「バカな女って、思ってるでしょう」

 雨が続いている。

 絹糸のように細い雨は音もなく、水の気配と冷たさだけを窓越しに伝えてくる。

 暗がりの天井を、直之はまんじりともせず見上げていた。


 声もなく泣き崩れた先輩を支えて、何とか駅前でタクシーをつかまえて、家まで帰りついた。

 タオルを渡して、お風呂を沸かして、温かい飲み物を渡して。

 その間、先輩は一言も口をきかなかった。

 夕食もとろうとせず、そのままベッドに横になると、小さく丸まって、声もなく泣き始めた。

 その姿を、直之はただ黙って見ていた。

 見ているより、他になかった。

 何か出来ると、思っていたわけじゃない。

 それでもきっと、心のどこかで、何かの役には立てるはずだと、ワケもなく信じていたに違いなかった。

 そうでなければ、これほどまでに強く、打ちのめされるはずがなかった。

 何も出来ない自分に、絶望することなんてなかった。


 暗がりに布団の擦れる音がした。

 今はもう、泣き声もうめき声も聞こえない。

 泣きつかれてでもいいから、せめて今は、安らかに寝ていて欲しいと、直之は切に願っていた。

 しかし、その祈りは、細雨の音にも負けそうな囁き声によって、破られた。


「バカな女って、思ってるでしょう」


 爛々と光る瞳が二つ、暗闇の中に点っていた。


「私のこと、バカな女って思ってるでしょう」


 静謐な声で、呪詛に似た言葉を吐く。


「可哀想で、バカな女だって思ってる」

「思ってませんよ」

「ウソ」


 有無を言わせぬ声だった。


「いい気味だって思ってる」

「思ってません」

「恋愛体質で、頭の軽いバカ女って」

「思ってないです」

「ろくでもない男に引っかかって、似合わない格好してって」

「それはまぁ少し」


 暗がりの向こうで、先輩が少しムッとするのが分かった。

 そんな場合じゃないのは分かっていても、それが少しおかしくて、口元が緩んだ。

 体を起こして、直之はその場に座り直した。

 暗がりの先輩とあらためて、見つめ合う。


「先輩」

「なによ」


 布団の端を握りしめ、燃えるような瞳を向ける彼女を、直之は見つめ返す。


「先輩は、いい女です」


 一瞬、先輩は虚を突かれた顔をした。

 しかし、すぐに、瞳を険しくした。


「ウソばっかり」

「本当ですよ」


 胸の内にわき立つ波を抑えながら、直之は言う。


「先輩は、大きな瞳が猫みたいに愛くるしくて、ころころと変わる表情に目が離せなくて、笑った時の八重歯が最高に可愛い、いい女です」


 戸惑う瞳に、さらに直之は言葉を重ねる。


「明るくて、活発で、真っ直ぐで。でもちょっとガサツで、面倒見がよいけど、ワガママで、気は遣うけどあんまり空気が読めなくて、家庭的だけど細かい作業はてんでダメ」

「褒めてるの、貶してるの」


 ジト目で睨んでくる先輩に、


「でも、最高の女性です」


 直之は万感の意を込めて伝えた。


「俺の知っている限り、先輩はこの世で一番、いい女ですよ」


 嘘もてらいもない。

 誰に何度問われたって、同じことを言える自信がある。

 直之はただ黙って、先輩の瞳を見つめた。

 燃えるようだった瞳は、今にも消えそうに、たよりなく揺らめいていた。


「じゃあ、付き合ってよ」


 やがて、ポソリと、そんな声が暗闇に漏れた。


「高屋が、私と付き合ってよ」


 震えた体をうまく誤魔化せたか、直之には自信がなかった。

 嵐のように逆巻く心の内を抑えるのに、全力を注がなくてはならなかった。

 衝動が沸き起こる。

 抗いがたい誘惑がある。

 せめて表面だけでも冷静に、何気なさを装って、直之は正直に答えた。


「もちろん、いいですよ」


 目を見張る彼女に、


「先輩が本気なら、いいです。すごく、嬉しいです」


 そう言って、だから、と精一杯の力で、微笑んだ。


「今のは、聞かなかったことにしてあげます」


 暗がりの向こうで、震える唇が、何かを言おうとしたのが分かった。

 結局、言葉はなかった。


「先輩、明日、俺のバイト先に来ませんか。お昼過ぎなら席も空いていますから」


 突然の申し出に、暗がりの向こうで戸惑うのが分かった。

 ややあって、頷く気配がする。


「それなら、もう寝ましょう。明日の朝も早いので」


 先輩が布団に潜るのを見届けてから、直之も体を横たえた。

 暗い天井を見上げて、瞼を閉じる。


「ごめん、高屋」


 くぐもった囁きが、聞こえた気がした。

 雨の気配が、まだ遠くに残っていた。

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