第125話『指輪』
立場は変わっても、担当する業務が同じなのですぐに仕事には慣れた。
ただ、協力社員が前にいた会社のメンバーなのもあって、一日に一度は有紗さんや景子さんに連絡する。なので、これまでとさほど変わらない感じで仕事をしていく日々である。
美来の方は天羽女子の期末考査は全ての教科において高得点を叩き出し、学年で上位10番以内に入るという快挙を成し遂げた。受験のときに併願校として合格したとはいえ、転校して早々にこんな好成績を叩き出すとは。さすがは美来。また、声楽部の方も声楽のコンクールに向けて順調に練習をしているとのこと。
僕も美来も新しい場所での生活を順調に送り始めることができた。
8月13日、土曜日。
来週はお盆休みという名目で有給休暇を取ったので、今日から21日まで9日間休みとなる。
今年は夏のオリンピックが開催されているので家でオリンピックを見るか、もしくは漫画やアニメなどの大型イベントに参加するかだけど……今年は違った。
「……ふぅ、これで一通りの荷物は運び終わりましたね」
「引越しの作業もこれで終わりかな、美来」
そう、今年の夏は美来と一緒に引越し作業をしていた。なぜなら、美来と同棲することになったからだ。
美来と結婚を前提にして付き合い始めてから2ヶ月が過ぎた。僕と美来の様子を見守ってくれていた雅治さんから、美来との同棲を打診されたのだ。
僕の勤めるSKTT本社と、美来の通う天羽女子高校の中間くらいに位置するマンションへ引っ越すことになった。快速電車も停車する最寄り駅から徒歩7分。いい場所だ。
今まで僕が住んでいたアパートよりもずっと広く、間取りは1LDK。家賃は会社の住宅手当によって、いくらかは賄える。美来も住んでいるので、もし、何かあったときには雅治さんが払ってくださるとのこと。本当に有り難い。
美来の方は7月下旬から夏休みに入っており、少しずつ荷物を運んでいたので既に終わっている。今日になって僕の夏休みが始まったので、一気に僕の荷物を運んだ。
「お疲れ様でした、智也さん」
「美来もお疲れ様。ごめんね、僕の荷物運びを手伝わせちゃって」
「いえいえ、いいんですよ。コーヒーを淹れますね。ホットとアイスどちらにします?」
「アイスの方でお願いするよ。体を動かして汗を掻いちゃったから」
「分かりました。では、淹れてきますね」
美来はキッチンでコーヒーを淹れてきてくれる。ちなみに、今の彼女の服装は……夏仕様のメイド服だ。引越し業者の人が立ち去った後にさっそく着替えていた。それまで着ていたノースリーブの縦セーター姿も可愛かったんだけれど。
「引っ越してもメイド服なんだね」
「智也さんと2人きりのときはなるべくメイド服を着たいです。お母さんに頼んで、夏仕様のメイド服を作ってもらったんですよ」
「果歩さん特製か」
袖も短く、スカートの丈も短い。なので、荷物整理もしやすそうだった。本人がメイド服が好きだからそれでいいけど、もっと家の中で色々と可愛い服を着た美来を見せてくれてもいいのにな……とも思っている。
「智也さん、コーヒーをお持ちしました」
「ありがとう。……あれ、今回は美来もコーヒーなんだね。いつもは紅茶なのに」
「今日から智也さんとの新しい生活が始まるんです。メイド服も新調しましたし、コーヒーも飲んで新しい自分になりたくて」
「そ、そうなんだ」
メイド服を夏仕様にしたのは、新しい自分になるための一環だったのか。
美来のコーヒーは、僕のコーヒーとは違ってミルクがかなり入っているように見えた。おそらく、砂糖もたくさん入っているんだろうな。
僕は美来が淹れてくれたアイスコーヒーを飲む。いい苦味だ。美味しい。
「美味しいよ、美来」
「……ありがとうございます。こっちは砂糖もミルクも入れたのにまだ苦い……」
「濃く作っちゃったのかな。僕、それも飲むから、美来は紅茶でも作ってきな」
「……いえ、有紗さんのように大人の女性になりたいんです。これはそれに必要な一つの過程なんです……!」
新しい自分というのは大人な女性ということなのかな。確かに、有紗さんは普通にコーヒーが飲めるので、そんな彼女の姿を見て美来もコーヒーを飲めるようになろうと決心したんだろう。
「……でも、まずは智也さんが飲ませてくれると飲めるかもしれません」
「そ、そうか」
僕が美来のマグカップを持つと、美来は目を瞑っていた。
「どうして目を瞑るのかな。それじゃ飲めないでしょ」
「智也さん、鈍いです。コップからではなくて、智也さんの口から飲ませてください。そうじゃないと飲めないかもです」
「……そういうことか」
まさか、コーヒーが苦くて飲めないって言うのも、僕に口移しをしてほしいための嘘だったりして。まあいい、可愛い婚約者のお願いを叶えるとしよう。
「分かった。やってみよう」
僕は美来のコーヒーを口に含む。かなり甘いぞ、これ。まあ、僕もコーヒーを飲み始めたときはこのくらい甘かったっけ。
僕は美来とキスしてコーヒーを美来に口移ししていく。
「んっ……」
美来の声も厭らしいけど、普段なら気にならないコーヒーが喉を通るときの音も何だか厭らしく思えた。唇を離したときに美来の唇から伸びたコーヒー色の唾液の糸も。
「……コーヒー、今までの中で一番美味しかったです」
「そっか、良かったね」
僕にとっては今までのコーヒーの中で一番甘かったけど。
「……あっ」
そうだ、引越し作業ばかりしていたから、忘れるところだった。
「美来。渡したいものがあるんだけど」
「何ですか?」
「ちょっと待っててね」
僕はバッグの中から小さな紙の手提げ袋を取り出す。その袋の中から小さな赤い箱を2つ取り出す。
「えっ、も、もしかして……」
どうやら、箱を取り出したところで、渡したいものが何なのか気付いたみたいだ。
僕は2つの箱のうちの1つを美来に見せるようにして開ける。
「こ、これって……」
「婚約指輪だよ。まだ結婚していないけど、僕と美来の関係を形にしたくて。結婚指輪は正式に結婚するときに買う予定だから」
「そうですか……」
美来、目を潤ませているぞ。
「もしかして、結婚指輪じゃないのがショックだった?」
「そんなわけないですよ! ショックだなんてとんでもないです。むしろ、嬉しくて。嬉しすぎて……本当にありがとうございます。指輪のこと、全然知らなかったから……」
「一緒に住む話が出たときに、婚約指輪を買おうと決めたんだ」
将来的に結婚指輪も買うし、お金の事情でシンプルな指輪になっちゃったけど。
「婚約指輪は右手の薬指にはめるものらしいよ。だから、美来が寝ている間に右手の薬指のサイズを測ったんだ」
「そうだったんですか……」
「じゃあ、僕がはめさせてもらっていいかな?」
「……はい」
僕は婚約指輪を美来の右手の薬指にはめる。ピッタリだ。はめたときの美来の表情は今までの中で一番嬉しそうな笑顔に思えた。
「本当に、本当に……ありがとうございます! 大切にしますね!」
「うん」
「……智也さんの指には私がはめますね」
「うん、お願いします」
美来は箱から婚約指輪を取り出して、僕の右手の薬指にゆっくりとはめてくれる。僕の方もサイズはピッタリだ。
「ふふっ、お揃いですね。とっても嬉しいです」
指輪をはめたお互いの薬指が見えるようにして、美来は右手を重ねる。本当に嬉しそうで僕も自然と嬉しい気持ちが大きくなっていく。
「……あっ」
しかし、美来は何かを思い出したように、はっとした表情になる。
「でも、校則でアクセサリーを身につけるのは禁止でした。学校に指輪をはめていくことができません……」
美来、物凄くがっかりしているな。
私立だと、アクセサリーを付けちゃいけない決まりになっている高校もあるのか。僕が卒業した高校は公立校で、指輪やネックレスをする生徒もいたから、校則のことは全然気にしていなかった。
「はめたい気持ちは分かるけど、校則はきちん守ろう。ただ、こういったプライベートのときには常にはめていればいいんじゃないかな」
「……はい、そうします」
会社にはそういった規則はないので、僕の方は常に婚約指輪をはめておくことにしよう。勝沼さんとかにからかわれそうだけど。
「いつでもはめられないのは残念ですが、指輪をいただけたことは本当に嬉しいです。智也さん……愛しています」
「僕も美来のことを愛しているよ。好きだよ」
「私も智也さんのことが大好きです」
僕と美来は互いのことを見つめ合って、笑い合って、そして、キスする。いつかは結婚指輪もはめられるようにと想いながら。
こうして、僕と美来は今日から、これまで以上に増して一緒にいる生活が始まるのであった。
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