第8話『とりこえ』

 正午過ぎとなり、僕と美来は初めてのデートへと出かける。

 まずはお昼ご飯。美来が僕と一緒に行きたかったところがあるとのことで、その店に行ってみる。そこは意外にもお蕎麦屋さん。

 僕は美来おすすめの鴨南蛮蕎麦を食べた。とても美味しかった。また来ようかな。


「美来がああいった感じのお店が好きなのは意外だったよ」

「そうですか? 私、結構麺が好きなんですよ。ラーメンも大好きです」

「そっか。僕もラーメンは大好きなんだ。今度、デートをするときは一緒にラーメンを食べに行こうか。ラーメンが好きなら、美来と一緒に行きたいお店があるんだけれど」

「はい、そのときはぜひ!」


 美来が麺類好きとは気が合うな。醤油ラーメンが好きなら特に嬉しい。

 午後1時半。

 僕と美来はカラオケボックスに到着する。

 土曜日の昼過ぎなので混んでいるかなと思ったんだけれど、さほど人はおらず、すんなりと受付を済ませ部屋に行くことができた。


「久しぶりだけど、昔とあまり変わりないんだな」


 高校生や大学生のときは、友人と一緒に学期末テストが終わった日や長期休暇によくカラオケに行っていた。社会人になってからは今回が初めてかも。


「思ったより広いね。2人だからかな」

「そうですね。いつもは友達数人で来るので広く感じますね」

「だよなぁ」


 僕も数人で来ていたから、今、美来と2人きりだと結構広く感じる。

 ただ、そんな部屋なのにも関わらず、僕と美来は隣同士で座る。しかも、美来の方からぴったりとくっついて。


「やっぱり、智也さんと2人きりの空間はいいですね」

「……もしかして、それもあってカラオケに行きたかったとか?」

「ええ。今は智也さんと2人でいられる時間をたっぷりと過ごしたいですから」


 優しげな笑みを浮かべて、美来はそう言った。

 学生時代のように夜8時まで利用できるフリータイムにしたんだけれど、果たして2人だけで完走できるのかどうか。


「夜8時までたっぷりとここで2人きりの時間を過ごしましょうね」

「……そうだね」


 どうやら、美来は完走する気満々である。

 家と同じで美来と2人きりなのは変わらないのに、照明が薄暗いからか緊張する。こういうところで女の子と2人きりになることが初めてだからなのか。


「このまま何も歌わなくてもいいかもしれません。こうしているだけで、ここに来て良かったと思えてしまって……」

「それでもいいけれど、せっかくここに来たんだから何か歌おうよ。僕、美来の歌声が聴くのを楽しみにしているんだ」

「分かりました! では、さっそく歌いましょう! 何かご希望の曲はありますか?」

「美来の好きな曲がいいな。僕に聴いて欲しい曲とか」

「了解です。では、家にあったBlu-rayの作品の主題歌を……」


 おお、僕の知っている曲を歌ってくれるみたいだ。

 モニターに出た曲名は僕の知っている曲であり、僕の好きな曲だった。イントロが流れ始め、美来の歌唱に期待感が高まる。

 僕の期待通り、美来の歌唱は素晴らしかった。女性の曲だけれど、原曲よりも上手く感じる。曲の世界観に入り込めるというか。さすがは声楽部に入っているだけあって、声の大きさ、音程、抑揚、ビブラート……全てが完璧に聞こえる。


「上手いな……」


 美来の歌声に聞き惚れていたからか、あっという間に曲が終わってしまった。


「歌うと気持ちいいですね。どうでしたか?」

「とても上手かったよ。聞き惚れるっていうのはこういうことを言うのかな。この一曲で虜になったよ」

「ふふっ、虜になっちゃいましたか」

「うん。もう、ずっと美来の声を聴いていたい」


 僕、あまり歌には自信がないし、このまま美来に歌ってもらった方がいいんじゃないだろうか。あと数時間あるけれど、美来の声なら飽きずに聴ける自信がある。


「……嬉しいです」


 そう言う美来の眼からは涙。僕に褒められたことがそんなに嬉しかったのかな。

 美来は僕の手をぎゅっと掴んだ。


「素敵なプロポーズをありがとうございます。まさか、こんなにも早く私のプロポーズを受け入れてくださるなんて……」


 そう言うと、美来は強く抱きついてきた。その瞬間に美来の甘い匂いに包まれる。

 えっと……どうなっているんだ? どうして、僕が美来にプロポーズをしたことになっているのかな。僕はただ美来の歌声を褒めただけなのに。


「もう、嬉しい気持ちが今にも溢れ出して、智也さんと口づけ……その先のことまでしてしまいたい気分です。でも、こんなところでしてしまっていいのでしょうか。ただ、そういう背徳感の中でするというのが興奮――」

「美来さん、ちょっとついていけないのですが」

「ご、ごめんなさい! 私、あまりの嬉しさに気持ちが先走りしてしまいました! 気持ちの歩幅も合わせていかないと、夫婦として上手くいきませんよね」

「いや、その……」


 ようやく、美来がどうして僕からプロポーズされたと勘違いしたのかが分かった。だからこそ、申し訳ないでいっぱいだ。


「あのね、美来の声に虜になって、ずっと聴いていたいっていうのは、そう思うくらいに美来の歌が上手だよってことなんだ」

「えっ、そ、そうだったんですか……」

「うん。でも、さっきの僕の言葉を聞いたら、遠回しにプロポーズしたって思っちゃうよね。だから、勘違いさせちゃってごめんね。ただ、美来の歌声が本当に好きになったよ」


 美来を傷つけちゃったかな。言葉を選ぶべきだったと反省する。

 しかし、美来は、


「いいえ、気にしないでください。私が勘違いしてしまっただけですから。今のが本当にプロポーズだったら嬉しかったですけどね。もちろん、いつか本当のプロポーズを智也さんからされるように頑張りますね。あと、私の歌声を好きになってくれてとても嬉しいです。……音楽を好きでいて良かった」


 悲しい顔をするかと思いきや、むしろ嬉しそうな笑顔を僕に見せてくれる。その笑顔をこんなにも近くで、僕だけに見せてくれていることがとても嬉しく思える。


「歌声だけじゃなくて、私自身も好きになってくれると嬉しいです」

「……昨日よりも好きになってるよ、美来のこと」

「もう、こんなに近くでそんな風に言われると、もうキュンキュンして思わずにやついてしまいます……」


 僕はただ、思っていることを素直に伝えただけなんだけれど。昨日よりも今の方が美来のことが魅力的な女の子に思える。


「せっかく、この体勢でいるので……もうちょっとこのままでいてもいいですか? あと、智也さんさえ良ければ、私のことを抱きしめてほしいです」

「ああ、分かった」


 美来のことをそっと抱きしめる。女の子ってこんなにも温かくて、柔らかいのか。昨日の夜と同じようにとても心が落ち着く。

 すると、美来は再度、僕の背中に両手を回した。僕のことを抱きしめてどんなことを思っているんだろう。


「智也さんのおかげで、私がずっと歌っていても8時までいけそうな気がします」

「ははっ、是非、そうしてほしいくらいだよ」

「でも、私だって智也さんの歌声を聴きたいです」

「僕、そんなに歌に自信はないよ」


 下手だとは言われたことはないので、歌いたくないわけではない。ただ、美来にここまで上手い歌唱をされると、彼女の歌声をずっと聴いていたいのが本音だ。


「そんなこと言わずに智也さんも歌ってください。じゃあ、まずは私と一緒に歌いましょうか」

「その方がいいな。久しぶりだし、まずは美来と一緒に楽しく歌いたいよ」

「それがいいですね。では……この曲なんてどうでしょう?」

「ああ、その曲なら分かるよ」

「私、この曲が好きなんです。明るい曲で。じゃあ、一緒に歌いましょう!」


 それから、僕は美来と一緒に歌って、学生の時の勘を取り戻してきた。やっぱり、歌うのって楽しいな。だから、何度も友達もカラオケに来たんだっけ。

 僕が1人で歌ったり、美来が1人で歌ったり。互いの好きな曲を歌って。知っている曲の時は一緒に歌ったりして。2人でもとっても楽しい。

 声楽コンクールで課されている曲がカラオケにあったので、美来の練習している曲を歌ってもらった。声楽だけあってそれまでとは違う声で歌う。響きとか迫力とか。是非、コンクール会場のホールで彼女の歌声を聴いてみたいと思った。

 途中でドリンクを飲んで休憩を挟みつつも、あっという間に時間は過ぎていき、僕と美来は夜8時近くまで歌い通すのであった。

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