「まだ貸しておく」

 朝、直之はアラームが鳴るより先に起床した。

 いつも通り、音を立てずに支度をして、いつも通りに、メモを残して、家を出た。

 いつもと違ったのは、メモ書きに家の鍵を添えておいたこと。

 先輩は来ないかもしれないと、直之は思った。

 今日帰ったら、もしかしたら先輩の姿はないかもしれないとも思った。

 あるいは、これから先、もう二度と会えないのではと、そう思った。


 そんな直之の不安をよそに、きっかり二時に店のドアが開かれた。

 ジーンズにダウンジャケット姿の先輩が入ってくる。

 直之は努めて平静に、他のお客と同じように席まで案内すると、メニューを渡した。

 二人の表情がぎこちなかったのは、店員とお客という状況のせいだけでく、昨日の出来事が尾を引いているのは間違いなかった。

 注文はランチセットで、それとなく飲み物を任せてもらえるように誘導して、その場を後にする。

 直之はカウンターに戻ると、注文票を差し出しながら、マスターに伝える。


「コーヒーはあまり飲まないそうですが、せっかくなので、何かオススメを出してあげたいのですが」


 マスターはチラリと直之の顔を見て、


「コーヒーが苦手なら、カフェオレや紅茶でもいいだろうに」

「興味があるようなので、ぜひ」


 と直之が食い下がると、マスターはもう一度、直之を見て、それからテーブル席の先輩を見て、最後に小さく手招きをした。

 直之が首を傾げつつ、ぐるりと回ってカウンターの中に入る。

 マスターが背後の豆の棚を吟味するふりをして、背を向けるので、直之もそれにならった。


「淹れさせてやろうか」


 顔を近づけて、マスターが囁いた。

 カウンターのドリップ台を横目で見て、またテーブル席の先輩を見た。おまけに小指をぴんとつき立てて、ニヤリと笑った。

 直之の視線がドリップ台に吸い寄せられた。

 使い込まれた木目のスタンドに、鈍く光る銀色のケトル、透き通るようなガラスのコーヒーサーバー。

 憧れない、はずはなかった。

 この日、この時、この場所に立つ。

 それは直之が繰り返し夢想した、夢の中の出来事だ。

 瞳に焼き付いて、離れない光景があった。

 それを焼き直したくて、上書きしたくて、この店の戸を叩いた。

 何の意味も無いと知りながら、絶対に訪れない機会と分かりながら、それでも直之は、その日を夢見ずにはいられなかった。

 まさに今、それが目の前にある。

 偶像を担う機会がある。

 震える指先を握りしめて、直之は、首を横に振った。


「良いとこ見せてやれよ」


 ひじでせっついてくるマスターに、


「一番美味しいコーヒーを飲んでもらいたいんです。だから、やっぱりマスターじゃないと」


 直之は自分の言葉に頷いた。

 それこそが、正しい選択だと信じた。

 マスターはまじまじと直之の顔を見つめてから、その肩を叩いて、ほんのりと笑った。

 豆の瓶を片手にドリップ台へと向かう。

 直之がカウンターを出ると、奥さんが隣りにやってきた。


「バカねぇ、ホントに」

「それがマスターの良いところですよ」

「あら、今のはアナタのことよ」


 奥さんの視線が奥のテーブルに注がれる。


「大事に大事にして、でも一線は引いて。損ばっかりね」


 茶目っ気たっぷりに言うおかみさんに、直之は苦笑いを返した。

 損なんてない。

 自分の欲は満たされないかもしれない。けれど、本当に大事な望みを叶えるためだから、きっと損ではない。

 それも、結局、何かができているわけじゃない。

 今日、ここまで連れて来たのだって、どれだけ意味があるのかは、分からなかった。


「これで良かったんでしょうか」


 ポロリと漏れた弱音は、


「考えたところでしょうがないでしょ」


 と、ばっさり切り捨てられる。


「信じたようにおやりなさいな。そういうバカな子は、嫌いじゃないわ」


 そう言って、にっこりと笑った。

 カウンターではマスターがドリップを終えて、サーバーからコーヒーをカップに移していた。

 表面に浮く小さな泡を、小ぶりのスプーンで丁寧に取り払う。

 ソーサーに載せ、焼き菓子を添えて、マスターが手ずから、トレイをもってカウンターを出た。

 マスターと奥さんの間でアイコンタクトが交わされる。

 直之の脇を通りながらウィンクを残していったのは、一体、何の合図だったのか。

 先輩の前にコーヒーを置いて、マスターは二言、三言と言葉を交わしている。

 先輩の白い手がカップを取って、口をつけた。

 微笑みが浮かぶ。

 それが心からの笑みであればいいと、直之は真摯に願った。

 先輩の目が、チラリと向けられた。

 同時に背中が強く叩かれる。


「しっかりおやりなさいな」


 朗らかに笑って、おかみさんがカウンターに戻っていく。

 何を、と問いかけるより先に、今度は後ろから髪をかき回された。

 いつの間にか戻っていたマスターが、やはり笑顔のままでカウンターに戻っていく。

 奥のテーブル席で先輩が楽しそうに笑っていた。



 直之のバイトが終わって、二人そろって家路についた。

 昨夜のぎこちなさはすでに抜けていたが、先輩はどこかまだ上の空で、何か物思いに耽っているらしかった。

 家の鍵を開けて、部屋に鞄を置いて、直之は努めて明るい調子で言った。


「さて、今日はどれをやりましょうか。こないだの続きをするなら、後ろで見てますよ」


 先輩は「そうねぇ」と考える素振りを見せてから、含みのある笑みを浮かべた。


「コーヒーが飲みたいわね」


 意外な答えに直之が驚く。


「そんなに気に入ったんですか」


「もちろん」と笑顔が返ってくる。

 喜ぶべきことではあったが、直之は困った。


「じゃあ、また明日、飲みに行きましょうか」

「今、飲みたいの」

「あれはマスターが淹れるからであって、同じ味にはなりませんよ」

「それでいいよ」

「特別な器具も必要ですし」

「一通り揃ってるって聞いたけど」


 ここまで聞けば、これがマスターの入れ知恵であることは明白だった。いや、あのアイコンタクトを考えると、二人の、というべきか。援護射撃かと思ったら、まさかの背後挟撃だ。マスターのコーヒーの後に淹れて飲ませるなんて、罰ゲームでしかない。

 なんとか言い逃れしようと口を開きかけて、しかし直之は諦めた。

 目の前で柔和に細められた瞳が、絶対に逃さないと告げている。


「今、準備しますから」

「待ってる」


 笑顔で見送られる。

 直之はため息とともに、覚悟を決めた。

 キッチンに立つと、細口のケトルに水を半分ほど入れて、コンロの火にかけた。

 冷蔵庫から豆の入った密閉式のキャニスターを取り出す。

 せめて飲みやすいトラジャかケニアでもあれば、と無為なことを思ったが、記憶の通り、複数あるキャニスターには全て「ブラジル」「深煎り」の付箋が貼られていた。

 先輩に新たなトラウマを作らないことを祈りつつ、高屋はキャニスターの蓋を開いた。


 電動ミルに豆を計り入れて、スイッチを押した。業務用に限りなく近い、マスターお勧めの逸品で、五個分で安い車が一台買える。バイト代をコツコツ貯めて買った。

 挽いた粉を揺すりながら、雑味の元となるチャフを飛ばす。

 ケトルの湯が煮立つ前に火を止めた。

 冷蔵庫から小さな透明樹脂の容器を取り出す。水に浸されたネルを取り出して、流水で洗って、固く絞り、ハンドルに取り付けて、ケトルから熱湯を注いで、また絞る。

 コーヒーの粉を入れて平らに均したら、指で小さく凹みをつける。

 ネルをスタンドにひとまず置いて、ケトルの蓋を開く。

 ケトルからサーバーに、サーバーからケトルに、湯を移して温度を下げる。

 さて淹れようとしたところで、


「ちょっと、こっちでやってよ」


 と居間から不満の声が上がった。

 先輩が綺麗に片付いたちゃぶ台の上を叩いている。

 散らかっていたあれこれは、そっくり床に平行移動されていた。

 やむなく、直之は道具一式とコーヒーカップを部屋に運んで、広くもないちゃぶ台に肘をついて待つ先輩と向かい合う。


「あんまり近いと、お湯が跳ねますよ」


 二つのカップにケトルからお湯を注ぎながら言うと、先輩は心持ち身を引くが、それでもやはり近い。

 諦めて、直之はスタンドのネルを片手に、もう一方の手でケトルを持って、そっとお湯を注いでいく。


「スタンドがあるのに手で持つんだ」

「両手を使ったほうが調整が効くんです。好みの問題ですけど」


 粉にまんべんなく湯が行き渡ったところで、一旦、注ぐのをやめる。

 じわじわと粉が膨らんで、綺麗なアーチを描く。

 ネルの底からぽたぽたと褐色の雫が落ちる。

 粉の膨らみがピークに達したところで、中央にお湯をまっすぐ注ぐ。

 立ち上る泡がネルに触れないように注意しつつ、何度かに分けてお湯を注ぐ。


「の」の字を描くように、次第に大きく広げてる。

 カラメル色の泡がこんもりと盛り上がる。


「美味しそう、カルメ焼きみたい」

「舐めてみますか」


 先輩は直之の顔をじっくりと眺めてから、やがてその口元の動きが怪しいのを見ぬくと、


「やめとく」


 と、ネルの中に視線を戻した。

 一度に多くのお湯を注ぎすぎないように、また、上の泡が底に達してしまわないように、お湯を注いでいく。

 やがてサーバーに二杯分のコーヒーが出たところで、適当な他のカップと置き換える。


「まだけっこう出てるけど」

「最後の方は雑味が出やすいんです。さっきのカルメ焼きの部分ですね」

「やっぱり美味しくなかったんだ」

「そうとも限りません」

「ウソばっかり」

「鰹節と出汁みたいなもんですよ。時と場合によって、どんな味を楽しみたいかです」

「じゃあ、時と場合によって、高屋はコーヒー豆をそのまま齧るのね、リスみたいに」

「そういうお菓子もありますよ」


 カップの表面に浮いた泡を取り払って、差し出す。


「ありがと」


 直之も自分のカップを手にして、香りを確かめる。口をつけて、落胆を露わにした。

 向かいで直之の真似をしつつ口をつける先輩に、


「ミルクもありますよ。どうしても無理だったら、残して下さい」


 カップに口をつけたまま、先輩がキョトンとする。


「ちゃんと美味しいよ」

「だといいんですけど」


 浮かない顔でカップを傾ける直之を見て、


「カワイイなぁ、高屋は」


 と楽しそうに笑っていた。

 折しも夕暮れ時で、橙色の西日が部屋に射していた。

 狭い六畳間の真ん中で、家具の隙間に収まるように座って、小さなちゃぶ台を囲っている。

 床にはゲームソフトが散乱している。

 本棚にはマンガや娯楽小説しか並んでいない。

 ベッドの上は、シーツも布団もぐちゃぐちゃだ。

 自慢といえば、ガスコンロが二口あることと、流し台の差し渡しが少し広いことくらいしか直之には思い当たらない、木造1Kの古びたアパートで、先輩と二人、コーヒを飲んでいる。

 偶像の気配なんて欠片もない、貧乏くさい光景だった。

 それでもやはり、先輩の笑顔は美しかった。



 カーテンの隙間から差す光に、直之は目を覚ました。

 抱き込んでいた毛布を肌蹴て、体を起こす。

 違和感があった。

 その正体はすぐに分かった。

 部屋がキレイすぎる。

 散らかし放題だったゲームのケースは整然と棚に並び、出しっ放しだったゲーム機も、テレビ台の下にきちんと収まっていた。

 ベッドの上を見ると、先輩の姿は無かった。

 畳まれた布団の隣りに、貸していたジャージの上下が揃えて畳んである。部屋の隅に置いてあった鞄も、なくなっていた。

 ジャージの上にはメモが一枚、置かれていた。

 直之が立ち上がって、手に取る。


「ありがとう」


 とだけ書かれていた。

 しばしの間、直之はそれを眺めてから、またジャージの上に戻した。

 キッチンに行って、ケトルでお湯を沸かす。コーヒーを淹れる。

 カップとサーバーを手に戻ってきて、ちゃぶ台の上に置こうとしたところで、ひとつだけ、ゲームのソフトが出したままになっているのに気付いた。

 取り上げたパッケージには付箋が一枚貼られていた。


「まだ貸しておく」


 直之の口元がほころぶ。

 付箋がついたまま、ゲームソフトを棚に持っていく。

 先輩がそうしたように、いつもとは違う場所に、しまっておいた。

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