第3話 みそら銀行強盗事件
午後12時20分、東京湾PSI刑務所では受刑者たちが昼の自由時間を過ごしていた。昼からグッと気温が上昇して初夏の陽気の中、グラウンドで運動を楽しむ受刑者たちは皆、上衣を脱いでTシャツ姿で汗を流していた。皆が熱気に包まれるグラウンドでただ1人、光一だけが桜の木のそばのベンチに腰掛けてジッとしている。暑さが苦手な彼は、蒸し暑い独房よりは外の方がマシであろうとグラウンドに出てみたものの、夏のごとく照りつける太陽に出迎えられ、桜の木陰にあるベンチに避難したのであった。
「あー、涼しい。日なたと日陰ってこんなにも温度差あんだなあ。独房の蒸し風呂より、ここの方が断然快適だな」
光一は独り言をつぶやきながらベンチの上にゴロリと横になった。昼寝をしようと目を閉じた光一であったが突き刺すような視線を感じ、すぐに体を起こしてその方向に目を向けた。10メートル前方に2人の若い男が光一を見つめて立っていた。1人は光一よりも背が高く筋肉質、もう一人は光一と同じくらいの背丈で細身である。2人はゆっくり歩いて近付いてくると、ベンチに座る光一を無言のまま見下ろした。彼らの顔は笑うでもなく怒るでもなく、ただ無表情のまま感情を一切感じさせない視線が不気味である。
「……日村光一だな」
体の大きな筋肉質の男が、ボソリと光一の名を口に出した。
「俺に、なんか用か? サインなら今ペン持ってないから、後にしてくれよな」
「……俺たちと勝負しろ」
軽口をたたく光一に対して、ノーリアクションの彼らは受刑者たちの野球の試合を指差した。
「野球がしたけりゃ交ぜてもらえ。あんたらが人見知りなら、2人でキャッチボールっていう選択肢もある」
「インビジブルが協力できないと言い出した。人殺しは嫌だと。お前が俺たちに協力しないのは勝手だが、大事な仲間をそそのかさないでもらいたい」
細身の男は中腰になり光一に顔を近づけると、その体格に似合わず低く野太い声で脅すように言った。
「インビジブルは君ともっと話がしたいようだ。僕らが彼を正してやることはた易いが、仲間に手荒なことをしたくはないんだ。そこで君とフェアな勝負がしたい。僕らが勝ったら、君は今後インビジブルと関わらないことを約束してもらいたい」
大柄の男が丁寧な口調で話した。
光一は立ち上がり、交互に2人の男の瞳をジッと見つめた。
「大事な仲間じゃなくて、便利な道具の間違いだろ? 革命家ぶってもやることはチンピラ以下だな。俺が勝ったらインビジブルを開放しろ! あんたらのくだらねー革命ごっこに巻き込むんじゃねえ!」
「いいだろう。では、始めようか。僕からヒット1本取れば君の勝ちだ。逆に君から三振を奪えば僕らの勝ち、いいね?」
2人の男は、すぐそばで野球をしている受刑者たちから用具を拝借してくると、光一に木製バットを手渡した。光一はバットを受け取りその感触を確かめると、素振りを始めた。
小学生から野球を始め、中学時代も野球部でレギュラーとして活躍していた光一はバッティングには自信があった。
光一の横では、ミットを構えて腰を下ろした細身の男にピッチャーである大柄な男がリズムよく投げ込みをしている。その回数に比例して球威は増し、キャッチャーがボールを受け止める音がグラウンド全体に響き渡った。
――いい球投げやがる。140キロは出てるな。が、打てない球じゃねえ。
光一はバットを振りながら、大柄な男のピッチングフォームを観察した。
いつの間にか受刑者たちは試合を中断し、プロ並の投球を続ける大柄な男に注目していた。
「……もう準備はいいか?」
細身の男に声をかけられた光一は頷くとバッターボックスに入り、バットを短く持って構えた。
――まずは様子見といくか。どうせ初球はアウトコースにはずしてくんだろ。
大柄な男は構えると、投球練習と変わらぬ速球のストレートを放った。
パーン!
アウトコース高めのボールをキャッチャーが受け止める。
――ヒュー。バッターボックスで見るととんでもねえ速さだな。でも……。
大柄な男は「絶対に俺が勝つ!」と言っているような、強い意志を感じさせる眼差しで光一を見据えている。彼は再び投球フォームに入った。そして、さらに球威の増した速球を放つ。
――きた! インコース甘めの球。
光一はコンパクトにバットをスウィングして見事にミートさせた。しかし、大きなあたりに見えた打球はそれてファールとなり、光一は悔しそうに舌打ちをした。
――くそ、さばくのが前過ぎたか? 今度はもっと引き付けてから打ってやる!
試合を中断して光一たちの勝負に見入るギャラリーの1人が、新たなボールを投げてよこした。
「……お前、けっこうやるな。佐山の球を2球目でとらえた奴は初めてだ」
「今までの相手が弱すぎたんじゃねーの?」
光一はわざと挑発するような発言をする。
ギャラリーの1人からボールを受け取った佐山は、全く焦る様子も無く堂々たる表情でキャッチャーのサインを確認した。先ほどと変わらぬ鋭い視線を光一に向ける。
バッターボックスでピッチャーと対峙する光一は違和感をおぼえた。佐山の威嚇するような目つきは、先ほどまでの勝利に対する執着や自信とは異なる、殺気を帯びた禍々しいオーラを放っていたからである。
佐山が投球フォームに移ろうとした瞬間、光一の目に数秒先、未来のビジョンが映った。佐山の投げたボールが自分の顔面に直撃するデッドボールの映像。グニャっと視界が気持ち悪く歪み、仰向けに倒れてぼんやりと霞む青空と白い雲までが映し出された。
――クソ! あんな球もらったら大ケガどころじゃすまねーぞ。
佐山は振りかぶると勢いよく片足をあげた。
光一は回避するために半歩横にずれようとするが、金縛りにあったように体が硬直して身動きがとれない。
「お前、けっこう人がいいな。こんな単純に騙されるとは思わなかった。未来は変えられないのさ、千里眼」
「テメエら最初っから――」
ニタリと陰湿に笑う細身の男を罵倒する間もなく、速球を顔面に受けた光一はその場に崩れ落ちた。左こめかみの辺りが焼けるように熱く、何度も殴られているかのような痛みの中、光一は遠のく意識の中で彼らの会話を聞いていた。
「うまくいったな、佐山」
「ああ。菅原はどうだ? PKはちゃんと使えたのか?」
「情報どおり、5割くらいの力が出せたぜ。明日が楽しみだな。ハハハ」
細身の男、菅原が高笑いをする。
佐山が光一の頭を鷲掴みにしながら、ボールの直撃したこめかみを親指で力いっぱい押した。
「ウアアア!」
頭に激痛が走り、光一は唸り声を上げる。
「光一君、君がランクAだろうが、捜査官殺しだろうが関係ない。僕らに歯向かう者は抹殺する。明日はせいぜい大人しくしておきたまえ」
しゃがんで光一の耳元でささやいた菅原は、佐山と共に悠々とその場から立ち去った。
――クソっ! 体が動かねえ。頭もイテえ。今までで1番最低の昼休みだ!
光一は心の中で悪態をついた。
倒れた彼の周りに集まってきた受刑者たちが何かを話しかけたり、顔の前で手を振ったりする様子をおぼろげに見つめながら、光一は気を失った――。
強盗事件発生現場である、みそら銀行東府中支店では険悪な空気が充満していた。先に通報を受けて駆けつけた府中警察署刑事課の刑事たちと、警視庁から要請を受けて出動した取締局の捜査官たちの間でにらみ合いが生じていた。
「さっさとオタクらの鑑識どけろって! うちの鑑識が入れねーだろーが!」
「PSIの犯行と決まったわけじゃないんだ! 俺たちの仕事が終わるまで待ってるんだな。PSIの犯行と確定したらどけてやるよ」
「そんなことやってられっか! 初動捜査が遅れちまうだろーがっ! 責任者出せコラ!」
双方一歩も譲らず拮抗状態が続き、罵り合う声が高まる中、美和と翔子は少し遅れて現場に到着した。
「まるで子供のケンカね」
警察と取締局のやり取りを見て、美和が呆れた声で言った。
「翔子・ファリントン2等捜査官です。私たちは警視庁の出動要請を受けてきました。よって現場の指揮権は取締局にあります。現状保存して速やかに撤収してください」
「おいおいおい、PSI取締局の捜査官ってのは子供でも務まるのか? 刑事ごっこがしたいなら、学校のお友達とやってくれ」
警察の捜査員たちに呼びかけた翔子に対して、1人の刑事が笑いながら揶揄した。それに反応してまわりの刑事たちもあからさまに嘲笑した。
翔子は冷静さを保ったまま、顔色を変えずに話しを続ける。
「先ほど『PSIの犯行と決まったわけではない』という言葉を聞きましたが、裏を返せば人間の犯行と決まったわけでもありませんよね?」
「犯行グループのうち2人が拳銃を発砲したと銀行員が証言してる。PSIが拳銃使うかあ? ああん? ホシは人間なんだよ!」
刑事は頑として捜査権を譲ろうとはしない。
「銃弾は出ましたか?」
「そ、それは……」
一貫して強気の姿勢を見せていた刑事が初めて口ごもった。
「先日発生した帝都銀行強盗事件では、PSIがモデルガンを拳銃に見せかけ、PKを使用しました。人間の犯行に見せかけて捜査をかく乱するのが目的と思われます。ここで取締局と警察が縄張り争いをしていること自体が、すでに犯人の思惑にはまっているんですよ。事件を解決したいという気持ちがあるのなら、速やかに撤収してください!」
「くっ。好きにしろっ。おい、現状保存のまま撤収だ。」
刑事が大きな声をかけると府中警察署の鑑識は作業を中止し、捜査員とともに撤収を始めた。刑事は悔しそうに翔子をにらみつけると、何も言わずに現場を立ち去った。
「よーし。じゃあ鑑識さん、お願いします」
美和の声で取締局の鑑識が作業を開始する。取締局の捜査官たちも銀行員から事件の話を聞き始めた。
現場検証が始まった店内に、良子が2名のエージェントを連れて駆けつけた。エージェントのうち1人は良子とコンビを組む小松亮二、22歳である。もう1人は、美和と10年間コンビを組むベテランエージェントの柏木麗華29歳。
「高月さ~ん、大田区の廃工場、ダメでした~」
「良子、おつかれ。まあ、情報自体が少ないから、1つずつ潰していくしかないわね」
「ですね~」
良子は残念そうな表情を浮かべながら頷いた。
大田区の住民から「最近見かけない男たちが廃工場でたむろしている」という情報を受けて良子たちは出向いたものの、廃工場に集まっていたのは帝都銀行強盗事件とは一切無関係の若者たちだった。
「帝銀を襲ったグループと同一犯でしょうか?」
「まだはっきりしたことは言えないけれど、モデルガンを使用して人間の犯行に見せかけているところは共通しているわね」
麗華の質問に美和が答えた直後、鑑識班の1人が大きな声をあげた。
「PK粒子反応、出ましたっ! ランクB以上です!」
「班長、帝銀の被疑者もランクB以上でしたよね? 絶対同一犯ですよ!」
鑑識の報告を聞いた亮二が意気込んで美和に話しかけ、同意を求めるような視線を送る。
「ん~、そうね。PKのランクも同じ可能性が高いし、犯行にも共通点があるしね」
「高月さん、行員の話だとやはり拳銃の発砲音はしなかったそうです。1人が照明を破壊してもう1人がガラスを破壊したようですね」
銀行員に話を聞いていた翔子が戻ってきて報告する。
「ファリントン2等も帝銀と同一犯だと思います? リョウ君が、同一犯説めっちゃ推してくるんですよ。そう言う私も同一犯説に1票投じておりますが」
「状況から見れば同一犯の可能性はかなり高いと思います」
「ですよね~」
期待通りの回答を聞き、良子は「うん、うん」と何度も頷いた。
「しかし、私は同一犯ではないと思います!」
「えっ? えええっ!」
「帝銀を襲った犯行グループは最初から100万円を要求しました。銀行に押し入ってから逃走するまでの犯行の時間は約2分足らずでした。対して今回は現金でなく金庫へ案内することを要求しています。行員が金庫は存在しないことを伝えると、今度は1億円を要求しています。結局被害額は今回も100万円でしたが、前者と後者では犯行内容が明らかに違います」
「帝銀でうまくいったから、欲が出たってことはないですか?」
話を聞いていた亮二が意見を述べる。
「その考えには無理があります。帝銀の犯行グループは要求金額や犯行時間から推測すると、非常に計画的かつ知能的な印象を受けます。対して、みそら銀行を襲ったグループは無知で無謀、無計画の3拍子そろった行き当たりばったりの犯行です。この対照的な2件の犯行を同一犯と考えるのは、あまりにも不自然に感じます!」
「なるほど。確かにファリントン捜査官の言うとおりかもしれません。帝銀事件の模倣犯という可能性もありますね」
話を聞いていた麗華が翔子の推理に賛同した。
「さっすがー! PSI取締局史上、最年少&最速事件解決記録保持者の見立ては違うわねー」
美和はおどけて翔子を肘でつっついた。
「い、いえ。それは関係ありませんから……」
「わ、私もっ! 私だって犯人は別だと考えてましたよ。高月さ~ん」
「何言ってるんすか、西村補佐官。さっき同一犯説に1票投じたじゃないっすか」
「リョウ君、その1票は無効票となりました!」
「意味わかんねっす!」
良子と亮二のやり取りがおかしくて、翔子は笑い出す。普段あまり笑わない麗華もこのときだけは笑顔を見せる。良子と亮二は高月班のムードメーカー的存在である。
「はいはい、漫才はそこまで。さあ、防犯カメラの確認をして――」
「高月! あとは俺が指揮をとる! 2班は3班のサポートに入ってくれ。まずは外に集まってる野次馬の整理を頼む」
美和の話を遮ったのは2班班長の松尾トオルだった。髪をオールバックに固め、ブランドの高級スーツに身を包むトオルは、彼女たちを細い目で見下しながら足早に通り過ぎていった。
「ちょ、ちょっと松尾2等、待っ――」
「良子! いいの」
「そんな、だって先に来たのは高月さんだし、現場をまとめてたのだって……」
良子は不服そうに意見を主張した。
「……ゴメンね」
「なんで班長が謝るんすか? むしろトールバックが謝れって感じっすよ」
「プハハハ! 何それトールバックって? リョウ君、うける」
「トオルとオールバックをかけてみたっス!」
亮二のなぜか自信ありげな発言に、再び翔子と麗華は笑い出した。
「さあ、警備につきましょ。私と麗華は裏の駐車場、良子たちは表をお願い」
「了解です!」
快活に返事をした良子は、亮二と翔子の3人で外に出た。3人を待ち構えていたのは、野次馬の群集と押し寄せるマスコミ関係者たちだった。立ち入り禁止テープを破りそうな勢いで撮影しているカメラマンを亮二が押し戻す。
「すんません! マスコミの方はもっと下がってください。それから一般の方は立ち止まらないでください。通行人の邪魔になるっス。ご協力ください」
押し寄せるマスコミを亮二が体で抑えながら大声を上げる。
「すみません捜査官! 毎朝新聞の倉田です。今回の犯行グループは、帝銀を襲ったグループと同一犯なんですか?」
「捜査中ですので、事件に関する質問はお答えできかねます!」
マスコミからの質問攻めに、良子は同じ回答を繰り返している。
野次馬に呼びかけをして移動を促していた翔子は、ふと視線を感じた。野次馬の後ろのほうで、キャップを深くかぶった背の高い男が翔子を見つめていた。目が合った瞬間、男はかすかに笑うときびすを返し早足で歩き始めた。
「小松さん! 私を飛ばして! 歩道に出してください!」
「えええっ!? な、何言ってるんスか捜査官。意味不明っスよ」
翔子の唐突な依頼に亮二は動揺した。
「小松さんのPKで、私を野次馬の外側に飛ばしてください!」
「そんな! 無茶っスよ。俺がコントロール悪いの知ってるじゃないですか!」
「いいから、早くっ!」
「わ、分かったっス! 着地、注意してくださいよっ。せーのっ」
亮二は掛け声に合わせてPKを発動させ、翔子を宙に持ち上げると意識を集中させ、群集から離れた位置に放り投げた。人々の頭上を飛び越え、およそ3メートルの高さから見事に着地を決めた翔子に歓声と拍手が贈られる。
翔子を見つめていた男はすでに歩道橋を渡り終え、向かいの通りを歩いている。
「あ、ファリントン2等、どこ行くんですか~?」
良子の問いかけに答える間もなく、翔子は勢いよく走り出した。歩道橋の階段を一気に駆け上がる。翔子が歩道橋を駆け下りたところで、10メールほど先を歩く男は左の路地に入っていった。翔子は男が左折した路地まで来ると足を止め、呼吸を整えた。建物の壁越しに奥の様子をうかがう。男が2つ目の細い通りを右に曲がるのが見えた。翔子は早足で尾行を再開した。男は翔子に気づく様子もなく、周りの店舗を見回しながらゆっくりと先に進んでいく。翔子も一定の距離を保ちながら、男とその周囲にも気をめぐらせて歩き続ける。いつの間にか人通りは全くなくなり、閑散とした薄暗い路地裏を進んでいた。
急に男が立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「やあ、捜査官。やっと2人きりになれたね」
無邪気な笑顔を向けてくる男に対して、翔子は身構えた。
「PSI取締局です! 両手を頭上に組んで後ろを向いてください」
「いきなりごあいさつだね。僕がそんなに怖い人に見えるの? ちょっと心外だなあ」
「事件の捜査中です! あなたを職務質問します。指示に従ってください」
男は翔子の言うとおり、素直に指示に従った。
男の首にPSI制御装置は見当たらない。翔子はファインダーを起動させてPSI探知を試みたが、男から反応は無かった。
「ファインダーの探知結果は白でしょ? もうそんなに警戒する必要ないよね?」
「振り向かないで! そのまま動かないでください!」
笑顔で話しかけてくる男を翔子はけん制した。
制御装置も装着していない。そして、ファインダーの探知にもかからない。それは完全にこの男がPSIではないことを示している。しかし翔子は腑に落ちなかった。人間であればPSI取締局から職務質問を受ければ誰しも動揺する。しかし、この男は一貫して余裕の態度を見せている。ましてや、最初から翔子を捜査官と名指しした上、自らの意思でこの場所へ誘導したかのような発言をした。
翔子の考察は、この男がPSIであることを証明するのには不十分なものであったが、彼女は自分を信じて行動した。
警棒を抜いてその先端を男の後頭部にそっと当てる。
PSIは警棒に触れただけでも、大抵の者が不快な表情を見せる。そして、ランクB以下のPSIの能力を完全に停止させるのである。
翔子は後方から男の様子をうかがったが、特に変化は見当たらなかった。
「このままの姿勢で質問に答えてください」
「あ、僕が警棒に触れても変化が無いから、ランクAじゃないかって疑ってんでしょ?ランクAなんて滅多にいないよ。絶滅危惧種だよ。もっと人を信用しようよ」
「あなたが本当に人なら信用しますよ。あなたの氏名、年齢、職業を教えてください」
翔子は彼の頚椎に警棒を当てたまま言った。
「僕はプロデューサーだよ。色々な物語とかエンターテイメントをプロデュースするのさ」
「勤め先、テレビ局はどこですか? あと、氏名、年齢も答えてください」
「違う……。捜査官は分かってないね」
男はゆっくりと首を横に振った。
「動かないで! 質問に答えなさい!」
「僕は22歳、プロデューサーだよ」
「それは分かりました。身分証は? 名前を確認して照合します」
「後ろのポケットの財布の中だよ」
翔子は左手で財布を取り出すと、器用にIDカードを引っ張り出した。ヴァーチャルパッドを開き、個人ナンバーの照合を開始する。
「あのとき、みそら銀行の前で何をしていたの? 私と目が合ったあと、逃げ出したでしょ」
「僕は捜査官を見ていたのさ。君をプロデュースしたくてね」
「ふざけないで! ちゃんと質問に答えなさい!」
翔子が声を荒げたそのときだった。ピーッという警告音と共に『該当者なし』という照合結果が表示された。
「ありゃ、もうバレちゃった? 最近のウォッチPCはハイスペックだね」
「あとの話は取締局で聞きます」
翔子はPSI制御装置を装着しようと、男の首に手を伸ばした。
「僕からは自由を奪い、日村光一には自由を与えるんだね」
男の柔らかで静かな口調の中に、恐ろしいほどの憎悪を感じ、翔子の手の動きが止まった。
「あなた、一体……」
「彼もきっと嘘をつく。僕と同じようにね。そのとき翔子、君はどうする?」
男はゆっくりと振り向き、翔子を見つめた。翔子は男の瞳を思わず見入った。
突如、彼の足元から強風が吹き上げ、翔子は両腕で顔を覆った。台風のような風圧は体を支えることも困難で、翔子は飛ばされそうになりながらも必死で近くの電灯にしがみついた。強風が治まってから翔子が目を開けると、男の姿は消えていた。
――日村光一が嘘をつく? あの男と同じ?
翔子はさっきまで男が立っていた場所をジッと見据えた。
彼の瞳は不思議な力を持っていた。人を一瞬で虜にするような、吸い込んでしまうような。しかしそれは、日村光一のものとは明らかに違っていた。翔子はその違いを表現する言葉が見つからず、もどかしげな表情を浮かべた。
最後に問いかけた彼の目は寂しげで、どこか悲しそうだった。まるで、許されないこと、拒絶されることに怯えているように見えた。
――そのとき、私は……。
翔子は、謎の男に投げかけられた問いに戸惑った。日村光一がつく嘘が気になったのではない。答えの出せない自分に困惑したのだ。何が正解なのか、どうすれば正しいあり方なのか判断できず、漠然とした問題に思考が停止した。
路地裏に少し強い春風が吹きぬけ、立ちつくす翔子の長い黒髪をなびかせた――。
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