぇ。こんなことをされたのは初めてだよ」
美来、意外と順応性が高いな。嫌がっているようではないのでひとまず安心。
「智也さーん」
「うん?」
「あとで色々とお話を聞かせてくださいね。今から水代さんにはたっぷりと事情聴取をしますので」
「……ああ、分かった」
事情聴取ねぇ。
幽霊であっても女性であることには変わりない。僕と水代さんが2人きりで露天風呂に入っていたと知ったら、美来は色々と複雑な気持ちを抱いてしまうよな。
美来の事情聴取に水代さんがきちんと事実を話してくれるかどうか。
「ねえ、美来。僕、ここにいた方がいいよね」
「いなくて大丈夫ですよ。それに、今は水代さんと2人きりでお話をしたいので」
「……そうか」
それなら、僕はもうここを離れた方がいいかな。何だかんだ、結構温泉に浸かっていたので体が温まっている。
「じゃあ、美来。僕、先に出てるから。ゆっくりしていていいよ」
「はーい」
実際には何もなかったけど、もし、この10年間、僕が女性と親しくしていたら、美来はその女性に対してこういうことをしていたのかも。そう考えると、美来はよく有紗さんと平穏に付き合えたなと思う。有紗さんには何か信頼できるところがあったのかな。
さてと、温泉から上がって、浴衣に着替えながらこれまでのことを頭の中で整理しておこう。疚しいことは全然していないけど、美来に誤解されることなくきちんと事実を伝えられるように。
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