第124話『ハロー、どうも、今日からここ。』
7月4日、月曜日。
今日から株式会社SKTTの社員として働き始める。僕の配属される部署はビジネス技術開発部というところだ。
今は梅雨の時期だけれど、今日はよく晴れている。幸先のいいスタートとなりそうだ。
午前9時。株式会社SKTTの本社ビルの入り口で勝沼さんと待ち合わせをし、入館証を受け取る。そして、彼と一緒に僕のデスクへと向かう。
「みなさん、お待たせしました。彼が、今日から私達と一緒に働くことになった氷室智也さんです」
ビジネス技術開発部のあるフロアに着いたところで、勝沼さんがそう言った。すると、ビジネス技術開発部のメンバーと思われる方々がその場で立ち上がる。
「さあ、氷室さん。自己紹介をしてください」
「はい」
僕は一歩前に出て、
「初めまして。今日からここでお世話になる氷室智也と申します。これまでの僕のことは新聞やテレビなどを通して、みなさんもご存知かと思います。色々とありましたが、今日から心機一転、ビジネス技術開発部の一員として頑張っていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします」
事件のことははっきりと言わなかったものの、そんな自己紹介をする。
すると、みなさんから拍手を受ける。こういう場でもあるから、特に嫌がっている表情を見せる人は……いないな。
「氷室さん。デスクの方に案内します。私の隣になります」
「はい」
勝沼さんの隣なら、分からないことも訊きやすいから安心だな。もしかして、僕が来なかったら空席だったのかな。
僕は勝沼さんの案内で新しいデスクへと向かう。デスクトップ型のパソコンとキーボード、マウスのみが置かれている。
「今日はパソコンのセットアップなど、環境整備の方をしていきましょう。といっても、作業で用いる仮想マシンのアカウントはこれまでのものを使っていただくので、すぐに設定は終わると思います」
「分かりました。これまでと同じものを使うということは、僕がこれから携わる業務は……やはり?」
「ははっ、気づきましたか。これまでと同じ案件です。ただ、今日からはSKTTの立場からとなりますが」
「やはりそうですか。いえ、事前に勉強しておくことがなかったり、デスクが勝沼さんの隣だったり……それって関わる業務内容がこれまでと変わりないのかなって」
「さすがは氷室さん。鋭いですね」
これまでと同じ業務なら、必要な知識は身についているから即戦力になる。僕がいることで有紗さんのいるグループと連絡が取りやすくなるし、何かあったときには、これまでよりも柔軟に対応できるようになると思ったのだろう。
「ということで、セットアップの前にあそこに行って挨拶をしましょう。既に月村さんなどから話を聞いているかもしれませんが、実は先週の金曜日に氷室さんの代わりに入った方がいるんですよ。若い女性の方です」
「秋山景子さんですよね。僕の後輩……じゃないですね、今は」
「ははっ、しばらくの間は間違えてしまいますよね。ただ、秋山さんや月村さんに対してSKTT側から何かお願いするときには、氷室さんに言ってもらおうかなと」
「そのときは任せてください」
「期待していますよ。それでは、行きましょうか」
「はい」
僕は勝沼さんと一緒に、有紗さん達が作業しているオフィスへと向かう。
さすがに、例の事件があって顔が知られたせいか、僕のことをチラチラと見てくる人は多いな。このオフィスに来るのは1ヶ月ぶりで懐かしかった。
勝沼さんについて行く形で、いよいよ有紗さん達と再会するときが来る。しかし、まだ気付いていない。
「技術支援グループのみなさん、おはようございます。今日から新たにこの業務に関わることになった弊社の社員を紹介します。といっても、この方の場合は自己紹介をする必要はないですけど……氷室さん、お願いします」
勝沼さんが僕の名前を口にしたことでようやく、僕がここにいることを有紗さん達が気付く。
「初めまして……ではなく、おひさしぶりです。1ヶ月ぶりくらいでしょうか。今月からSKTTの社員になりました。そして、今日から再び、この業務にSKTT側から携わらせていただくことになった氷室智也と申します。これまでと変わらずよろしくお願いします」
僕がそう自己紹介をすると、ビジネス技術開発部のときよりも大きな拍手が聞こえる。戻ってきたか、と何人かの男性社員から肩を叩かれる。そして、
「智也君!」
涙を流した有紗さんが僕に勢いよく抱きしめてくる。ここはオフィスなので抱きしめずに彼女の頭をゆっくりと撫でる。
「有紗さん、恥ずかしいですよ。こんなところで」
「だって、嬉しいんだもん……」
「……そうですか」
しょうがない。ちょっとの間は僕の胸の中で泣かせておくか。
かつて座っていた僕のデスクを見ると、そこには見覚えのある黒いスーツ姿の女性の姿が。彼女が新人さんの秋山景子さん。僕の記憶通り、茶髪のセミロングで可愛らしい女の子だ。
「君が秋山さんだね」
「はい。秋山景子と申します。今月の1日からここに配属となりました。よろしくお願いします」
秋山さんは席から立ち上がり、僕に対してちゃんと頭を下げる。
「そっか。初めてだから色々と分からなくて、緊張するときもあると思うけれど、周りのみんなにどんどん訊いていってね。僕の代わりってことは、たぶん、有紗さんと同じ業務をやっていくのかな」
「そうです。金曜日に有紗さんから簡単な業務内容を教えてもらいました。まずは業務のために色々なことを勉強することからですが」
「そっか。じゃあ、主に有紗さんに訊けば大丈夫だと思うよ。僕も一通り業務内容は分かっているから、僕に訊いてくれてもかまわないからね」
「ありがとうございます、氷室さん」
おそらく、女性同士ということもあるし、有紗さんに訊くことが多くなるんじゃないだろうか。業務内容という点では僕も大半を有紗さんから教えてもらったし。
秋山さんから大いに頼られると思われる有紗さんは、今もなお僕を抱きしめたままだ。
「……そろそろ離れてくれませんか、有紗さん」
「あっ、ご、ごめんね!」
どうやら、今の状況を理解したらしく、有紗さんは慌てて僕から離れる。そのときの彼女の顔はとても赤くなっていた。
「秋山さんの連絡先はまだ知らなかったよね」
「そうですね。あと、私のことは下の名前で呼んでいただいていいですよ」
「そっか。じゃあ、景子さん。連絡先を交換しておこう」
「はい!」
僕は景子さんと、スマートフォンの番号とメールアドレスを交換する。SNSもやっているとのことなのでそっちの方も。
「有紗さんだけじゃなくて、智也先輩もいると思うと安心します」
景子さんは嬉しそうに微笑んでいる。
「有紗さんがお休みのときもあるだろうからね。そういうときは遠慮なく僕の方に訊いてきてくれていいから」
「はいっ!」
景子さんは僕に握手をしてくる。僕のことを「智也先輩」と呼んでくるけれど、笑顔の可愛らしい年下の女の子なのもあってか、美来と重なるところがあるな。そんな彼女となら、有紗さんも上手くやっていけるんじゃないだろうか。
「……さすがは智也君ね。景子ちゃんとすぐに仲良くなって……」
有紗さん、不機嫌そうに頬を膨らませている。景子さんが僕と握手をする姿を見て嫉妬しているんだろうな。
「やはり、私の人選は間違っていなかったようですね。ということで、今日からは氷室さんも一緒に仕事をしていきますので、よろしくお願いします」
『よろしくお願いします』
これまでと立場は変わったけど、これまでと変わらない業務を行なっていく。それがとても嬉しかった。美来を選び、会社を退職してしまったことで、有紗さんとの関係が疎遠になってしまった気がしたから。
僕の社会人生活はこうして再び始まるのであった。
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