第8話 みつめる目

「まさか」

 リュは、穏やかに言った。

「私は純粋に称賛しているのです。

 自由に生きられるというのは強さです。日頃、自由になりたいと仰る方もいらっしゃいますが、突然、その望みが叶い、どこに行ってもよい、好きに生きろと言われたら、案外、一歩も動けなくなったりするものです。


 毎日、同じことの繰り返しと愚痴をこぼして暮らしていても、そのような制約があるからこそ生きていける者がきっと、この世の中にはたくさんおります。

 かく言う私もその一人。例えばこの部屋から出ていいと言われても、ここを出てどう生きていけばいいのか、私にはまるで見当がつきません。たちまち途方に暮れてしまうでしょう。


 だから、あなたは強い。

 何の制約もなく、こうして自由に旅をして生きておられる。強くなくてはできないことです」


「制約はありますよ」

 静かに、重く、アルコは言った。

「私は自分自身を探しています。これも立派な制約ですよね。私はあなたの仰るような強い人間ではありません。旅をしているのは、ただそうするより他になかったから。必要だったからです。

 あなたも必要であるのなら、この部屋を出て行けばよいではありませんか」


 アルコの言葉に悪意のひとかけらもない笑顔でリュは頷いた。

「そうですね。ですが、残念ながら、できることとできないことがこの世には存在します。ここからは出られない。出てみたいという望みがあっても、それは胸の奥で燃え尽きてしまう儚い望みとして終わることでしょう」

「何故そう言いきれるのですか?  ……あなたはそれを呪いと言う。ですが、私にはただの言い訳に聞こえるのです。あなたはこれからもずっとひとりきりでここにいるのですか?」


「ひとりではありません」

 リュはそう言うと、真摯な眼差しをお堀の水面に投げた。

「私たち一族はずっと一緒にいるのです」


「一族?」

 アルコがリュの言葉を反芻したその直後、目の前の水面がぐらりと揺れた。

 ぐつぐつと煮え立つように激しく泡立つその水面の尋常ではない様子に彼女は思わず腰を浮かしかけたが、それを冷静にリュが制した。

「大丈夫。私があなたばかりをみつめるから『かの君』が寂しいと言っているのです」

「……かの君、とは誰ですか」

 ややかすれた声でアルコが尋ねると、リュはバルコニーの大窓を振り返り指をさした。

「この城にあるステンドグラスのすべてには物語が描かれています。その窓も然り。

 よくご覧ください。あなたにはどのように見えますか?」


 物語。


 アルコは優しい色合いの、そのステンドグラスを改めてみつめた。

 初めて見た時には魚が描かれている幻想的な絵にしか見えなかったが、今は違う印象を彼女に与えていた。


 なんと、禍々しい……。


 このステンドグラスに描かれているのは残酷な物語だ。


 渦巻くように盛り上がる水色の曲線はきっと水。

 その中に半ば隠れるように姿を見せる大きな魚。それはたおやかな流線の身体をして、その色は深い緑と淡い緑のまだら模様。

 大きな尾びれには白い三日月の印が鮮やかに浮かんでいる。

 

 魚は大きく口を開けていた。

 その赤い目。尖った鋭い歯。


 よく見ると、その口の中に人の形が見えた。二つの大きな人の形と一つの小さな人の形。親子のようだ。

 この親子は今、まさに魚に呑み込まれようとしていた。

 

 魚の背後にあるのは大きな蒼い球体。

 初めてそれを見た時は、夜空に浮かぶ月と思っていたが、しかし、今のアルコには違うものに見えた。

 この蒼い球体は……目だ。

 じっと見つめ続けるしかない、透明で覚めたリュの目だと思った。

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