「大学生だもの、薔薇色よ」
顔の横で携帯のバイブが唸っている。
直之は手探りで携帯を引き寄せると、液晶画面を指でなぞって、アラームを止めた。
のっそりと顔をあげる。肩から毛布がずり落ちた。
見慣れない部屋の様子に、一瞬、自分がどこにいるのかを見失う。
寝不足の眼で部屋を見回してようやく、今、自分が部屋の真ん中で毛布にくるまってカブトムシの幼虫みたいになっていることに気付いた。
カーテンからこぼれる朝の光の中、テレビ台の前には引っ張りだされた歴代のゲーム機たちが並び、ちゃぶ台の上には食い散らかされた晩飯と夜食の皿がひしめき合っている。
首を伸ばしてベッドの上を伺う。
予想通り、そこには羽毛布団にくるまってぬくぬくと丸くなった先輩の姿があった。つるりと血色の良い顔が、枕と布団の合間からのぞいている。
幸せそうな寝顔に顔が緩むんだのも束の間、直之が身を起こしてベッドを覗き込むと、シーツと枕カバーはこそげた化粧で絵の具のパレットみたいになっていた。
ため息をかみ殺しつつ、苦笑い半分で立ち上がって、音を立てないように部屋を抜けた。
キッチンの流し台で顔を洗って、寝不足の頭を奮い起こす。
寝癖を直して、歯を磨いて、用を足す。あとは着替えれば外出できるだけの支度を整えて、あらためてキッチンに立った。
冷蔵庫の中身を確かめる。
使い残しの野菜が目に入ったが、朝から面倒な調理をする気にはなれなかった。安売りの不揃い卵と、ソーセージを手にとって、扉を閉めた。冷凍庫から、カチコチに凍った6枚切り食パンを2枚ばかり取り出して、トースターに並べてタイマーをかける。
ソーセージを薄切りにして、油を引いたフライパンで軽く焼き目をつけてから、卵を落とし、水を少々、蓋をして、半熟のベーコンエッグならぬソーセージエッグを焼く。
再び冷蔵庫を開けて、奥からラベルのない大瓶を引っ張りだす。足りない野菜分は、見切りの野菜で漬けておいた簡易ピクルスで補うことにする。
ステンレスの細口ケトルをコンロの火にかけて、冷蔵庫から昨日もらってきたコーヒー豆を取り出した。
電動ミルは音が大きいので、仕方なしにキッチンの上の棚から手回しのミルを引っ張りだす。
豆を保存用のキャニスターに移しつつ、今飲む分だけ挽いて粉にする。
ドリップは手間なので、今日のところはカフェプレスにした。粉とお湯を注いで、五分ほど蒸らしてからハンドルを押し下げて、コーヒーをカップに注ぐ。
トースターが鳴った。フライパンの目玉焼きも良い焼き加減だ。
二つの皿にトーストを載せ、その上にソーセージエッグ、塩と粗挽きにした胡椒を振って、脇にピクルスを添える。
とりかかりから十分あまり、流し台の上に2セットの朝食が並んだ。
1セットは先輩用にラップをかけてとっておく。
直之はその場で立ったまま朝食をとり始める。
流しの上でやや前かがみになりながら、焼けたトーストをザクザクと齧って、悪魔のように黒く天使のように甘い液体をゴクゴクと飲む。
ものの5分で食事を終えて、流しのタライに空いた皿とカップを置くと、水を張った。
部屋に戻って着替えた後で、机の引き出しから大きめの付箋を取り出した。
朝食のこと、家のものは自由に使ってよいことなどをメモとして書き記しておいた。
家を出る時の鍵のことも書いておくべきか迷ったが、結局、何も書かずにおいた。
メモは先輩の鞄の上に、良く見えるように置いておいた。
いつもの肩かけ鞄を背負い、外出の準備は整った。
ベッドの上では相変わらず先輩が猫か芋虫のように丸くなっている。
カーテンの隙間から差す薄明かりの中で、先輩の顔色は、心なしか昨日よりもましに見えた。
直之は部屋の真ん中に立ち尽くして、その寝顔を眺める。
時間の流れがゆるやかに過ぎていく。
部屋の外ではない方に足を踏み出しかけて、直之は我に返った。
軽く頭を振り、部屋を出る。
後ろ手に、廊下に続く引き戸を閉めた。
「今日はなんだか眠そうねェ」
直之が今日何度目か分からぬ欠伸を噛み殺した後で、隣りに立つおかみさんがそう言った。声色からして、責めたいわけではなく、純粋に不思議に思っているらしかった。
「すみません、昨日は少し遅くて」
よもやレトロゲームに熱中して夜を明かしました、などと言えるわけもなく、直之はすまなそうに頭を下げる。
カウンターから少し離れたテーブル席で、黄色い声がいくつも上がった。
「若いっていいわねぇ」
「大学生だもの、薔薇色よ」
「私ももう少し若ければねェ」
ランチを囲んだ奥様方が、何を勘違いしたか、直之の顔を横目でチラチラ見ながら、きゃっきゃと騒いでいる。
平日のランチタイムはハイソでミドルなマダム達の独壇場だ。休日の昼下がりとは客層もまたガラリと変わる。
直之がはにかむように微笑んでみせると、声のボルテージはうなぎのぼりに上がった。
「お相手は、同じ大学の子なのかしら」
マダムの一人が水を向けてくる。
「高校の頃、同じ部活だったんですよ」
嘘は言っていなかった。
もちろん、過去から現在に至るどのタイミングを切り取っても、先輩との間には、マダムたちが期待するような甘酸っぱい瞬間など微塵もありはしなかったが、そこは接客の妙というやつで、適度に勘違いしてもらったほうが、彼女らの会話も潤う。
「それじゃあ、ずっとお付き合いが続いているのね」
「実はそうでもなくて、つい先日、ばったりと再会しまして」
ふたたび黄色い声が上がった。
ロマンチックね、羨ましいわ、などと内輪でまた会話が盛り上がり始めた。
彼女らの言うロマンがはたして、横スクロールのアクションゲームから始まり、古今東西の格ゲーを横断した春の永夜にあったかどうかは分からないが、お客様が盛り上がっているのならば、店員としてそれに勝るものはないだろう。
あるいは、と直之は思った。
そんなロマンこそが、必要だったのだろうか、と。
彼女たちの思い描く薔薇色があれば、少しは何かが違ったのだろうか。
昨日、あるいはそれより以前にも。
形だけでも求めてみれば、それを手にできたのだろうか。
洗い物の手を動かしながら、思考の海に埋没していく。
隣から手が伸びて、水切りカゴから食器を取り上げた。
「無理しちゃだめよ」
顔を上げると、隣りに立ったおかみさんが、瓶底眼鏡の向こうから、覗き込んでいた。
大きな黒い瞳に、全てが見透かされているような気になった。
「昨日の話の続きなんですけど」
と、思わず口から言葉が漏れる。
「恋に恋して傷付いた女の子は、その後どうなるんでしょうか」
おかみさんはしばらく思案すると、
「だいたいの場合、次の恋に消極的になるかしら」
「それ以外では」
「最初の失敗を埋め合わせようとして、ろくでもない男に繰り返し引っかかる」
今度は即答だった。
直之の眉間に皺が寄る。
「それって、どうにかならないもんですか」
「誰かがちゃんとした恋愛を教えてあげたらいいんでしょうけど」
と、横目で直之の様子を伺ってから、
「でも、しょせんは初恋の焼き直しだから。偶像を追い求めるのよ。そんな面倒な子、まともななら相手にしないでしょ」
と、にべもなく切り捨てた。
直之の口から、相づちより先に、ため息が漏れる。
救いがない、と。
しかし、ひる返って言えば、偶像たり得る人間がきちんと向き合えってくれたなら、何かが変わる余地がある、とも取れる。
偶像を担えさえすればいい。
その資格さえあるのなら。
直之の視線がカウンターの中ほどに向いた。
マスターが銀色に鈍く光るケトルを手に、ドリップをしているところだ。
カウンターに据え付けられた木製のドリップスタンドには、ハンドルの付いたネルのドリッパーが置かれている。その先から垂れた暗褐色の液体が、下のコーヒーサーバーに注がれている。
ごつごつした大きな手が、ケトルを傾ける。
細く絞られた金属の口から、銀糸が垂れて、琥珀色の山を編む。繊細に、柔らかく、褐色の雫が編み出されていく。
偶像を担えるなら。誰でも――
「でもね」
おかみさんの声が、直之の思考を引き戻した。
「恋のやり方なんて、人に教わるようなもんじゃないのよ」
などと、さっきとは矛盾したようなことを言う。
「じゃあ、どうすれば」
瓶底眼鏡の大きな瞳が直之を見据える。
「さてね。やるだけやるしかないのよ。あとは勝手に、自分で選ぶでしょ」
と投げやりにも似た声で、託宣は下された。
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