「バカじゃないです」

 アパートの外に面した階段を上がっていると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

 ニンニクに、ソーセージ、タマネギとあとはなんだろう、などと思いつく限り挙げながら廊下に出ると、換気扇が回っているのは直之の部屋だけだった。

 この状況で胸の高鳴らない男はきっといないに違いない。

 直之は確信に満ちた言い訳を心の内でつぶやきつつ、努めて冷静に、ポケットから鍵を取り出した。

 シリンダーに鍵を差して、回す。

 開いた扉の向こうに見えたのは、はたして、前髪をちょんまげに結ったジャージ姿のヤンキーみたいな女が、片手で中華鍋をあおる光景だった。


「あ、おかえり。勝手に使わせてもらってるよ」


 コンロの上を中華鍋が軽やかに踊り、具材が弧を描いて宙を舞う。


「コレジャナイ」

「え、なんて」

「いえ。手慣れてますね」

「まぁね」


 と得意気に笑う。


「お昼、食べるよね」

「もちろん、いただきます」


 三和土で靴を脱いで、狭いキッチンを先輩とすれ違う。

 どこかで見たジャージだと思っていたら、部屋に入って納得した。押入れが開け放たれて、物取りの後みたいになっている。


「着るのはいいけど、ちゃんと片付けて下さい」


 ぼやく声が聞こえたのか聞こえなかったのか、キッチンから何か声がしたが、ついでにガッチャガッチャと中華鍋がコンロに当たる音も聞こえてきた。

 直之は小さくため息を漏らして、押入れとちゃぶ台の上を片付けると、腰を下ろして、ベッドにもたれながら、ちゃぶ台の向こうの光景を眺めた。


 先輩が茹で上がったスパゲッティーをトングで隣の中華鍋に移していた。家にあるフライパンは今朝目玉焼きを作るのに使った20cm径のがひとつだけだ。あれで2人前を同時に仕上げるのは無理があったろうから、慧眼と言える。中華鍋もあおり慣れているようなので、普段から料理をしているのだろう。


 直之の眺める先で、鍋から茹で汁が少し中華鍋に移された。味を見つつ、業務用の大きなケチャップを大胆に噴射して、またトングで和えて、広めの丸皿二つに盛りつけられる。ペッパーミルで砕きながら黒胡椒を散らし、オリーブオイルを振りかけると、フォークを添えてちゃぶ台まで運んでくる。


「おまたせ」

「さすがですね」


 高屋は褒めたつもりだったが、じろりと睨まれた。


「このキッチン、男の一人暮らしにしては充実しすぎ」

「最近人気急上昇中の自炊男子ですから」

「洗った野菜が小分けでジップロックに入っているのを見た時はさすがに引いたわ」

「すぐに使えて便利なのに」


 先輩は皿を一旦置いてからキッチンに引き返すと、両手にマグカップを持って戻ってきた。

 かぐわしい湯気が立ち上っている。

 中身は在庫処分で半額だったインスタントのコーンクリームに違いない。

 向かいに先輩が腰を下ろしたタイミングで、


「いただきます」


 と手を合わせた。

 パスタをフォークで巻いて口に運ぶ。

 ケチャップの風味が懐かしい味わいだった。


「トマトがあればもっとちゃんとしたんだけど」

「これはこれで定番ですよ」


 具材はソーセージ、タマネギ、ピーマン、キノコときて、味付けがケチャップとなれば、昭和の香り漂う伝統的なナポリタンだ。


「先輩も料理するんですね」

「他に言い方はないわけ」

「超美味いです」


 直截な反応を向けられて、先輩は逆にうろたえた顔をする。


「昨日は晩御飯と夜食まで作ってもらったし、今朝もラピュタパンあったし、このままだと女子の沽券に関わると思って」


 などと、もごもご言ってから、


「でも、高屋のご飯の方が美味しかったな」


 と悔しげにパスタを口に運ぶ。


「人が作ったものの方が美味しく感じませんか」

「それはあるかも」


 と頷きつつ、


「でも、相手によるでしょ」

「それはそうですね」


 直之も頷きつつ、手を止めることなくパスタを平らげていく。

 二人の皿がキレイに片付いたところで、直之が腰を上げた。


「飲み物はコーヒー、紅茶、緑茶、ココア、ホットミルク。どれが良いですか」

「喫茶店みたい」


 先輩は感心半分、呆れ半分の声を上げて、


「やっぱりここは形式美でコーヒー、と言いたいところだけど、紅茶にしようかな」

「苦手ですか、コーヒー」

「ちょっとね。酸っぱかったり、苦かったりして」


 困ったように笑って肩をすくめる。


 直之は空いた皿を持ってキッチンに戻った。

 ケトルに水を入れてコンロに置く。

 食器棚から百均の小ぶりなポットと、なるべく口の広いカップを二つ取り出して、流し台に並べた。

 ケトルの湯が沸騰したところで火を止めて、ポット、カップと移して温める。

 近所の紅茶専門店で買ったお徳用のアッサムをティースプーンで三杯、ポットに計り入れる。

 お湯を泡立てるくらいの勢いで注ぎ、ポットにフタをする。

 ティーコージーの代わりにハンドタオルでくるんで、三分間ほど蒸らす。

 カップの湯を捨てて、茶漉しを使いながら、紅茶を交互に注ぐ。

 二杯分、きっかり注ぎきって、カップを手に部屋に戻った。


「さすがにレモンはないですけど、牛乳はありますから」


 カップをちゃぶ台に並べて、元の場所に腰を下ろした。

 しばらくは二人、無言で紅茶を傾ける時間が続いた。

 あっという間に一杯目が空になり、直之が二杯目を入れに行く。今度はミルクも持って戻ってきた。

 その間に二人が発した言葉と言えば、


「どうぞ」

「ありがとう」

「おかわりは」

「いる」


 くらいのもので、あとは終始無言だった。

 二杯目のミルクティーが早くも底を尽きかけた頃、直之の視線がテレビの前の床で止まった。

 カーペットの上には昨夜のまま、ゲームソフトが散乱している。

 しかし、よく見れば、昨日遊んだ覚えのないものまで増えていた。


「遊ぶのはいいですけど、終わったらしまって下さいよ」

「また遊ぶつもりだったからいいの」

「また遊ぶ時に出して下さい」

「いちいち出したりしまったりめんどい」

「ケースが痛むんです」

「細かいなぁ」


 文句を言いつつ、全く動こうとしない先輩を見かねて、仕方なく直之が腰を上げた。床に転がっているケースを集めて重ねると、棚に戻し始めた。

 その後ろ姿をぼんやりと眺めていた先輩が、


「これだけ充実してると、いくらでも遊べちゃうよね。しばらくは泊まっていこうかな」


 と冗談めかして言った。

 直之は横目でチラリと伺ってから、


「いいですよ、べつに。でも、バイトの前日とかは、昨日みたいのはもうムリですからね。あと、ベッドは日替わりですよ」


 かすかに息を飲む気配がしたが、すぐに、


「そこは女の子に譲りなさいよ」

「女の子って、辞書で引いてみたらいいですよ」

「じゃあ、高屋は紳士って調べなさい」

「あと部屋着くらいは貸しますけど、下着はダメですよ。まさか今、履いてないでしょうね」

「あとで買ってくるに決まってるでしょ」


 直之の背中に空のケースが飛んだ。

 泊まりとなると、下着の他にも何かと入用なものがある。

 ことに女性はそれが多いという。

 近所のコンビニでこと足りるのでは、という直之の提案は「ありえない」と冷たい声で一蹴され、やむなく最寄りのデパートまで電車で買い物に行くことになった。


「もういいよ」


 背にした引き戸の向こうから呼ばれて、直之は廊下から部屋に入る。

 姿見を前に、先輩が自分の格好を確認していた。

 さすがに電車に乗るとなると、ジャージ姿では恥ずかしいし、でも昨日の服は着たくない、ということで、急遽、直之の外着から着れそうなものを貸すことになった。

 アイボリーのセーターに、黒のダウンを羽織って、下はジーンズというシンプルな出で立ちだった。

 セーターとダウンは大きすぎず、しかし男性用とあって着丈はゆったりとしていて、かえってフェミニンな雰囲気が出ていた。ジーンズに至っては、丈を端折っている他は違和感がない。


「ぴったりですね」


 と思わず直之が口走って、鏡越しに睨めつけられた。


「屈辱。特にジーンズが」


 と忌々しげにもものあたりを撫でさする先輩の姿に、直之は何かフォローをしようとして口を開きかけたが、泥沼になりそうなのでやめておいた。

 壁掛けのコルクボードから、ピンで留めてあったチラシを手にとる。


「さっさと行って、さっさと帰ってきましょう。近くのスーパーでタイムセールがあるんです」

「所帯染みてるなぁ」と声に反して楽しそうに笑って、先輩は先に玄関へと向かった。

 直之も肩掛け鞄を手にとって後を追おうとしたところで、ベッド脇のコンセントに繋がったままの携帯に気付く。


「先輩、携帯忘れてますよ」


 その肩が跳ねた。が、振り返った表情はいつも通りだった。


「いらないよ。そんな遠出でもないし」


 と、どうでも良さそうな声で言う。


「でも、いざって時に困りますよ」

「いざって何よ」


 と苛立った声で言う。

 直之は少し悩んでから、やがて気遣わしげな顔で言いづらそうに口を開く。


「迷子センターのお姉さんに、お名前とお年、ちゃんと言えますか」


 しばしの沈黙ののち、先輩はにっこりと微笑んだ。


「おりたゆうこ、はたちです」


 天使のような顔で、脛を蹴られた。






「じゃあ、ここで待ってて。入ってきたら絶交だから」

「お金をもらったって入りませんよ」


 うんざりした顔で、直之はすぐそばの店を控えめに見上げた。


「それはそれでムカつくなぁ」

「先輩たってのご要望とあらば、発言を翻すことも吝かではありません」

「絶交」


 と、にこやかに答えて、先輩は目の前の下着専門店に入っていった。

 その後ろ姿を見守ってから、直之は少し離れたエスカレーターのあたりまで移動した。

 ベンチ代わりのソファに腰を下ろすと、最近のデパートはこんなところにまで良い物を使っていると見えて、泥沼に落ちるように際限なく埋もれていく。座るというよりハマるといった具合で、ようやく直之の尻が落ち着いた。


 深いため息が漏れた。

 寝不足で働きの鈍い頭に、今日一日、繰り返し浮かんでは消えている問いかけが、再び浮かび上がってくる。

 これで良かったのだろうか、と。


 結局のところ、直之は何も事情も聞いてはいない。

 昨日の涙のワケも、家に帰りたがらない理由も。何も。

 察せられることはある。

 携帯は持ち歩きたくはない、けれど、充電はして、電源を切らさないようにしている。時折、待機状態を解いて、メールか着信のチェックをしているのも知っている。

 結局は当人の問題だ。

 話したがらないうちは無理に聞くべきではない。

 きちんと向き合うためにも、冷却期間は必要だ。

 そのもっともらしい理由たちが、どうしても臆病な言い訳にしか聞こえないのは、何故だろうか。

 直之は一層、ソファにもたれかかった。

 意識が生暖かい微睡みのむこうに沈んでいく。


 モールを行き交う人の群れを、眺めるともなく眺めていた。

 制服姿の少年と少女の姿に目が止まった。

 ふたり肩を並べて、歓談に花を咲かせている。

 時々、相手の肩を叩いたりして、じゃれあいながら歩いていく。


 泥沼の底から、ぷかりと、意識が浮かぶ。

 時間が必要なのは、たぶん自分の方だ。

 事実を目の当たりにするだけの覚悟が、今はまだない。

 先輩の悩みを受け止めて、なお、何かを言ったり行ったりできる自信が、まだない。

 だから、変わらない。

 今も昔も。自分は。


 嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが、どこからともなく漂ってきた。

 まるで抗議をするように、その存在を主張する。

 たしかに、変わったものもあった。

 でも、それだけ。

 それは何の意味もなさない。

 今と、昔と、自己嫌悪のまどろみの底に、直之の意識はどこまでも落ちていった。


 脳天に鈍い痛みが走った。

 意識が急速に引き上げられていく。

 俯けた顔を上げれば、目の前に仁王立ちする先輩の姿があった。

 右手が手刀の形で掲げて、ふんぞり返るように睥睨していた。

 もし今ので置きなければ、二発目を見舞う気だったに違いない。


「もっと優しく起こして下さい」

「分かった。次はそっと、背後から忍び寄る」

「必殺判定がつきそうですね」


 腰を上げて、伸びをする。

 パキポキと肩やら腰やらが鳴った。

 思ったよりも時間が経っていたようだ。

 先輩の左手首には複数の店の買い物袋がぶら下がっていた。


「もういいんですか」

「誰かさんが早く帰りたいって言うから、急いだのに。寝てるし」

「さっすが、先輩」


 わかりやすくおだててみたが、一層、睨まれた。


「そう言えば、今日は肉が特売でしたよ」

「ステーキね」

「トンテキでどうかひとつ」


 しょうがねえな、と不敵に笑う先輩と、並んで歩き出す。

 平日の夕時だが、モールの人通りは少なくなかった。

 場所柄もあって、年若い女性か、カップルの姿が目立った。

 はた目に見れば自分たちもそう見えるのだろうか、と。

 そう考えかけて、直之は頭を振った。

 さっきまでの思考がまだ尾を引いているらしい。


 隣を見ると、先輩の姿がない。

 振り返ると、道の半ばに立ち尽くして、ぼんやりと明後日の方を眺めている。

 視線の先をたどると、道の反対側のブティックを見ているらしかった。


 店先で若い男女が肩をくっつけながら、女性用の服を選んでいた。

 女性が手にとった服を当てながら姿見の前に立つと、男性が横から別の服を差し出した。

「えー」などと声を上げつつ、肩で合わせて、最後は男性が選んだ服を手に店の奥へと入っていった。


「バカな女」


 ぽそりと、声がした。

 隣を見ると、先輩が能面のような顔をしていた。

 ブティックから件のカップルが寄り添って出てきた。

 彼氏の腕を抱いて歩く女性の顔には、不満の色はひとつとして見えない。


「バカじゃないですよ」


 直之が言った。


「好きな人に喜んでもらいたいと思うのは、バカなことじゃないです」


 先輩はしばらく件のカップルを目で追っていたが、小さく「そうかもね」と呟いた。


「せっかくだし、どこか寄って帰りましょうか」


 直之の提案に、先輩が首を傾げる。


「タイムセールは」

「閉店前の見切り品に期待します」


 と、直之が肩をすくめる。

 ほんのすこしの逡巡のあとで、先輩は精一杯の笑顔を浮かべて、


「ゲーセン行きたい。もうしばらく行ってないし」

「先輩、知ってますか。今のゲーセンは全部プレイ無料で、ゲーム内課金なんです」

「え、ウソ。まさか時代はそこまで」

「もちろんウソですけど」


 ふくら脛を蹴られた。


「だったら良いな、と。実はあんまり手持ちがなくて」

「見るだけでもいいじゃん。帰ったらまたリベンジだ」

「徹夜は勘弁して下さい」

「私が勝つまでは寝かさない」


 二人並んで、喧騒の中を歩いた。

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