PSI取締局捜査官

日ノ光

第1話 捜査官と囚人

 男はベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。コンクリートの天井にできた染みを数えるのが、いつのまにか彼の癖になっていた。4月の半ばとはいえ、コンクリートに囲まれた室内は寒いくらいである。空調はコンピューターによって常時衛生的に管理されているが温度は例外であった。暖房が許されているのは11月半ばから3月の半ばまで。

「ウ~、さむっ」

 男は起き上がり肩まで伸びたボサボサの髪をかきむしると、組んだ両腕を手の平でゴシゴシとこすり始めた。

 コツ、コツ、コツ、コツ。

 足音が聞こえる。2人の男が部屋の前に来て鉄格子を挟んで室内の彼と対峙した。

「おう、こりゃ看守長と矯正監2人そろってお出迎えとは、今日は何か特別なイベントでもあんのか?」

「とぼけるな! お前には3日前に伝えてある。666番さっさと出ろ!」

 怒鳴った看守長はロックを解除し、独房から出た男の両手に手錠をかけた。

 矯正監を先頭に3人は歩き始める。分厚い扉のロックを解除し、通路を進んだ先にいくつかの面談室が設置されていた。面談室Aと書かれたプレートの付いているドアをノックし、看守長が扉を開けた。

「失礼いたします。連れてまいりました」

 矯正監が一礼して入室し、椅子に腰掛けている女性に敬礼した。手錠をかけられた男も彼に続いて面談室の中へ。

「こんちわっす!」

「貴様っ、捜査官に向かって何と失礼な!」

 矯正監が拳を振り上げた。

「所長、構いません。それより話を進めてもよろしいですか?」

 椅子に座っている女性が矯正監を制止した。

「はい、失礼いたしました。666番、座れ!」

 矯正監は男の腕を掴んで引っ張っていき、押さえつけるようにして椅子に座らせた。その様子を捜査官と呼ばれた女性は平然と見つめる。女性というより少女という言い回しが的確であろう彼女は、長く伸ばしたストレートの黒髪をポニーテールにしている。細身で一見華奢に見える体格とは裏腹に、美しく整った顔立ちではあるが目は少しキツく、気の強そうな性格を連想させる。透き通るように白い肌と、うすい緑色をした瞳が印象的だ。

「PSI取締局2等捜査官、翔子・ファリントンです。これから、あなたの調書を読み上げます。間違いが無いか確認してください」

「カッコい~。俺もこれから名前と苗字、逆にして名乗ろうかなあ」

 おどける男を完全に無視して、翔子は手元の調書の表紙をめくった。

「東京湾PSI刑務所、受刑者番号666番、日村光一、年齢28歳。身長175センチ、体重69キロ。ランクAのESP。テレパシー、予知、透視能力を有する。PSI取締局捜査官2名とエージェント2名を殺害、対PSI特殊部隊員3名を負傷させて逮捕される。後に南関東州千葉PSI刑務所に収容されるが、所内における暴力行為により3名に重傷を負わせ、東京湾PSI刑務所に移送される。10年前に両親は交通事故で死亡。8年前、妹は捜査官に抵抗して逃亡した際、特殊部隊員による制圧によって死亡。よって家族はなし。ここまで、間違いありませんか?」

「ク~。フゴ~」

 光一は目をつむり、ぽっかりと大きく口を開いたままわざとらしくいびきをかいた。翔子は一瞬眉間にしわを寄せて彼をにらみつけたが、すぐさま調書に目を戻し話し続けた。

「刑罰は絶対的終身刑。服役後、PSI取締局よりこれまでに4回のスカウトを受けるが全て辞退、と……。さて、では本題に入りましょう。あなたをPSI取締局エージェントにスカウトします。これがスカウト許可書、そしてこの2枚がエージェント誓約書と申請書です。誓約書と申請書にサインをしてください」

 翔子はカバンからファイルを取り出し、光一の前に書類を突きつけた。矯正監が胸ポケットから出したボールペンを机の上に置く。光一は2枚の書類をまるで汚れて触れたくないものをつまむかのように持ち上げると、チラッと見比べてすぐに机の上に戻した。

「1つ、質問いいかな?」

「ええ、何でしょう?」

 翔子は腕を組み、身構えるようにして光一をジッと見据えた。

「あんたって、ハーフだよな? 苗字もパーソンだかファーソンだか言ったし――」

「ファリントン! 翔子・ファリントンです! それが何か?」

 今まで冷静さを保っていた翔子が初めて感情をあらわにした。光一をにらみつける両目から怒りがあふれ出ている。そんな彼女の視線にはお構い無しに、光一は「なるほど」といった表情でポンと両手を軽く叩き合わせた。そして翔子と目を合わせ、彼女のうす緑色の瞳を見つめる。突然に真顔になった光一に動揺し、翔子は目をそらそうとするが彼の瞳に吸い込まれるような感覚に陥り固まってしまう。数秒間の出来事だった。光一がニコリと微笑むと翔子の体は自由を取り戻し、彼女は机の上の書類に視線を移して平静を装った。

「遺伝だな」

「は?」

 突拍子の無い発言に翔子は調子はずれな声を上げた。

「あんたの瞳の色。外国人の方の親御さんの遺伝だろ?」

「えっと、この瞳の色は――」

「超能力者と人間の間に産まれた奴って、どんな遺伝があるんだろうな?」

「!?」

 翔子は目を大きく見開き、急に立ち上がった。勢いのあまり椅子が後ろに転がり、矯正監が慌てて元に戻しにいく。

「日村さん、明後日また来ます。それまでによく検討してください。あなたにとって、まともな人生を送れる最後のチャンスだと思いますよ」

 翔子は慌ててバッグを肩にかけると、矯正監に会釈して背を向けた。

「おいおい、ちょっとあんた。明後日はやめといた方がいいぞ。それに俺は――」

 光一が最後まで言い終える前に、翔子は面談室をあとにした。

「ほら、もう終わりだ! さっさと立て」

 矯正監が光一の襟首を掴み強引に立ち上がらせる。入り口のそばに待機していた看守長を先頭に、光一は無機質な独房へ足を引きずるようにして歩いていった――。


 待機していたヘリに乗り込んだ翔子は班長の高月美和に連絡を取った。プロペラが風を切る音のせいで話が聞こえづらい。

「高月さん、聞こえます? すぐに確認してくださいっ! 木村明の両親、どちらかPSIの可能性があります。お願いします! 私は今から局に戻ります」

 電話を切った翔子は深いため息をついた。

――あいつ、私が追っている男のこと見えたのかな? でも、そんなはず無い。制御装置を付けられた状態で能力は使えない。偶然だ。きっとそうだ……。

 徐々に小さくなっていく東京湾PSI刑務所を翔子はヘリの窓からジッと見つめていた。


 PSI取締局に戻った翔子を渋い顔をした美和が出迎えた。

「木村明の父親、母親共に白よ」

「そんな! 状況証拠では木村は限りなく黒です。絶対にPSIのはずです! ファインダーに反応が無かったのは、彼がPSIと人間のハーフでPSI遺伝子が劣性だからです。」

 美和に詰め寄った翔子は必死に訴えた。いつになく興奮状態で早口にまくしたてる翔子の肩を掴み、美和は首を横に振る。

「全てあなたの憶測でしょ。仮に木村がPSIと人間のハーフだったとして、診断結果が陰性となる科学的根拠が無いのよ。物証が無ければ彼を引っ張ることは出来ないわ」

 美和は目を合わせて小さい子をたしなめるように、柔らかな口調ながらキッパリと言った。

「班長っ! 帝都銀行強盗事件の被疑者に動きがありました!」

 捜査課にすごい勢いで走り込んできた石川捜査補佐官が叫んだ。捜査課1班と2班の高月班が慌しく飛び出していく。

「翔子は継続して広告代理店の殺人事件、木村明も含めてもう少し調べてちょうだい。じゃ、また後で!」

 美和は振り返らずに片手を上げると走って捜査課をあとにした。

 1人残された翔子は倒れこむように自分のデスクに突っ伏した。取締局は常に人手不足である。特に刑事事件全般を取り扱う捜査課はその代名詞とも言えよう。1つの班が複数の事件を掛け持ちするのは日常茶飯事であり、休みが無いというのが実情である。

 翔子はパソコンを開いて捜査資料を読み直す。

 株式会社ベストプランニング会社員殺人事件。4月9日、小野田一郎30歳が自宅アパート201号室で死亡しているのを宅配業者が発見。キッチンでうつぶせになった遺体は両腕、頚椎がまるで雑巾を絞ったかのようにねじられていた。死因は脊髄骨折によるショック死。死亡推定時刻は前日の午後10時から深夜1時。翌日10日、山田幸子26歳が自宅近くの公園で死亡しているのをランニング中の男性が発見。仰向けの遺体は小野田一郎の状態と酷似しており、死因も同様に脊髄骨折によるショック死。死亡推定時刻は9日午後11時から深夜2時。2人は恋人関係であったことが会社の同僚の証言で分かっている。被疑者はランクB以上のPKと推測される。PSI特別区におけるランクB以上のPKを検索、事情聴取を行うも全員にアリバイあり。8日、9日の死亡推定時刻に同会社員の木村明30歳が両名と会っている目撃証言が多数あり。さらに、社内で木村明が山田幸子にしつこく言い寄っていた事実あり、小野田一郎とつかみ合いのトラブルを生じさせたことも確認されている。殺害動機と目撃証言から小野田一郎を重要参考人として事情聴取。死亡推定時刻に両名と会っていたことを認めるも殺害の関与を否認。ファインダーによるPSI探知結果が陰性であったため、小野田一郎を捜査対象から疎外する。

――限りなく黒に近い灰色じゃない。ファインダーに引っ掛からなかったのも何かトリックがあるはず……。木村の両親は本当にどちらも人間だったのかな?

 木村明を事情聴取した時の調書を開き、翔子は彼の父親、木村雄二を検索する。区役所住民課のデータベースに捜査官IDでログイン、アクセスして木村雄二のファイルを閲覧する。戸籍謄本、住民票をチェックするが不審な点は見当たらない。さらに調べを進めるが木村雄二には前科も無く、PSIを疑う余地も無かった。翔子は足をバタつかせながらゴシゴシと頭をかきむしった。

――まだよ! 母親が残ってる。

 翔子は木村明の母親、木村明子を検索する。前科の有無を調べるつもりで局のデータベースにアクセスしたところ意外な事実が判明した!

――木村明子って元局員じゃない! 旧姓、野々村明子。警備課所属で配置先はPSI特別第1区。えっと、2986年3月に自主退官してる。

 翔子は再び木村雄二のファイルを見直した。

――結婚が4月で木村明子は翌年の1月に明を出産してる……。早産? いや、これは違う。きっと違う。

 彼女の中に生じた微妙な違和感は徐々に確信に変わりつつあった。

 PSI特別第1区警備本部に連絡を取る。翔子は室長に捜査協力を求め、当時、木村明子と任務に就いていた警備士の所在を確認した。木村明子の後輩に当たる半田聡2等警備士が現在も1区に配置されていることが分かり、翔子は急いで1区に向かった。

 PSI特別第1区は葛飾区と足立区の境界に設置されている。東京州のPSI特別区は合計3つ。第1区に加え、八王子と町田の境界にある第2区と奥多摩の第3区である。居住区を分けてさらに離す事によりPSIの力の分散という意味では十分な効果を発揮している。事実この100年の間に抵抗勢力の表立った実力行使は皆無である。ただしデメリットもあった。それぞれの特別区が州境に面していたため逃亡者が後を立たなかったのである。警備システムが発展を遂げた現在に至っても、年に10名以上の者が逃亡を試みて逮捕、射殺されている。

 PSI特別第1区に到着した翔子は警備本部の来賓ルームで半田聡2等警備士と面談した。半田は背の高い細身の体格で、白髪の多く混じった髪のせいか50代前半にしては老けて見える。彼と翔子はお互いに敬礼すると自己紹介を済ませてソファに腰掛けた。翔子は当時の木村明子について質問をした。半田は昔の記憶をたどりながら、快く回答してくれた。

 「明子さん、いや、野々村2等は本当にいい先輩でした。彼女が私の教育係りでして、色々と親切に教えていただきました。すごく面倒見がいい方で、私以外の後輩警備士にもよく気を配られていました。野々村2等を慕っている後輩警備士は男女問わず多かったですよ。」

「同僚や上司との関係、勤務態度はどうでしたか?」

「もちろん頼りにされていました。仕事ぶりもいたってまじめで、責任感の強い方でしたから。上司からの信頼も厚かったように思います。そういえば1度も有休を使ったことが無いって聞いたことがあります。まあ、噂話なので本当かどうかは……」

 半田は懐かしげに語りながら微笑んだ。

「当時、お付き合いされていた方はいたのでしょうか?」

「いえ、いなかったと思いますよ。野々村2等はお綺麗な方でしたが、プライベートよりも仕事優先って感じでしたから。『仕事が趣味みたいなもんだ』って、ご自分でおっしゃっていましたよ。私も冗談で何度か尋ねたことがあるんですよ。彼氏いないんですか? って。いつも『仕事が彼氏だ』って答えてらしたんですが、確か退官される3ヶ月くらい前だったかなあ。あの時だけ、笑ってごまかすような感じで、『どうかなあ』って言ったんです。もしかするとあの頃、付き合っていた方がいたのかも知れませんね」

「ご結婚されたご主人と、その頃付き合っていたということでしょうか?」

 翔子は身を乗り出して尋ねた。少し驚いた様子の半田は首を横に振った。

「いえ、違うと思います。野々村2等は親戚の薦めでお見合い結婚だったと聞いておりますので……」

 半田に礼を言って来賓ルームを出た翔子は自分の推理をまとめながら車に乗り込み、木村明子が警備担当していた西エリアA区画へ向かった。

「木村明子には人望あり、上司から信頼され、同僚や後輩からは慕われていた。退官3ヶ月前に微妙な変化あり。それまで仕事一筋だった彼女に何かが起こった……」

 自分の考えをまとめる時、ブツブツと小声で独り言を呟くのが彼女の癖である。

 翔子は車を西エリア警備支部の駐車スペースに停め、町を歩いて木村明子について聞き込みを開始する。30年前の彼女についてはっきりと記憶している者はほとんどおらず、聞き込みは難航を極めた。すでに1時間近く歩きっぱなしの上に有力な情報も得られず、心身ともに疲労だけが蓄積されていく。時刻は午後3時を回っており、翔子は腕時計を見て自分がまだ昼食を食べていなかったことを思い出した。

――焦っても結果は出ない。とりあえず、ランチにしよ。

 翔子は公園のベンチに腰を下ろし、バッグからバランス栄養食のゼリー飲料を取り出した。

 公園の砂場や遊具で楽しそうに遊ぶ子供たちの光景が、味気ないランチをマシなものに変えてくれる。翔子は微笑みながらゼリー飲料を口にした。

「子供は元気でいいねえ。かわいいねえ」

 いつの間にか翔子の隣に座っていたお婆さんが独り言をつぶやいた。白髪の頭に帽子をかぶり、小柄な彼女は手提げ袋から水筒を取り出すと、その中身をコップに注いで翔子に差し出した。

「はい、どうぞ。コーヒーは嫌いかしら?」

「いえ、ありがとうございます。いただきます」

 翔子は素直にコップを受け取りコーヒーを飲んだ。少し甘みが強かったが濃い目のミルクとの相性はピッタリで歩き疲れた体が癒された。

「ほら、サンドイッチもあるの。召し上がれ。育ち盛りなんだから、そんなもの食べてちゃダメよ」

「す、すみません。いただきます」

 翔子にとって久しぶりの人間らしい食事であった。4月からPSI取締局捜査官として多忙な日々を送っていた彼女の食事は携帯用の栄養補給食がほとんどである。

「首輪をしていないということは、一般人の学生さんかしら? でも、そうだとしたらこの町には入れないはずよねえ……」

 不思議そうに見つめるお婆さんに、翔子は首を横に振りながら口の中のサンドイッチを急いで飲み込んだ。

「いえ、違うんです。私はPSI取締局捜査官、翔子・ファリントンといいます。ある事件の捜査で聞き込みをしているところなんです」

「あれ、まあ。お嬢ちゃん、私の孫と同じくらいだろうにすごいねえ!」

 お婆さんは目を大きくしてびっくりした様子だった。

「あの、お婆さんは野々村明子という女性を知りませんか? 30年前に西エリアA区画の担当をしていた警備士なのですが……」

 翔子はお婆さんの目の前にバーチャルパッドを開き写真を見せながら尋ねる。

「ん? 明子ちゃんなら、よおく覚えているよ。若いのにしっかり者で、優しくていい子だったねえ」

「知っているんですか!? 詳しく聞かせてください!」

 翔子はお婆さんの両手をギュッと握り締めた。

「話を聞くより、見たほうが早いだろう。あたしはね、自分の見てきたものを人にも見せることが出来るのさ」

「お婆さん、ヴィジョンテレパシーを持っているんですか?」

「横文字は良くわかんないけど、昔は映像伝達とか何とかって言ってたね。この首輪さえどうにかしてくれりゃあ、お嬢ちゃんに明子ちゃんを見せてあげられるよ」

 翔子はうなずき、お婆さんから彼女のIDナンバーを聞くとヴァーチャルパッドで彼女の首に装着されているPSI制御装置にアクセスし、限定解除の作業を行った。

「制御機能をオフにしました。これでお婆さんのビジョンテレパシーは使用可能です。よろしくお願いします」

「あいよ。それじゃお嬢ちゃん、あたしの目をしっかり見ておくれ」

 言われたとおりに翔子はお婆さんとしっかり目を合わせた。彼女の瞳はどことなく日村光一に似ていた。色や形といった外観ではなくESPの能力の根底的な部分、まるで全てを見透かしているような、そして遠い未来を察知しているかのような力を感じさせる瞳をしている。

 PSI刑務所で日村光一に見つめられた時と同じように、お婆さんの瞳に吸い込まれるような感覚に陥っていく。お婆さんの顔が徐々に霞んで見えにくくなり視界が鮮明に戻った瞬間、目の前には木村明子が立っていた。警備士の制服に身を包み、肩にはライフル銃をかけている。彼女は笑顔で話しかけてきたが、その声はとても小さい上に途切れ途切れで内容までは聞きとれない。場所は同じ公園である。

――これがお婆さんの30年前の記憶……。そっか、伝達できるのは映像だけなんだ。

 木村明子はベンチに座っている老人たちにも話しかけている。肩を揉んであげたり、膝をさすってあげたりとずいぶん親しげな様子で、老人たちも終始笑顔を見せていた。子供の投げたボールが木村明子の足元に転がってきた。彼女はそれを拾い上げると子供に手渡し、頭を優しくそっと撫でる。誰かに声をかけられたのであろう、彼女は公園の外に向かって大きく手を振ると笑顔で何か言っている。

――めずらしい人だな……。PSIからも慕われているなんて。それによく笑う。

 フッと視界が切り替わった。

 前方から2人の男女が並んで歩いてくる。制服姿の木村明子と紺色の作業着を身に付けた背の高い男性。2人は楽しそうに会話しながら近付いてくると、こちらに気が付き挨拶した。しばらくの間、会話が続く。声が聞こえないため話の内容は全く分からないが、木村明子と作業着の男性の距離はお互いが触れ合うほど近く、2人が親密であることは十分に推測できた。

――この男の人、制御装置を着けている。やっぱりPSIなんだ。

 再び視界が切り替わった。

 今度の木村明子は笑顔ではなかった。彼女は黒いスーツに身を包み、激しく泣きじゃくっていた。滝のように流れ落ちる涙は止まらず、木村明子は両手で顔を覆うとその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。場所は葬儀会場。祭壇にはたくさんの花が供えられている。遺影は作業着の男性である。1人の女性が木村明子の背中をさすりながら声をかけている。さらにもう1人の女性がそばに来て、木村明子を抱えるようにして彼女を支えながら席まで共に歩いた。席に座ってからも式典の間中、彼女は肩を震わせて泣き続けていた。前半の映像に映し出された快活で朗らかな彼女とは一変し、その後ろ姿は暗く弱々しく今にも消えてしまいそうな小さな炎のようであった。

 葬儀式典の途中でさらに視界が切り替わった。

 6畳間の和室に座っている。急須を手に取りお膳に置かれた湯呑みに熱いお茶を注ぐ。

――ここは……お婆さんの家かな?

 ピンポーン。

 ドアチャイムが鳴った。玄関に向かいドアを開けるとそこには木村明子が立っていた。笑ってはいるが元気が無い。目の下にはクマが出来ている。少しの間、彼女は話をした。目に涙を溜めながら話す彼女はすっかりやつれていた。最後に深々と頭を下げて礼をすると、彼女はニッコリ微笑み帰っていった。

 木村明子の後ろ姿が霞んで見えなくなり、翔子は気が付くと元の公園のベンチにお婆さんと一緒に変わらず座っていた。右手で目をこすり、人差し指と親指で目頭の辺りを軽くおさえる。

「どうだい? 明子ちゃんに会えたかい?」

「は、はい。すごく、はっきりと。彼女は住民から慕われていたようですね」

「そうだねえ。警備士にしてはすごくめずらしかったねえ。私たちを差別しないのさ。それどころか、年寄りなんかにはすごく親切で何かと面倒見ていたね。よく話も聞いてやっていたよ。あの子と話すとみんな元気をもらうのさ。私たちを見張るというより、守ってくれているそんな気がしたねえ」

 お婆さんは嬉しそうに語った。

「親しくしていた男性、えっと作業着を着ていた、あの方は?」

「山崎君さ。自動車修理工場で働いていた山崎明君といって――」

「明っ!? 明って言うんですか?」

 木村明と同じ名前であったことに驚愕した翔子は声を張り上げた。大声にビックリしたお婆さんが体をビクッと震わせる。翔子は恥ずかしそうに謝ると話しの続きを聞いた。

「山崎君が風邪で寝込んだときに、明子ちゃんが介抱してあげたんだ。熱がなかなか下がらなくて5日間も大変だったんだよ。そのあとだね。2人が付き合ったのは」

「付き合った!?」

 翔子はまた大声を上げ、お婆さんを驚かせた。

 予想していたとはいえ、人間とPSIが恋愛関係にあった事実はやはり衝撃的であった。

「私はね、反対だったんだ。幸せそうにしているあの子達見ると、口に出すことは出来なかったけどね。今の日本の法律で禁じられている以上、あの子達に未来は無いからね……。でもね、法律以上に運命は残酷だった。工場で事故があってね、山崎君が亡くなったんだ。明子ちゃんが可哀想で、見てられなかったよ。明子ちゃんを1人残して、ホントに不憫だったよ」

「1人ではなく、2人ではないですか? 山崎明さんが亡くなり、残されたのは2人。野々村明子警備士とお腹の中の子供……」

 翔子は低い声でゆっくりとした口調で尋ねた。お婆さんの目をジッと見つめる。

「はあ……。何でなんだろうねえ。お嬢ちゃんが捜査に来たって聞いたときからあたしは分かっていたよ。明子ちゃんと山崎君の子供のことだって。神様はなぜ残酷な試練をお与えになるのだろう? 明子ちゃんのことが、可哀想でならないよ」

 お婆さんは深いため息をつきながら語った。

「事件を起こすのは神様ではなくPSIです。そして、その因果を生み出したのは野々村明子本人です。彼女の人柄や仕事に対する姿勢は尊敬の念に値しますが、犯した罪は許されるものではありません。野々村明子も彼女の息子、明もPSI取締法によって裁かれねばなりません。お婆さん、貴重な情報提供、ありがとうございました。」

 翔子はお礼を言い、再びヴァーチャルパッドのウィンドウを開いてお婆さんのPSI制御装置の機能をオンに復旧させた。ベンチから立ち上がるとお婆さんに頭を下げて歩き出す。

「明子ちゃんの罪って何だろうねえ。超能力者を愛したこと? 超能力者の子を産んだこと? それとも、超能力者を一般人と差別せずに接してくれたことなのかい? わたしには分からないよ……」

 独り言かそれとも翔子に対しての問いかけか、お婆さんはうつむいたままつぶやいた。

「それからお婆さん、コーヒーとサンドイッチありがとうございました! すごくおいしかった。次に来るきも楽しみにしてます!」

「そうかい、それは良かった。あたしも楽しみに待ってるよ。会った時から思ってたけど、お嬢ちゃんやっぱり似ているよ。明子ちゃんにさ」

 振り返って手を振る翔子に、うなだれていたお婆さんは顔を上げてニッコリと笑いながら元気な声を出した。お婆さんはかわいい孫を見るような優しい視線で翔子の後ろ姿を見送った。

――私が木村明子に似てる? ……いや、私は……。

 翔子はお婆さんの別れ際の一言を頭にめぐらせながら西エリア警備支部までの道のりを急いだ。

――ダメだ、今はこんなこと考えてる場合じゃない。しっかりしろ、私! 

 翔子は走りながら2班班長の高月美和に連絡をとるがつながらない。帝都銀行強盗事件の捜査に取り込み中であろう美和に、メッセージを残しておく。

「エンジンスタート。パトライトオン。オートドライブ解除、マニュアルにスイッチ」

 赤い警光灯を点灯させてサイレンを鳴らし、ハンドルを強く握り締めた翔子はアクセルを踏み込んだ――


 木村明子、旧姓野々村明子は夫の木村雄二と武蔵野市に住んでいた。閑静な住宅街にたたずむ、こぢんまりとしたごく普通の一軒家である。1人息子は社会人となり独立して家を出た。夫は2年前に定年退職を迎え、会社員時代にはなかなか出来なかった趣味や習い事に没頭していた。子育てから開放された木村明子も自宅で料理教室を開き、自分自身のライフワークを楽しんでいた。そんなごく一般的な家庭であり平和な木村家に息子の明が帰省したその日、今まで積み上げてきた当たり前の幸福が音を立てて崩れ落ちようとしていた。

「全部、母さんのせいだ! 母さんが俺をこんな風にしたんだ! もうお終いだっ!」

「落ち着いて明。逃げてはダメよ。自分の犯した罪にしっかり向き合って!」

 大声でまくし立てる息子を明子は毅然とした態度でいさめる。

「母さんの言うとおりだ、明。自首しよう。父さんと母さんも一緒に行く。お前だけが悪いんじゃない。真実を隠し続けた私たちも同罪だ」

「ふざけるなっ! PSI刑務所で一生を送るなんて冗談じゃない! 俺は北関東州に逃げる。そしてもっと北へ。取締局も管轄外へすぐには手が出せないからな。親ならかわいい子供のために、協力するのが当たり前だろーがっ!」

 興奮した明は能力を発動させ、リビングに置かれている家具をねじ曲げて破壊していく。轟音と共に壁や天井まで歪みが生じ、木村夫妻はお互いの体を抱えて震えながらその場にうずくまった。

 明のPKによる破壊行が止まると静かになった室内は、まるで大きな地震の被害にあったかのように壊れた物が散らかり、引きちぎられた家具が転がっていた。

 ピンポーン。

 嵐のあとの室内にインターホンのチャイムが響いた。

 ピンポーン。

 一同が沈黙する中、再びチャイムの音が鳴った。

 明は母親をにらみ付けて無言のまま玄関の方を指差した。室内のインターホンは破壊されて使用できない。

「どちら様ですか?」

 明子は小走りで玄関まで行くとドア越しに尋ねた。

「PSI取締局捜査官、翔子・ファリントンです。息子さん、木村明さんのことについてお尋ねしたいことがあります。少しよろしいですか?」

 明子はロックを解除してドアを開いた。翔子を家の中に招き入れ、リビング手前の右側のふすまを開けて和室に案内する。

「家の中から、物が壊れるような非常に大きな音がしていましたがあれは何ですか?」

「あ、あれは……え、映画です。主人が客人とテレビを見ておりまして。私はいつも注意するのですが、主人はボリュームを大きくし過ぎるクセがあるんです。驚かせてすみません。今、お茶をお持ちしますので」

「いえ、お構いなく」

 慌てて逃げるかのように、明子はお茶を入れに台所へ向かった。翔子はリビングの方からかすかに聞こえる話し声に耳を澄ましたが、内容は聞き取れなかった。ヴァーチャルパッドを開いてファインダーを起動させ、広域モードで探知を行うがPSIの反応は無い。ファインダーを停止させたところに電話の着信音が鳴った。翔子が通話キーに触れとバーチャルパッドはテレビ電話に切り替わり、深刻な表情の美和を映し出した。

「今どこにいるの?」

「木村明の実家です。おそらく彼も来ています。PSIである本当の父親、山崎明のことを切り口に尋問し、木村明がPKを発動させたところを現行犯逮捕します!」

 翔子は強い口調で押し切るように言った。

「ダメ! 絶対にダメよ! エージェントなしでは危険過ぎる。相手はランクBのPKよ。私たちが到着するまで動かないで。翔子・ファリントン2等捜査官、待機を命じる!」

「高月さん、すみません。木村明子が戻ってくるのでモニターはクローズします。通話はこのままにしておきます。失礼します」

「ちょ、ちょっと翔子っ! 待機よ、待機! 絶対に1人でうご――」

 美和が最後まで話し終える前に翔子はバーチャルパッドのモニターを閉じてしまった。翔子は通話機能ボイスオンリーの状態で音量をミュートに設定した。こちらの音声は届くが、美和の声は聞こえない。

――やっと証拠を掴んだ。あとは逮捕するだけよ。絶対に逃がすもんか!

 ジャケットの下に装備したホルスターの中の拳銃を軽く握って確認し、翔子は被疑者逮捕の手順を頭の中でシュミレーションした。

 緑茶を入れた湯のみをお盆に載せて木村明子が戻ってきた。

「お待たせしてすみません。今、主人の部下だった方がいらしていて。主人はもう定年退職したんですが、時々訪ねてきてくれるんです」

「そうですか。ところで息子さん、明さんは最近帰ってきませんでしたか?」

「いえ、あの子は仕事が忙しくて。帰ってくるのはお盆とお正月くらいです。」

 明子は目を合わせようとはせず、湯のみを翔子の前に置きながら答えた。

「こちらに来る途中に確認したのですが、明さんは今朝、会社を退職されたそうです。そのことは?」

「いえ、聞いておりません。今、知りました」

 さほど驚いた様子もなく明子は答えた。

「午前11時10分に明さんは州境通行許可証の取得申請をしています。目的は旅行で行き先は南関東州とのことですが、ご存知でしたか?」

「え、ええ。少し前に電話でそんな話を聞いた覚えはあります」

「明さんのお父さんについて詳しくお聞きしたいのですが」

「え? 主人ですか? さっきお話しましたが主人は会社を退職しておりまして、それに会社員時代もごく普通のサラリーマンでしたが……」

 明子は質問の意図が分からずに不思議そうな顔をした。やっと目を合わせた明子の両目を翔子はジッと見つめる。

「ご主人のことではありません。明さんのお父さんのことです。山崎明さんのPSI種別とランク、それに性格も教えていただけますか?」

「な、何をおっしゃっているのか意味が分かりません……」

 明子は動揺を隠し切れず、湯のみを握った手はブルブルと震えだし、その振動で数滴のお茶がお膳にこぼれ落ちた。彼女の呼吸は浅く速くなっていき、その額には脂汗がにじみ出ていた。

「あなたが分からなくても、調べはついています。30年前、木村明子さん、旧姓野々村明子さん、あなたはPSI取締局警備課に勤務していた。配置先は第1区西エリアA区画。そこであなたは山崎明さんと出会った。PSIと人間の交際、結婚は法律で禁止されています。そして今、あなたと山崎さんの子供が法を犯しました。PKを使用して2名の人間を殺害したんです!」

 翔子は立ち上がるとふすまを開けた。

「待ってください、捜査官! 息子は、明はこれから自主させます。お願いします!」

 足にしがみつく明子の手をふりほどいて、翔子はリビングに急いだ。心臓の鼓動が速くなりその音が耳にこだます中、リビングの扉の前で翔子は1度だけ大きく深呼吸した。ホルスターから拳銃を抜いて扉を開く。

「PSI取締局だ! 木村明、PSI取締法違反および殺人容疑で逮捕する!」

 翔子が拳銃の照準を定めた容疑者は、自分の父親を盾にして捜査官と対峙する。

「俺は人間だっ! 探知にもひっかからなかった! 証拠も無いのに逮捕なんてできるわけない!」

「くだらない言い訳なら、取調室でゆっくり聞いてあげるわ。両手を頭の上に組んでうつぶせになりなさい!」

 ヒステリックな声を上げる木村明に動じず、翔子は強い口調で命令した。彼女の言葉に従わず、怒りをあらわにした木村明は興奮状態に陥り、言葉にならない雄叫びを上げた!捜査官と容疑者が対峙する、緊迫した空気が充満していたリビングルームの拮抗状態が崩れた。突然に翔子の目の前の床が潰れて抜け落ち、次の瞬間に彼女は体をねじられるような形で吹き飛ばされ、扉に叩きつけられて崩れ落ちた。

「ハ、ハハハハ! フハハハハ!」

 ピクリとも動かない翔子を見て木村明は笑い始めた。

「明、なんてことを……」

 息子の凶行を目の当たりにした木村雄二は力が抜けたようにしゃがみ込んだ。リビングに入ってきた明子は目を大きく見開き、両手で口を押さえてブルブルと全身を震わせている。

「全然ビビること無かったな。捜査官も所詮人間だ。俺の能力の前じゃ虫みたいなもんさ! しかし、こいつけっこう頑丈だったな。あいつらは首が1回転したのに。フハハハ!」

 うつぶせに横たわる翔子の頭をグイグイと踏みつけ、木村明は唾を吐きかけると転がっている椅子を起こし、彼女に背を向けて腰掛けた。

「捜査官、捜査官! しっかりしてください!」

 木村明子が倒れている翔子に声をかける。

「そんなモン、ほっとけよ! PK使って捻りつぶしたんだ。くたばってるに決まってんだろ! それより、のど渇いた。早くお茶!」

「お茶なら、取調室でいくらでも飲ませてやるわよ!」

 椅子に腰掛ける木村明の後ろに警棒を振り上げた翔子が立っていた。鋭く振り下ろされた警棒が木村明の右肩を打ちつける!

「グッ! クウ」

 苦痛の声を上げて椅子から転げ落ち、木村明は肩を抑えながら翔子から離れて間合いをとった。

「知ってる? 対PSIボディーアーマー、PK防御スーツ2型。ランクB以下のPKによる攻撃をシャットダウン。」

「クソ、クソっ! 今度こそ捻りつぶしてやる! 死ねエエエ!」

 木村明は怒声を上げ、充血した目で翔子をにらみつけるがそれ以上は何も起こらない。急にPKが使えなくなったことに、彼は戸惑いの様子を隠せなかった。怒りに満ちていた瞳は、みるみるうちに不安と動揺の色に変化していった。

「知ってる? 対PSI特殊警棒。PSIの能力を一時的にロック」

「PKが使えなくても、お前なんか、お前なんか――」

 叫びながら向かってきた木村明の腕を叩き落とし、警棒をわきの下へ差し込み肩を固定してうつ伏せに押さえ込み、翔子は模範的な逮捕術を実演した! 翔子は被疑者の首にPSI制御装置を装着させ、能力および身体完全拘束のオールロックモードで起動させる。

「高月さん、午後5時20分、被疑者確保。木村夫妻は無事です。一応救急車の手配、お願いします」

 バーチャルパッドを開き、テレビ電話のモニターに映し出された班長に報告をする。

「今、到着したわ! もう救急車も手配済みよ」

 電話の声が近くで聞こえる。声がどんどん近付いてきて、リビングに走り込んできた美和が翔子を強く抱きしめた。

「た、高月さん、く、苦しいです」

「もう、あなたは心配させて! あれだけ待機って言ったのに。ケガは無い? 大丈夫?」

 今にも泣き出しそうな美和の顔を見て、緊張の糸がほぐれた翔子はヘナヘナとその場に座り込んだ。

「すみません。高月さんの顔見たら、安心して力が抜けちゃいました。大丈夫です」

「ほら、掴まって。ゆっくりでいいわ」

 美和は翔子を支えて立ち上がらせると、抱きかかえながら並んで歩いて家を出た。美和の肩に掴まって歩く翔子は腰に突き刺さるような痛みを感じて顔を歪めた。

「イタっ! イテテ」

「ちゃんと検査受けなさいよ。明日は絶対に休みなさい!」

「大丈夫です! まだ帝都銀行の事件が、イテテテ!」

 強がりながら苦悶の表情で腰を押さえる翔子を美和は呆れた顔で見つめた。

「私は事後処理があるから残るけど、翔子は病院行って帰りなさい。明日は絶対来ちゃダメよ。班長命令です。今度はちゃんと言うこと聞きなさいよ」

 まだ20代なのに、まるで母親のような存在感をかもしだす美和の様子がおかしくて、翔子は思わず吹き出してしまった。笑いながら頷き、美和に礼を言って車に乗り込んだ。目的地を寮に近い総合病院にセットして、オートドライブで発進する。

――被疑者は逮捕できたし、事件解決にはなったけど、何かすっきりしないな……。次、お婆さんに会ったとき、私はどんな話をするのかな? 何か他人ごとみたい。

 翔子が物思いにふけりながら窓を開けると、春の柔らかな風が彼女の1つにまとめた長い黒髪をなびかせた。太陽は西の空を茜色に染め、どこか懐かしさを感じさせる。フロントガラスに映る夕日を翔子は目を細めて見つめていた。


 同日午後6時、東京湾PSI刑務所。この日の夕食はデザートにプリンが出され、受刑者たちは大いに歓喜していた。プリンで大はしゃぎとは大の大人が滑稽ではあるが、PSI刑務所内で甘いものを食べられる機会はめったになく、甘いものに飢えている受刑者たちが喜ぶのは決して大げさなことではなかった。雑居房では3名あるいは4名の受刑者が生活を共にしており、久々のデザート付きの夕食を堪能しながら大いに盛り上がっていた。そんな陽気な雰囲気の雑居房エリアから離れ、刑務所中枢に最も近い位置にある独房エリアでは普段と変わらぬ静寂な時間が流れていた。

「さて、まずはプリンからいただくとするか。くうー! カラメルソースが体に沁みるぜ」

 受刑者番号666番、日村光一は独り言を言いながらプリンを味わった。運動時間と作業時間、そして週2回の入浴時間を除けば独房に収容されている受刑者は1人の時間を過ごしている。作業中と入浴中は私語が禁止されているため、実質的に他者と関わる機会はごくわずかである。

 ふと人の気配を感じた光一は、プリンをすくったスプーンの動きを止めて鉄格子の方に視線を向けた。扉のあたりに違和感を覚えジッと目を凝らすと、透明ではあるがその形の外周に淀みを生じさせた人型の物体が、両手で鉄格子を握りこちらをうかがっているのが分かった。

「おっ! さすがは旦那、千里眼は伊達じゃあないっすねえ」

 独房の外から見えない人物が光一に馴れ馴れしく声をかけた。

「トランスペアレンシーとは、ずいぶんレアだな。俺のプリンを奪いに来たとしたら、リスク高すぎじゃないか?」

「へへへ。面白いこと言いますねえ。プリン目当てでこんなとこまで抜けてきたりしませんって。皆からはインビジブルって呼ばれてますんで、旦那もそれで以後お見知りおきを。挨拶はこれくらいにして、実はある方から旦那に伝言がありましてね」

 声はするがいっこうに姿を見せない相手に視線を向けるのを止め、光一は再びゆっくりとプリンを食した。

「名乗りもしない上、顔も見せねえ相手の話を聞く気はしねーな」

「まあまあ、そう言わずに。旦那だってもう気づいてんでしょう? 午前中に2回、旦那の千里眼が解放された時間帯があったはず。見えてましたよね?」

 軽い感じで調子よく話す男の声色が変わった。

「ああ、見えた。明後日、刑務官たちが絶望と恐怖で悲鳴をあげ、それを聞く囚人たちが歓喜の声をあげる」

「ヒュー、詩人ですね旦那ァ。で、ある方から伝言なんですがね。『黙って俺に従え! それが出来ないならお前の命の保障は無い。選択肢は服従か死の2つだけだ!』とのことです」

 インビジブルが話し終えると、食事に集中していた光一は箸を置き、鉄格子の扉の前に立っているのであろう彼をジッと見据えた。

「あんたのその眼鏡、オタクっぽいからやめた方がいいぞ。あと、あるお方とやらに俺から伝言だ。プリンはやめとけ、糖尿病が悪化するってな」

「ヒャハハハ! あの人が警戒するわけだ。旦那、あんたやっぱりオモシレーや。伝言、預からせてもらいます。じゃ、失礼しますよ」

 ヒタリ、ヒタリと通路を裸足で歩く音がかすかに聞こえ、それが独房から遠のいていくのを確認した光一は透視に集中した。意識は視界を遮る独房の分厚い壁を飛び越え、インビジブルが音を立てないように、ゆっくりと歩いている光景が見えた。背中を丸めて小柄な体格をよりいっそう小さくして歩く裸足姿の囚人が滑稽で、光一は思わず吹き出してしまった。

――さてと、もうすぐ出口だ。俺に見られているとも知らず、防護ドアのロックを解除する奴の間抜け面でも拝んでやるか。

 インビジブルの進む10メートル先に独房エリアの出入り口が見える。光一はその厳重な防護ドアに意識を集中させ、透視能力に力を注いだ。が、次の瞬間、視界は遮断されて脳に激痛が走った。光一は両手で頭を押さえると、痛みが緩和されるまでこめかみの辺りを指で軽くマッサージした。

「チッ!」

 舌打ちをして独房の壁をにらみつける。

――独房エリア防護ドアのロックは一般看守には解除できない。最低でも主任以上じゃないと。しかもPSI制御装置へのアクセス権は部長クラス以上だ。奴ら、どうやって幹部を丸め込んだんだ?ったく、俺の透視と予知はいつもろくなモンを見せねーな。今朝の捜査官、明後日来たりしねえだろうな。人の忠告を素直に聞くタイプにゃ見えなかったが……。

 まだ少し痛みの残るこめかみを擦りながら、彼は心配そうな表情を浮かべた――。

 

 総合病院の整形外科でギックリ腰と診断された翔子はため息をついていた。

――ギックリ腰って……年寄りじゃないんだから。何か嫌な響き。

 正確には腰部捻挫という診察結果ではあるものの、ザックリ言うとギックリ腰である。

「ファリントン2等、大丈夫ですか? 診察結果は?」

 診察を終え、出口に向かって松葉杖をつきながら歩く翔子を西村良子1等捜査補佐官が呼び止めた。いつも身しらずな無茶をする翔子を案じて、班長である美和が彼女をお目付け役によこしたのである。

「大丈夫です。ありがとうございます。西村さん、あっちはいいんですか?」

「はい。高月班長より、ファリントン2等に付き添うよう指示を受けましたので」

 良子は笑顔で答えた。

「西村さん、その呼び方やめてくださいよ。名前で結構ですから」

「えええっ!? 何でですかあ? ファリントン2等は私より2階級も上の上官じゃないですかあ。名前でなんて呼べませんよお」

 良子は驚きの声を上げながらブンブンと首を横に振った。

 西村良子、25歳、PSI取締局1等捜査補佐官。翔子より年上であり捜査課の先輩ではあるが、階級は下位である。捜査課2班(高月班)所属の彼女は翔子の部下にあたる。

「正式名で呼ぶの、良子さんくらいですよ。影では皆、呼び捨てですよ。私、知っていますから。自分が何て呼ばれているか。『親の七光り捜査官、翔子・ハングリー』ですよ。」

 翔子は苦笑いする。父親がPSI取締連邦捜査局刑事部長であり、また誰よりも仕事熱心な彼女を揶揄して捜査課の多くの人間はそう呼んでいる。

 小学生の間に中学課程をマスターしていた翔子は受験に合格し、名門私立高校に進学した。さらに1年間で高校の全課程を修了した彼女は東京州立大学に13歳で合格。進学後もその勢いは衰えを全く見せず、1年後に主席で大学卒業、過去最年少かつ最優秀成績でPSI取締局に入局した。PSI取締局に入局する新卒者は、通常4月からアカデミーに入校して1ヶ月の訓練期間を過ごす。翔子は入校時期を早めて大学卒業後すぐに訓練生となり、4月から捜査課に着任したのである。そんな彼女を歓迎しない捜査課の中で、支えとなってくれている数少ない存在、それが班長の高月美和2等捜査官と西山良子1等捜査補佐官である。

「ファリントン2等は優秀な上に容姿端麗ですから、みんな嫉妬してるんですよ。でも今回の件で、捜査官の実力を認めざるを得ませんね。ホントにすごいですよ! 入局してたった半月で事件解決、被疑者逮捕しちゃうなんて! 功績表彰、間違いないですね!」

 良子は松葉杖の翔子に並んで歩調を合わせながら興奮気味に語った。

「いえ、今回は待機命令を無視して独走してしまいましたし、一歩間違えれば被疑者を取り逃がしていました。無事に逮捕できたから良かったものの、それに……」

――超能力者と人間の間に産まれた奴って、どんな遺伝があるんだろうな?

 翔子は今朝、東京湾PSI刑務所で面談した日村光一と彼の言葉を思い出していた。彼の言葉が事件解決の糸口となったのである。不真面目でふざけた態度の翔子が嫌いなタイプの男だった。常にヘラヘラと笑っていた表情があの時だけ一瞬真顔になり、遥か遠くを見つめるような視線で翔子の瞳の奥をのぞいていた。

「捜査官、捜査官! 大丈夫ですかあ?」

 良子が、回想をめぐらせて沈黙した翔子に大きな声で呼びかける。

「あ、ゴメンなさい。ちょっと考え込んじゃいました」

「大丈夫ですよ。取調べ、順調みたいですよ。班長からメッセージ来てました。木村明と木村夫妻も素直に供述しているようです。だから、班長の言うことちゃんと聞いて、今日と明日はおとなしくしていてください」

 良子が真剣な顔になり念を押した。

「ハハハ。分かってますよ。ちゃんと帰りますから、怖い顔しないでください。西村さん、シワ増えちゃいますよ」

「ムー! 自分がまだ10代だからってえ、捜査官のバカ!」

 ふくれ面の良子がパシパシと翔子の背中を叩く。

 ハーフで大人びた容姿の翔子は身長が165センチあり、それに対して良子は幼顔で背も10センチほど低かった。性格も少々天然で子供っぽいところもあり、その容姿と言動から翔子の方が年上に勘違いされることも少なくなかった。

「すみません。冗談です」

「もう。それなら、いいんですけど。ところでエージェントのスカウトどうでしたか? 実際に面談してみていかがでした?」

「えっと……ヤナ奴だったけど、目がキレイだったかな。ハハハ」

 自分らしからぬ、質問に対して的外れで意味不明な回答をした翔子は笑ってごまかした。笑いながら鍵を開けて車に乗り込む。

「そーなんですかあ。でも、ファリントン2等の瞳の色もすごいキレイですよね。憧れちゃいます。確かグリーンアイって――」

「あああっ! 瞳の色で思い出した!」

 話の途中で翔子は大声を上げた。驚いて目を丸くする良子に礼を言って別れ、翔子は言われたとおり真っ直ぐに寮へ戻った。

――あいつ、何でもお見通しみたいな顔して偉そうにしちゃって。あさって、キッチリ言い返してやる!

 時刻は午後6時40分を回っていた。星が輝き始める夕闇の空を眺めながら、翔子はあさって再び予定されている、鼻持ちなら無い囚人との面談を脳内でシュミレーションした。翔子は自分が発する、ある一言で彼が言葉を失う様子が想像できた。

――このこと知ったら、あいつビックリするな、絶対!

 頭に浮かんだ日村光一の驚き顔が可笑しくて、彼女は笑いながら車を発進させた。

 4月の半ばだというのに、総合病院の広いパーキングを囲むように植えられた桜は満開に咲き誇っている。純白で大輪の花を咲かせる、名前の分からない桜の美しさに翔子は目を奪われた。春風に吹かれてたくさんの花びらがヒラヒラと舞い落ちる。春なのに雪景色を思わせる幻想的な風景に、1日の疲れが癒される翔子であった――。

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