第2話 魚のぞきとお堀の魚

 彼は何をみつめているのだろう。

 何のためにみつめているのだろう。

 そして、何よりもあの色のない瞳の意味は……。


「サラサさん」

 アルコはついに先を行く女官の名前を呼んだ。彼女は手綱を器用に操りながら、笑顔で振りむいた。

「何でございますか」

「あの者のことですが……どういった身分の者なのかお教え願えませんか」

「……お気になられるようですね。アルコさまも乙女子でいらっしゃいますから、あのように美しい殿方に心奪われるのは仕方のないこと」

「いえ、ですからそういうことではなく」

「あの者はうおのぞきという者です」


 あっさりと奇妙なことをサラサは言った。聞いたことのない言葉にアルコはぽかんとする。

「魚のぞき、ですか?」

「はい」

「それは……身分ですか? それとも彼の属する一族の名前でしょうか?」

「そのどちらとも言えます」

 すまし顔でサラサは言う。

「あの者の家系はその昔から代々、城のお堀に住む魚を、ああやって見張っているのです」

「魚を見張っている? あのお堀に魚がいるのですか」

「おりますとも。大きいのも小さいのも。今日のように寒い日は湯気が出ていますが、お堀の水が煮立っているわけではありませんからたくさんの魚が住んでおりますよ。……しかし、あの者が見張っているのは特別な魚です。お堀の主なのです」

「主、ですか……」


 少し、考えてからアルコは言った。

「その魚は見張りが必要なほどに凶暴なのですか?」

 サラサはおだやかに微笑む。

「その昔、あの魚に害意を持つ者がひどい目に遭わされた、ということは聞いたことがあります。けれど、あの魚のぞきが魚をみつめている限り、災いが起きたりはしませんのでご心配には及びませんよ、アルコさま」

「あの魚のぞきの青年に危険はないのでしょうか。見たところ、彼は強そうには見えませんでしたが」

「さて、どうでしょうか」


 微妙に間を置くと、サラサは言葉を続けた。

「それなりに能力があるからこそ、王から魚のぞきを代々、命じられている一族です。……それにその魚、姿はいと醜いと聞きますが、特に凶暴というわけでもないようです。害を加えなければおとなしいものだとか。ですが、機嫌を損ねるようなことがあると、それはもう」

「暴れるのですね?」

「ええ、それはとても恐ろしいと」

「その主は醜い、のですか」

「噂です。実はお堀の主の姿をはっきりと見た者は、あの魚のぞき以外いないのです。そもそも魚のぞき、などと申しますのは卑下した呼称です。正式名称は魚観測人。あの者は、ずっと、あのようにバルコニーの椅子に座り続け、ただ日がな一日、お堀の水面を眺めております。そうすることでお堀の主は落ち着くことができ、暴れることはないと」

「では、魚のぞきがみつめることをやめると主は暴れる、のですね?」

「はい。ですから、みつめることは魚のぞきが死ぬまで続きます。その後は、魚のぞきの子が跡を継ぎます」

「子? 彼には子がいるのですか?」

「今はいません。ですが、彼が結婚を望めばそれはすぐにでも叶うでしょう」

 サラサはそう言うと、意地の悪い笑い方をした。そして、アルコの背後に視線を送る。アルコも思わずその視線を追い、はっとする。


 城の正門近く、城へと続くなだらかな坂の途中。

 木々の間に一人の少女が隠れるように立ち尽くしている姿が見えた。彼女は一心にお堀の向こう、あのバルコニーの青年の姿をみつめている。ごく平凡な町娘の様だが、身なりは良い。裕福な商人の娘というところか。

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