第2話 8年前の真実

 PSI取締局に入局してから初めての休日を迎え、翔子は頭を抱えていた。ゆっくり寝ているつもりが、いつもの癖で早朝に目が覚めてしまったのだ。2度寝を決め込もうと布団の中でジッとしていたが、目が冴えて眠れずに結局そのまま起床した。朝食後、普段できない掃除を念入りに大々的に実施してみたものの、何せ寮のワンルーム、1時間足らずで事足りてしまった。学生時代は暇さえあれば勉強や研究に取り組んでいた。社会人になってからはそれが仕事に変わった。趣味を持たず遊びを全くしない翔子にとっての休日は、時間の浪費に過ぎなかった。ただ無目的に経過する時間を過ごすことに我慢できなくなった翔子はバーチャルパッドを開き、何度も目を通した日村光一に関する資料を再度読み直した。翔子は気になっていることがあった。当時の報告書にはこう記されていた。

 光一の妹、日村澄香15歳が午後3時半に高校から帰宅。1時間後に捜査員が捕獲作戦を実行。午後5時半、仕事から帰宅した日村光一が捜査員に抵抗して4名を殺害。捜査員からの要請を受けて出動した対PSI特殊部隊が2人を制圧した際、妹の澄香が死亡。光一の抵抗により隊員3名が負傷。

――捕縛作戦が雑すぎる。日村光一が帰宅する時間帯を把握していないなんて……。それに捜査員が突入してから1時間の空白がある。日村澄香の抵抗に遭ったとあるけれど、彼女はランクCのESPで能力は透視。捜査官2名とエージェント2名を相手にできる力なんて無いはずなのに……。特殊部隊の到着だって早すぎる。まるで初めから事態を想定して準備していたみたい……。

 翔子はバーチャルパッドを怖い顔でにらみつけ、両手で頭を抱え「ウーン」と唸りながらカーペットの上にゴロリと寝転んだ。気になることは、自分が納得のいくまで調べないと治まらない性格である。昨日よりはマシになったものの、動くたびに腰はチクチクと刺すような痛みを感じる。日村光一の取締局員殺傷事件には違和感があり、モヤモヤして心はすっきりしない。心も体も思うようにならない彼女はイライラだけが募っていた。

 翔子は体を起こすと、ジッとしていることに耐え切れず、PSI取締局警備課に電話をかけた。当時、現場に出動した特殊部隊員に話を聞こうと試みたが、訓練中という理由で取り次いでもらえなかった。

――待っていても仕方ないし、とりあえず日村光一と妹が住んでいたところに行ってみようかな。

 ヘアゴムで長い黒髪を1本に束ねると、翔子は自室を飛び出していった。


 車を15分ほど走らせると日村光一の住んでいた住宅街に入った。2階建てのアパートやテラスハウスといった賃貸物件が比較的多く立ち並んでいる。設定した目的地に到着し、停車した車から降りた翔子は、今では空き地となった日村家住宅跡を見つめた。空き地の周囲には、建売らしい似通った外観の一戸建てが集まっていた。しかし、住人の気配は全く無い。翔子は、空き地の周りの住宅とは明らかに外観の異なる、『近藤』と年季の入った表札を掲げる家のチャイムを鳴らした。

「はい、どちら様ですか?」

「PSI取締局捜査官、翔子・ファリントンと申します。以前ご近所にいらした日村さんご家族のことでお話をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」

「あ、はい」

 奥からバタバタと足音がして、扉を開いた住人は40代半ばの女性だった。家の中に招かれ、翔子はリビングのテーブルの席に腰を下ろした。女性は手際よくお茶を用意してから、翔子と向かい合って座った。

「近藤さん、失礼ですが、お名前と年齢、家族構成を教えてください」

「はい、近藤麻美です。46歳です。家族は主人と娘が2人、上の子が22歳で大学4年生、下の子が17歳で高校3年生です」

 麻美は嫌な顔をせずに快く回答してくれた。

「近所に住まわれていた日村さんご家族とお付き合いは?」

「親しくしておりました。真美が、上の娘が日村さんの娘さん、香澄ちゃんの2つ下で、中学校が一緒でした。香澄ちゃんもお兄さんの光一君も、よくうちの子と遊んでくれていましたから。光一君はすごく頭が良くて、勉強も見てもらったりしていました。礼子さんもご主人の栄一さんも気さくな方で、よく一緒にバーベキューもしていました。」

 懐かしそうに語る麻美の表情はどこか悲しげである。

「光一さんと香澄さんに変わった様子は見られませんでしたか? あるいはESPの使用を思わせる出来事は?」

「とんでもない! まったくありません。2人とも普通の子、いえ、それ以上に優しくて本当に良い兄妹でした。今でも信じられません。香澄ちゃんと光一君がPSIだったなんて……」

 一瞬だけ声を荒げた麻美は言葉に詰まり、黙ってしまった。

「日村さん夫妻は10年前に交通事故で亡くなられていますよね? その後の光一さんと香澄さんの様子は?」

「あれは、本当にかわいそうでした。親を一気に2人とも亡くしたのですから……。香澄ちゃんはずいぶん長い間、泣いていました。でも光一君がすごく頑張って。高校卒業してすぐに就職して、家事もこなしながら働いて、そんなお兄さんを見て香澄ちゃんも勇気付けられたのだと思います。香澄ちゃんにも笑顔が戻ってきて、中学3年生のときには部活の朝練習に参加するため、真美と一緒に早くから登校していましたよ。2人ともソフトテニス部に入っていましたから」

「光一さんが逮捕された日のことで、麻美さんが記憶していることをお話してください」

「……」

 翔子の言葉を聞いた途端、彼女は体をビクッと震わせ、テーブルに視線を落として沈黙した。顔色は青ざめ、唇がかすかに震えていた。

「麻美さん、大丈夫ですか?」

 翔子は心配そうに顔を覗き込んだ。ギュと口をつぐんだ麻美が、声を発するまでには少しだけ時間がかかった。

「身分を偽り人間社会で生活するPSIの少女、その子に乱暴する捜査官、悪人はどちらだと思いますか?」

「!?」

 彼女の想定外の発言に驚嘆した翔子は声が出なかった。顔を上げた麻美は翔子と視線を合わせ、懸命に訴えかけるように話を続けた。

「あの日、私は見たんです! スーパーで買い物をした帰りでした。上の方から大きな音がしてそちらを見ると、日村さんの家の2階の部屋で、制服のYシャツをはだけた香澄ちゃんが窓を叩いて『助けて!』と叫んでいたんです。香澄ちゃんは男に手で口をふさがれ、すぐに窓のそばから引き離されて……。それで私、走りました。でも玄関の前に2人の捜査官がいて、私が見たことを話しても全く相手にしてもらえなくって……。私が警察を呼ぶと言ったら拳銃を突きつけられました。『犯人幇助、蔵匿の容疑でお前ら家族も逮捕してやろうか?』って」

「そ、そんなことが……。信じられません」

 驚愕の真実を突きつけられた翔子は唖然とした。

「私は逃げたんです。自分と自分の家族かわいさに、香澄ちゃんを見殺しにしました。香澄ちゃんはPSI取締法違反の犯罪者なのだから仕方ないって、心の中で言い訳をして……」

「あの、光一さんは? 帰宅した光一さんは見ませんでしたか?」

「私が光一君を見たのは、彼が捜査官の人たちに押さえつけられているときです。もうそのときには、騒ぎを聞きつけた人たちで日村さんの家の周りが野次馬だらけで、私も家から出てその様子を見ました。庭に香澄ちゃんが倒れていて、光一君が暴れながら叫んでいて……。今でもあの光景が目から離れません」

 麻美は話しながら涙を流していた。話し終えた彼女は両手で顔を覆うと声を上げて泣き崩れた。翔子は麻美の背中を優しくさすり、彼女が落ち着くまでただ静かに待っていた。泣き止んでから何度も頭を下げる麻美の肩を翔子は抱きしめた。そして、真正面に向き合い、取締局の不手際を深く謝罪した。帰り際に玄関の外に出て翔子を見送る麻美の表情は、つらそうではあったが、どこか穏やかに見える部分もあった。翔子はもう一度、深く頭を下げると車に乗り込み、日村光一が暮らした町をあとにした――。


 午前11時。東京湾PSI刑務所は、土曜日の休日で工場での作業もなく、受刑者たちは各々が自由な時間を過ごしていた。部屋でテレビを見る者、囲碁や将棋を楽しむ者、読書にいそしむ者など人様々である。午前11時から昼12時までは運動時間としてグラウンドや体育館も開放され、スポーツやトレーニングを楽しむ受刑者も多かった。

 この日はめずらしく光一もグラウンドに出ていた。といっても、野球に参加するでもなく、ジョギングをするでもなく、ただベンチに腰掛けていびきをかいていた。

「く~、フゴ~」

 日なたで気持ち良さそうに爆睡する光一を見て、1人の受刑者が笑いながら隣に腰掛けた。

「めずらしいですねえ。旦那が外に出てくるなんて。何か心境の変化でもありました?」

「んっ、う~ん。ふあ~。お、今日は全身丸出しで登場か。相変わらずダサいメガネかけてんのな」

 光一はあくびをしながら両手を上に伸ばすと、気の無い返答をする。昨夜の夕食時間に光一の独房にやってきた男、インビジブルは小さな体を揺すりながら笑い始めた。

「ハハハハ。相変わらずの調子で。旦那が『顔を見せない奴と話す気にはならない』っておっしゃったもんで、今日はありのままのオイラを見てもらおうと思いましてね。これでゆっくり話もできるってもんでしょう?」

「そんなに好かれてるとは思わなかったぜ」

 光一は答えながら、しかし相手と目を合わせることはせずに、すぐそばで行われている野球の試合に目を向けた。光一は用心していた。PSIの内、ESPの能力者は目を合わせることでその力を発動させる者も多い。インビジブルがトランスペアレンシーと呼ばれる透明化能力者であることは確認していたが、自分のように複数の能力を持っていないとは限らないからである。

「旦那はたしか、懲役120年でしたっけ?」

 インビジブルも光一の方を向かずに前を見たまま話を続ける。

「絶対的終身刑。前いたとこで囚人3人殴って刑が重くなった。って言っても実質変わんねーけどな」

「オイラは懲役50年ス。出るころには80の爺ちゃんですよ。もともと北関東州のカゴに住んでたんですけどね、17のとき抜け出したんですよ。で、泥棒家業で生計立てながら東京州まで流れてきましてね。それでこの有様っスよ。ハハハ」

 インビジブルは身の上を語り、苦笑いした。

 自由が束縛されている状態を意味する『籠の鳥』。生きていくうえで人間とは異なる制限を受けるPSIたちは、特別区のことをカゴと呼んでいた。

「出所まで我慢できずに、明日の虐殺に参加しますってか?」

「旦那は我慢できるんスか? 同じ罪でも人間よりオイラたちの方が刑が重い! 一生カゴの中で監視され、制限を受けて送る生活。そんな人生受け入れられるんスか?」

 感情が高ぶったインビジブルの大きな声に、サードの守備をしていた受刑者が振り向いた。インビジブルは気まずそうに笑いながら頭を下げてごまかした。

「あんたも知ってるだろうが、俺は人間社会で生活してきた。だからって訳じゃないが、人間自体を憎む気持ちは無い。妹は、人間とそいつらの犬になったPSIに殺された。もちろんPSIも憎んじゃいない。でもな、俺は神様みたいに寛容な愛は持ち合わせちゃあいない。消化不良のどうにもならない感情を抱きながら、独房の天井のシミ数えて心を落ち着かせる毎日さ」

「だったら! オイラの気持ちだって分かってくれるだろ! やるしかないんスよ!」

 語気を強めるインビジブルの方に光一は顔を向けた。しっかりと目を合わせた彼の行為にインビジブルは驚いた。光一がずっと警戒して、視線をそらしていることを理解していたからである。

「なあ、インビジブル。お前の言っていることは正しいのかも知れない。でもやろうとしていることは絶対に間違っている! 明日、看守たちを皆殺しにしたって、世界は変わらないぞ! お前だって分かってるはずだ」

 これまでとはガラリと様子が変わり、真剣に真っ直ぐな視線で熱く語りかける光一に、インビジブルは圧倒されていた。

「旦那は、俺の思ってたとおりの人だった。あんた、いい人だよ。敵になるかも知れない相手のこと心配して……」

 インビジブルは涙ぐんでいた。17歳でPSI特別区を脱走し、ずっと1人で生きてきた彼を心配してくれる者は誰一人としていなかった。ケースバイケース、ギブアンドテイクという形でしか人と付き合ってこなかったインビジブルにとって、光一の言葉は温かかった。

「インビジブル、お前に人殺しは出来ない! 絶対に出来ない!」

「旦那、すんません。オイラ、旦那と話せて良かったっス。ありがとうございました。本当に……」

 インビジブルは礼を言いながら立ち上がると、涙目をこすりながら言葉を詰まらせた。そして頭を下げて背を向けると、走って去っていった。

「バカヤローが。クソ、めんどくせーな」

 インビジブルの背中に向かって小声で罵倒を浴びせつつ、光一は眉間にシワをよせ、悩ましい顔でボサボサに伸びた髪をかきむしった。


 寮の自室に帰宅して、スーツに着替えた翔子が取締局の捜査課課長室に飛び込んできたのは昼前のことだった。ノックもせずにすごい勢いで走りこんできた翔子は、息を切らしながら捜査課課長の袴田紀夫に詰め寄った。急な出来事にびっくりした袴田は椅子の背もたれにグッと寄りかかってのけ反り、思わず倒れてしまいそうになった。

「8年前に実行された日村光一および日村香澄の捕縛作戦についてお尋ねしたいことがあります!」

「な、なんだねファリントン君! ノックもせずにいきなり。か、顔が近いよ。もう少し離れなさいよ君」

 紀夫はいかにも不愉快そうな声で翔子を注意する。

「身分詐称して人間社会で生活していた日村兄妹の捕縛作戦において、捜査官2名とエージェント2名が死亡した事件ですが――」

「ちょ、ちょっと待ちなさい君! 8年前に解決した事件でしょ、それ。何を今さら――」

「近隣住人の証言により、日村香澄の逮捕時に違法行為があったことが発覚しました! 香澄は捜査官に暴行を受けています。よって、光一の殺人は過剰防衛によるものであり、刑の軽減、免除が適用されます!」

 早口ではあるが、はっきりとした口調で強く訴える翔子に対して袴田は首を横に振った。

「証言した近隣住人て、そのPSI兄妹と仲良くしていた家族でしょう? そんなの信用しろって言うの君。しかもこっちは身内殺されてんだよお。話にならんね。君はいつからPSIの味方になったんだね?」

「だ・か・らー! その殺人は妹の香澄を守るための過剰防衛だったって言ってんでしょうが! 話にならないのは、あなたの方よ!」

「こ、こら! ファリントン君、上司に向かってなんだねその口のきき方は! お、おい、待ちなさい」

 啖呵をきった翔子は身をひるがえし、課長室の扉を力いっぱい叩きつけるようにして閉めると、袴田の言葉を無視して走り出した。捜査課を出てエレベーターに向かう途中で良子とすれ違い、彼女に声をかけられたが片手を挙げてあいさつし、翔子は立ち止まらなかった。エレベーターに乗り込み最上階である15階へ向かう。エレベーターの扉が開くと翔子は再び走り出した。

「おい、君、止まりなさい!」

 奥の部屋の前に立つ警備課所属の警備士2人に制しされ、翔子は立ち止まった。

「翔子・ファリントン2等捜査官です。緊急で局長にお話があります!」

「そういうことは、上司を通して許可をもらってからにしてください。局員ならあなたも知ってるでしょう」

「んー、もう! 緊急だって言ってるでしょうがー!」

 翔子は局長室に向かって早足で歩き始めた。すかさず2人の警備士は彼女の手首を強く握り締めて動きを制止した。が、その瞬間に翔子は手を回転させて相手の手首を巻き込むようにして関節を極め、2人の男を足元に押さえ込んだ。

「イタタタタタ!」

 床に倒れて苦痛の声を上げる男達を踏み越えて、翔子は局長室の扉を開いた。

「失礼します。翔子・ファリントン2等捜査官です。緊急にお伝えしたいことがありまいりました」

「おう、翔子ちゃんじゃないか。相変わらず強いねえ。合気道、今も続けてるの? 私の護衛官も鍛え直してやってくれよ。はっはっはっは」

 PSI取締局局長、藤原正臣は椅子に腰掛けたまま豪快に笑った。手首を痛そうにさすりながら入ってきた警備士が局長に頭を下げる。

 正臣は翔子の父親、ウィリアム・ファリントンとアカデミーの同期である。翔子が小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしているが、ウィリアムがPSI取締連邦捜査局に赴任してからは会う機会もめっきり減っていった。翔子が正臣と最後に会ったのは、高校の卒業祝いにパーティーを開いてもらった13歳のときである。

「局長、8年前の事件で捜査官の違法行為が発覚いたしました!」

「君たち、ちょっと席を外してくれたまえ」

 正臣の和やかな表情は一変し、緊迫した声で警備士に指示を出した。2人の警備士が敬礼して退室すると、正臣は机の上で手を組み合わせ、翔子と目を合わせた。

「8年前に日村香澄15歳、高校1年生の捕縛作戦が実行されました。被疑者に対して捜査官の暴行があったと、近隣住民が証言しました。捜査官2名とエージェント2名を殺害した兄の日村光一は、過剰防衛で減刑の対象となります!」

「そうか……。翔子ちゃんはこのことを公表し、日村光一の裁判をやり直してほしいと、そういうことかな?」

「もちろんです!」

 翔子は机に両手をつくと、正臣に顔を近づけて力強く頷いた。

 正臣はパソコンの画面をタッチしながら目を細めた。

「日村光一は翔子ちゃんがエージェントにスカウトしている受刑者だね」

「はい、そうです」

「今回8年前の不祥事を公表したとして、救われる者は1人もいない。殉職した捜査官の家族は批難と中傷にさらされ、取締局も責任を追及される。この機に乗じて、PSIの運動家たちも活動を活発化させるだろう。そうなれば、ますますPSIによる犯罪も増加していく」

「そんな、おじ様! 真実を隠せとおっしゃるのですか? 隠蔽しろと! 証言してくれた近藤麻美さんはずっと苦しんでいたんです! 彼女も、不当に裁かれた日村光一も救われます! 大事なのは間違いを訂正して謝罪し、反省することです!」

 翔子は机に両手を強く叩きつけて声を荒げた。正臣の顔をにらみつけるが彼はいっこうに動じる様子はなく、机の上で組んでいた手を離して、翔子の両手の上にそっと重ね合わせた。

「翔子ちゃん、君の言っていることは正しい。だが、正しい行いが全て良い結果をもたらすわけではないことを理解してほしい。私は全国の取締局員の命と人生を預かっている。私たちは組織という名の家族だ。それを危機にさらすような真似は出来ないのだよ」

「おじ様……」

 翔子はそれ以上言葉が出てこなかった。尊敬し信頼していた正臣から裏切られるような形となり、そして自分の無力さを痛感し、彼女は唇をキュッと噛み締めた。

「翔子ちゃん、それに日村光一はエージェントにスカウトするのだろう? ならば、彼は救われるじゃないか。明日の予定だろ? さあ、今日は帰って早く休みなさい」

 正臣は立ち上がると、翔子の背中を優しくさすり、扉の近くまで寄り添って歩いた。

「失礼いたしました」

 翔子は正臣と向かい合い、力の無い敬礼をして退室した。

「広告代理店の殺人事件、解決おめでとう! 翔子ちゃん、被疑者逮捕お手柄だったね。今度うちでお祝いしよう」

 わざとらしく明るい声をかける正臣に、振り返って一礼した翔子は重い足取りで来た道を引き返していった。

 正臣は、エレベーターに乗る翔子の後姿を見届けると、急いで机に戻り電話をかけた。

「ああ、私だ。翔子・ファリントンをマークしておいてくれ。少々、ほころびが生じた。彼女の動向を随時報告してくれたまえ」

 低く静かな声で話し終え、受話器を戻した正臣は深いため息をついた――。


 翔子は捜査課のフロアに戻ったところで良子につかまり、食堂でランチに付き合わされるはめとなった。取締局の不祥事とその隠蔽に直面した翔子は正直食事どころではなく、ご飯と味噌汁に焼きシャケといった簡素なメニューを注文した。対して、話し相手も確保してご機嫌で腹ペコな良子は、ラーメンにチャーハン、餃子2人前を注文し、幸せそうにバクバクと平らげていた。

「最近よくCMでやってるフィットネスクラブ、えっと何て名前でしたっけ? あそこに通ってみようかなあって思ってるんですよお。まあ、仕事が忙しいので時間のあるときだけになっちゃいますけど。こう何といいますか、私も捜査官みたいにメリハリのあるボディラインになりたいなあ、なんて……。あのお、ファリントン2等、聞いてます?」

「えっ? あ、はい。えっと、英会話スクールのCMを見て、ボディランゲージではなく、私みたいに英語でコミュニケーションをとれるようになりたいということですね」

「……いや、確かに英語ペラペラなとこも憧れてますけど、色々微妙に間違ってます」

 上の空で話を聞いていた翔子はズレた返答をして、良子を苦笑いさせた。

「ごめんなさい。せっかく食事に誘っていただいたのに……」

「気にしないでください! 食事をしたら気分転換にでもなるかなあと思ったんです。捜査官が、何だかすごく疲れているというか、つらそうというか……そんな風に見えたので。私は捜査で全然お役に立てないから……」

「そんなこと、ありません! 西山さんには十分サポートしていただいていますし、心の支えにもなっていただいています。今だってすごく助かってるんですよ! 1人だと悩んでばっかりで、私の方がダメダメですよ」

 一瞬シュンとなった良子だったが、翔子の言葉を聞くと嬉しそうに微笑んだ。そして彼女は餃子をもう1人前おかわりした後、元気な様子で帝都銀行強盗事件の捜査に戻っていった。

 食堂から勢い良く飛び出していく良子の背中を見送ると翔子は1人になり、再び様々な考えが頭の中をグルグルと巡った。食事にほとんど手をつけずに、翔子1人だけが食堂で時間が止まっているかのようにジッと動かず、箸を持ったまま思考を巡らせていた。

「まあ、めずらしい! 翔子が食堂で食事なんて。これは、なかなか見つからないはずね」

 後ろから声をかけられ、翔子が振り向くと書類を抱えた美和が立っていた。

「あ、高月さん。えっとですね、実はちょっと気になったことがありまして、どうしても局に行かざるを得ない状況になったといいますか……」

 美和の「絶対に来ちゃダメよ」という言いつけを破った翔子は、彼女にとがめられる前に必死になって苦しい言い訳を試みた。

「いいわよ。あなたが寮でジッとしていられるなんて最初から思ってないもの。無茶な動きさえしていなければ構わないわ」

「す、すみません……」

「木村明と両親、素直に自供したわ。当時、明子はPSIである山崎明の子を妊娠して悩んでいたそうよ。それを幼馴染の木村雄二に相談したところ、明子を案じた雄二が『結婚して、生まれてくる子を人間として育てる』そう言ったそうよ。木村明はもう少し時間がいるけど、明子と雄二は明日の午前中に検察へ送るわ」

 翔子と向かい合って座った美和が、取り調べの状況を語って聞かせてくれた。

「そうですか……」

「明子と雄二は、おそらく執行猶予がつくでしょうね。PSI研究所で人間とPSIのハーフの遺伝子が、ファインダーに探知されないことが証明され次第、明も送検できるわ。まったく、前代未聞の事件だったわね」

 少し疲れが見える美和は、調書をめくりながらあきれた様子で話した。

「しかし、ESPならまだしも、PKである明がよく今まで人間社会に馴染んで生活できていましたね。PKの場合、感情の変化に伴い無意識に能力を発動させることが多いはずなのに」

「今まで市販の精神安定剤を服用して、PKの発動を抑制していたそうよ」

「……なぜ、今回に限ってPKを使用したのでしょうか? しかも、2人も殺害しています」

 疑問を投げかける翔子に対して、美和は苦笑いした。

「そりゃ、嫉妬やねたみとか、屈折した愛みたいな? よくある、恋愛のもつれが犯罪に繋がるケースなんじゃない? 翔子には難しいかな。ハハハ」

「うーん……そういうことなんでしょうか……」

 翔子は納得のいかない表情で首をかしげた。

『緊急! 緊急! みそら銀行東府中支店で強盗事件発生。警視庁より出動要請!』

 突然、緊急放送が流れた。それまで和やかだった食堂内が急に慌しくなっていく。次々と捜査官たちが走り出て行く。

「また、強盗!? 帝銀の事件がまだ未解決だってのに、もう!」

 美和が文句を言いながら立ち上がった。ご機嫌を伺うかのように、翔子は彼女を上目遣いで見つめる。

「高月さん」

「ダメって言っても、どうせ来るんでしょ。その代わり、単独行動はナシだからね。いい?」

 美和に釘を刺され、おとなしく頷いた翔子は彼女と共に現場に向かった。美和の車の助手席で、翔子は今起こっている事件に集中するため、必死で日村光一の事件を考えないようにしていた。しかし、8年前の真実を頭の外に追いやろうとすればするほど、取締局に対する疑念は膨らみ彼女の心を締め付けた。

――私は、違う。不祥事を隠蔽した奴らとは。目の前の事件を解決するために、頭を1回クリアにしたいだけなんだ。私には、真実に向き合う覚悟がある!

 顔を上げ、前を真っ直ぐに見つめる翔子の緑色の瞳には強い光が宿っていた――。

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