すべてが終わってしまう、その前に。

@matanai4

「普通」列車

静けさに満ちた朝の道。そこを勢いよく駆けていく列車の端で、私は一本の棒と成り果てていた。

 都市に向かって走る路線で、さらに通勤ラッシュの時間帯であるものだから、満員とはいかずとも、私が入ってきた時には、車内の座席はすでに人一人がゆったりと腰掛けるスペースを残してはいなかったのだ。

 なので私は、揺れる車内で吊り革に捕まりながら、ぶらんぶらんと自然のままに、まるで死人のように、ただそこにあるだけのモノとなった。そういう次第である。

 こうしていると、とても気持ちが落ち着く。

 周りで険しい顔をして新聞と睨み合いをしている中年の男や、忙しそうにパソコンになにかを打ち込んでいるスーツの若男、雑談に興じる女子高生、チャラチャラと大声で通話中の男などとは違い、今や私はただ考えることが出来るというだけで、道端の石ころにも等しい存在なのである。だからこそ、彼らのように何かにエネルギーを使うことはない。

 果たして死人が夢を見るかは私の知るところではないが、私はそれと似たような世界に体のほとんどを浸して、いわば幸せに死んでいる。

 その幸せの国で考えることと言えば、「カラメルのたっぷりかかったプリンの山に埋もれたい」だとか、「牧場で眠っている、まるまる太った羊たちのふかふかな毛の上にサングラスをかけて寝そべって、太陽がゆっくり巡っていくのを眺めたい」だとか、「華やかな女優たちに囲まれ、美酒のお尺をしてもらいたい」だとか、まったく本当に仕様もない事柄ばかりである。

 生き人たちは、きっとこのような益体もないことを延々と想像し続ける私に対して「あほう」などと呼びかけ、哀れむような目をしながらクククと笑うのだろう。

 だがなにしろ私は死人であるゆえ、この時間において、彼らの言葉は私に対して何ら干渉する力を持たないのである。

 そういうことで、存分に私を嘲るが良いよ。

 もっとも、私自身が私のことを「あほう」と考えてる節もあったりするのだが……。

 話を変えよう。もしも先程の生き人たちが、私の心中を覗き、これを嘲笑ったとする。するとそれは、存在していない、則ち現実世界において限りなく価値の薄れた私に、何らかの反応を起こしているということになる。

 それこそ私の妄想以上に、時間とエネルギーの浪費ではないか。――咄嗟に思いついたので、それを私は一石マイナス二鳥と呼ぶことにしてみた。

 そのように、見も知らない人々の名誉を、密かに傷つける私である。

「卑屈、気持ちが悪い」。今どこからか私を観ることができるものがいるとしたら、間違いなくそう思ったはずだ。どうぞ、好きに続けてくれ。


 さて、そのように無意味な思考循環にふけっていた死人、又は道端の石ころ、或いは棒切れであったが、道中で停車した駅から人がなだれ込んで、空間を真っ黒に染めると、いよいよ幸せの国からさらばするより他になくなる。

 私はこのようなだだっ狭い人口空間が苦手であるし、そこに自分と同じ有象無象がひしめく光景は、苦手を通り越して嫌悪の対象にすらなりうる。

 ……訂正。有象無象とは、またもや無関の人々を貶める物言いであった。言の葉を湯に浸して柔らかくし、丹念に揉みしだき、最後にハンマーで粉々に砕いて言うなら、正直私は人が、そして人の関わるものが、どうにも受け付けないのである。

 申し訳がない。自分で言うのもなんだが、私とは繊細なガラス細工のような存在なのである。

 割れ物につき、御注意されたし――。

 まったく、と自分でも思う。人間アレルギーがわざわざ電車に乗り込むとは。

 まるで、都会のスイーツ好きが山奥の秘境の農村に永住するような、質素堅実の侍が超高層プール付きロイヤルホテルに宿泊するような、まことに理解に苦しい行為である。

 いや、分かっている。そんなことは承知の上だ。

 私はある目的を果たすために、今日の日に限って山奥の秘境の農村を、超高層プール付きロイヤルホテルを許容した次第である。

 あれ、つまり私はスイーツ好きの侍だった……?

 なるほど、確かに私のご先祖様は少しばかり名の知れた武士であり、私自身もプリンの山に埋もれたいと妄想するほどには甘味好きである。

 だがしかし、私は高所とプールが特大嫌いだった。

 かれこれこの世に生まれて二十数年。相応の年齢に達している私だが、泳ぐという行為が世界で一番と断言していいほどに下手なのであった。

ちなみにこれは、私の三大秘密のうちの一つだ。

 そして加えて、高所に立った時に感じる、あの臓腑の諸共を見えざる魔の手に掌握されたかのような感覚。俗に言う「ちんさむ」という現象である。

 駄目だ、思い返すだけで、恐怖がわき上がってくる……。

ちなみにこれが三代秘密の二つ目だ。

 ああ、そんな人間が、超高層でロイヤルなホテールに居座れる訳がなかろう。

 よって、私はスイーツ侍ではない。証明終了。


 ひとまず悪性の思考循環より解き放たれた私は、この時に丁度席を立ってどこかへ行ってしまった男性の背を目にした。

 すかさず私は視線を正面に戻し、一瞬の内にその奇跡のオアシスを手中に収める。

 これがまた、朝日の差し込む心地のいい席だったので、私はいくらか気分が良くなった。

 そうして再び先程の命題について考えを巡らせていると、あるトンデモナイ事実を見落としていたことに気がついた。

 そう、スイーツ好きとプールには、ほとんど、全く、一切の繋がりが無いのである!

 とすると、先祖が武家で、かなりの甘味好きであるという事実だけから判断するに、まさか本当に私はスイーツ侍であるとでも言うのか。いや、そもそも現代に侍がいるはずがないだろう。ではなぜ私は、「スイーツ侍」などという、世にも珍妙な言葉を思い起こすことができたのだ。なぜ……。


 底無し沼、或いは幸せの国に引きずり込まれていた私の魂は、しかし次の一瞬で自らの身体へと回帰した。

 私は死人でなくなった。ある何者かによって、生き人へと転じさせられたのである。


「あのぅ。そこ」


  私を覚醒させた人物であるらしき老婆は、何か不満を掲げるように私を、ではなく私がいる奇跡のオアシスを指で示して見せた。


「そこ、とは?」


 あまりに唐突であったので、思わず私は尋ね返した。


「優先席」


 老婆は控えめに、されど不満を隠そうともしない物言いで私を見据えた。

 なるほど、ここは優先席であるのか。

 ははあ、さてはこの女、風貌が健常者のそれである私がこの場所を占拠していることが、腹立だしいのだな。言外に、ゆずれゆずれと喚き散らしているのだな。

 そのような元気のある彼女と、自分で言うのもなんだが、妄想の世界に頼るほど疲労している私。

 一体どちらが奇跡のオアシスの水を口にするにふさわしいのか。どちらがその恵みによって喉の渇きを潤すべきだというのか……。

 たしかに優先席というのは、身体に不自由のある方や、足腰の悪いご老人が困ることがなくなりますように、との善意で設置されたスペースである。

 が、あくまでもそれは優先なのであって、そこが座席である以上、前提として誰もが使って良いという意図、道理があるはずだ。

 私は若者だから、優先席に座ってはいけないのか?いいや、それは少し違うだろう。

 私見だが、彼女はそこのところを根本から履き違えているのうに思える。


「すみません、他を当たって下さいませんか」


 ゆっくりと湧き出る老婆への疑念を隠し、努めて穏やかに私は言った。

 すると次の瞬間、これを聞いた老婆の面は、悪鬼の類のそれへと豹変したのである。


「なにを、図々しい!若いんだから、お年寄を気遣うのはあたり前でしょ!」


 激昴する老婆のこめかみがピクリ、ピクリと小さく痙攣していた。

 私は呆気にとられた。図々しいのはどちらで、その当たり前を分かっていないのは、どちらなのだろう。

 そんな風なことを考えていると、私の態度がよほど癇に障ったのか、この「お年寄」の皮を被った悪鬼は車両の人々にまで何かを訴え始めた。


「ねぇ、そこの人が私に席を譲ってくださらないんです。何度もお願いしてるのに……」


 ……話の大筋は間違ってはいない。が。

 しかし、よくもここまで事実を脚色して伝えられるものだ。思わず私は、彼女のその道の才能に拍手喝采を送ろうと、手を動かしかけてしまった。

 話す彼女の姿は、ちょっとした悲劇のヒロインのようにすら見える。


「マスコミの偏見報道も真っ青、であるな……」


 だが、人々がこれに応えることは有り得ない。なぜなら彼らも先程の私と老婆のやり取りを聞いていたはずなのだから。

 ほら、早速乗客が、彼女の口ぶりに不快を示したようである。

 楽しげに話をしていた女子高校生二人組が、遠巻きから、私に向かって!?なんと、私に向かってこう言ったのだ……。


「あの人マジキモい。おばあさんかわいそうじゃん」


 続いて頭の禿げかかった中年の男が言う。


「君、スーツってことは社会人だろう?その年にもなって、まだ周りが見えないのか」


 続いて金色のネックレスを身に着けた、チャラチャラとした風貌の大男が言う。


「おっさんが駄々こねて……みっともねぇ。言っとっけどカッコわりぃよ?」


 そう言う大男は、となりの乗客の耳元で喋っていた。そしてその乗客に、彼の散らしたツバが思いきり降りかかっている。貴方こそ、みっともねぇ。

 続いて、続いて、続いて……。驚くべきことに彼らの怒りの嘲りは、すべて私に対して投げかけられたものであった。

 勿論、そうでなくちゃんと道理を弁えている方がいらっしゃることは承知している。

 だがなにぶん私は、身の回りのより狭い範囲にしか生きられない、ガラス細工のような男であるので、この時において、私の世界に最も接近している彼らの言葉は、「私にとって優しい人々」が確かにいるという事が分かっていてさえ、遥かに苦しいものだった。

 遅巻きながら、私は理解した。

 この列車という社会の中では、年配者を敬うことが問答無用で善となるのだ。

 例え老人がどれほど元気だったとしても、これはもはや常識の域にまで根付いた、日本人の「ルール」である為、そういうことは全く関係ないこととされてしまうのである。同じ場面が外国で起こったとしたら、多分話は違っていただろう。

 これこそは長年に渡って凝り固まり、積もり続けた

 我が国の「良き」文化の縮図ではないか。

 私は彼らの「普通」から外れてしまっている為に、今非難を受けているのだ。


「だんまりかよ、うっざ」


 何を喋ることも動くこともない石ころのような私に、巨漢が腹立だしそうにドンドンと足を踏み鳴らして近寄ってくるのが、視界の端に見て取れた。


「――この普通は、狂っている」

「意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」


 次の瞬間、巨漢がその鋼鉄のような拳を、私の頭蓋に振り下ろしていた。

 私の背筋が、これまでに経験したことのない程の勢いで、ゾッと震えた。その時感じていたのは圧倒的な冷たさ、則ち恐怖だった。

 そうして、私の顔面は弾け飛んだ……と錯覚するばかりの痛みが私の全身を駆け巡った。鋼の塊は私の頬を殴打した。骨がいくらか折れたように思う。


「めーわくだから出てけよ、おまえ。マジめーわく」


 めーわく、が私の心を二度突き刺し、遅れて頬が一気に熱を帯びてゆく。

 車窓を振り返ると、そこには紫色の宇宙人が映っていた。誰だと思った。当たり前だろう、私だ。

 恋する乙女が見せる、もぎたての林檎のような初々しい赤面は、比類なき愛しさを感じさせるものだが、それに比べてコレはどうだろう。紅色を通り越した不気味なヴァイオレットは、我ながら見るに堪えるものがあった。さしずめ、今の私はナスビ星人といったところか。

 おかしいな、私だって恋、しているのに……。


 そうした現実逃避から目が覚めると、無数の視線が私を貫いていた。列車は、異常なまでの静けさに包まれていた。私の直感が『冷たい、凍えそうな寒さだと訴えていた。


「人を殴るのが普通と黙認されてはならない。それは紛れもない悪だ」


 この車両に居座る全ての人に向かって言った。

 しかし乗客の多数を占める、「私にとって優しい」はずの人々は皆、我関せずと必死に冷静を装ってスマートフォンを眺めている。

 少なくとも、私にはそのように見える。

 或いは、彼は本当に冷静なのかもしれなかった。私という異端――真なる正義を掲げる、少数派の邪魔者――を疎ましく思い、内心で冷ややかな感情を燻らせているのかもしれない。

 小さすぎる正義は、たとえそれが真理であったとしても、多数の正義に受け入れてもらえないのだ。


 そうと思った瞬間、私の瞳には、この空間が地獄と映った。

 これより私は、普通という大正義に支配された魔窟で、ただ一人「悪役」を演じなければならない。

 ただしここに観客――則ち中立的な立場にある傍観者は存在しない。

 私以外の全てが敵。孤立無援、四面楚歌。まさにそのような言葉がふさわしい舞台だった。


「いい加減、そこどけや!」


 そら、世界一醜い演劇の幕開けだ。


 巨漢が私の胸ぐらを強引に掴み取る。無理矢理に立ち起こされた私は、その時丁度運悪くガコン、と列車が揺れたために、地べたへよろけ倒れた。


「丁度いい。そんなに座りたいなら、ずっとそこにいろよ」


 私を見下ろしながら巨漢が言うと、それに背中を押された乗客たちが、次々と、私を排斥せんとする極低音の氷槍を投げつけた。

 私はこれに対して怒ったりはしなかった。自分こそが正しいと知っているが故に、平静を保つことができたのだ。第一この局面で何か反応を起こしても、いたずらに大衆の感情を刺激するだけだ。

 だが、知っての通り勧善懲悪の徒である彼は、悪人の私が自らの行いを懺悔し、「ご迷惑をおかけ致しました……」と申し訳なさそうに謝罪するところが見たくてたまらないのだろう。

 事実彼らは、床に倒れ伏してもなお平然とした態度を貫いている悪人が気に食わない様子である。


 ……反応しては駄目。かといって黙っていても駄目。一体、この演劇の監督は私にどうしろと言うのだ。


 そうして彼らは今や地を這う虫ケラも同然の私に、さらなる追い打ちをかけんとするのである。

 今度の揺れはごくごく小さなものだった。

 そうであるのに、どういう訳が巨漢は体勢を大きく崩し、その拍子に、背負っているチャラチャラとしたリュックサックを落としてしまったのだ。


「いたっ……」

「おっと、背中が滑っちゃった」


 そうして落下先が、どういう訳か、運悪く、私の脚上であった。

 それだけと言えばそれだけである。が、この時私は、腹の底から言い知れない異物が込み上げてくる感触を覚えた。それは、怒りという灼熱を孕んだ哄笑だったように思う。


「ハははハ……」


 私はついに激昴した。いいや、してしまった。

 ただひたすらに、彼らという生き物の在り方が理解出来なかった。

 自らの正義にそぐわない者を排斥することは、ことの大小は違えど、誰もが成す行いである。だが今のわざとらしい行動は、一体どういう意図でなされたのだろうか……。


 巨漢や老婆を始めとする乗客は、唐突に笑い始めたかと思うと再び黙りこくった私を見て、何かバケモノでも見るかのような、恐れにも似た表情を浮かべていたが、それすらも気にせず私は長考に浸った。

 けれどどれだけ時間が経っても、本当に分からなかったのだ。

 その事に腹が立って仕方がなかった。私は、オカシクなってしまいそうだった。


「何故貴方達は……」

「自らの正義を押し通すのは、たしかに正しいことだろう」

「だが、拳に訴えることはともかく、決して個の及ぶ事のできない大人数で以て人の正義を踏みにじるとは、一体どういうことだ!」

「それは単なる晒し上げだ」

「私を糾弾するのみに留めておけばよいものを」

「何故、自らの正義をも貶めるかのような行為を働くのだ」

「一体、何故なんだ……」


 ひとたび言葉が口を突いて出ると、あとはもう私自身にも止めることはできなかった。実に私は数分もの間、マシンガンのように言葉を投げかけ続けた。

 はっと我に返る頃には、二駅が過ぎていた。

 この時、既に私は敗北の運命を悟っていた。

 ああ、もう駄目だ。いくら正論を垂れ流したところで、彼らにはキチガイの妄言と取られてしまう。いや私自身が認めようとしないだけで、とうの昔に私の頭はおかしくなっていたのかもしれない。

 これは私お得意の妄想になぞらえて言うなら、ゾウに踏み潰されそうな一匹のアリが、タスケテタスケテと喚き散らしているようなものだ。

 だとすれば一体どこの誰が、ありんこ一粒を助けるために死地に飛び込もうか。それ以前に一体どこの誰が、ありんこ一粒が消えてなくなることに、わざわざ目を留めようか。

 嗚呼哀しき哉。蟻の子――私は、どのように足掻いたとしても象――大衆という名の圧倒的な物量に埋もれていく運命にあるらしい。

 ただの一人も私の存在に気がつかない。それはもう死と同然かそれ以下だろう。

「幸せの国の住人だから、私は死人なのだ☆」などとほざかずとも、とっくに、私は生きてなどいなかったのだ……。


「すみません、でした……………………」


 私は蚊の鳴くよりもなお小さい声で、言の葉を一枚ぽっち、呟いた。

 私の口から居出てひらひらと舞っていく葉っぱは、やがて、風に吹かれてどこかへ消えていった。

 果たして、これっぽちの謝罪で、彼らの爆ぜあがった灼熱のような正義心が満たされたかどうかは分からない。だが、見えざる冷たい冷たい槍によって心をズタズタに引き裂かれた私は、もはやそれすらもどうでも良いと感じるようになっていた。

 今私の精神を支配しているものはと言えば、「イッコクモハヤク、ココカラニゲロ」という、生存本能による警告。これただ一つに他ならない。

 あたりを、天よりも重い沈黙が支配する。



 永遠のような数分だった。

 耐えられなかった。

 私は壊れた。



 駅だ、えき。うんてん士さまが何かしゃべっている。まわりの人はなぜかみなしてふるえている。どうしたのだろうか。さきほどまでは、あれだけ、げん気だったのに。

 わたしは、ふ思ぎに思いながらじべたから立ちあがり、それからでん車のいり口まであるいた。


「ひィ……!」


 あのきょ大な男せいがあとずさった。

 もしや、わたしのかおに虫がついているのかもしれない。そう思って目のまえのまどを見ると、そこにバケモノがいた。ダレだろう……?

 そうしてトビラがひらいた。ふつうトビラのひらく音はとても小さいはずなのに、車りょうがあんまりしずかだったので、その音はよく反きょうした。

 やったぞ。このトビラの先は、きっと天国だ。誰もわたしをいじめない、見つけてすらくれない、シアワセな国だ。ほんものの、シの国だ。


 ……あれ?でもどうして、すでにシニンの私が、わざわざシの国に行きたがるのだろう?

 まあ、いっか。 もう。


 わたしは、えきのほーむにおりたった。

 セイギのみ方どもをぎゅうぎゅうにおし入れた、か物れっ車が、とおく、とおくにきえていった。

 ほーむにはだれもいない。いたとしても、だれの目にもわたしはうつらないから。

 だからムテキなのだ。わたしはムテキのひーろーとなったのだ。


 いけよ、ムテキのスイーツざむらい。

 やつらのセイギに、フツウに天ちゅうを!


 ほらほら次のれっ車がやってきた。セイギの下ぼくを大ぜいのせた、フツウれっ車が。

 てきはものすごいはやさだった。これだと、「フツウきゅう行れっ車」とよぶべきだろうか。

 それでもかんけいない。


「バンザーイ、バンザーイ。わたしのセイギにばんざーい!」

 突げき。


 そうして。すべてが終わってしまった後に、私は私を取り戻した。


 ――ああ、やはり、駄目だったのか。


 巨漢一人の正義の鉄拳には耐えられたが、その何百倍もの正義を押し固めた巨大な悪――「普通」列車には太刀打ちできなかった。

 今度こそ、私の頭部は弾け飛んだ。泥水のような脳味噌が周囲一帯に撒き散らされる。

 私が私の内に二十数年をかけて育んできた「普通」が、脳漿の雨の一筋一筋と姿を変えて、淀みきったこの世界を洗浄する。

 それでも、汚れはこの世界にこびり付いたまま離れない。何というしつこさだろうか。

 全身を肉片に変えられてもなお、私は絶望していた。心というものは肉体に依存しない。全くの偶然だが、これはその証明ともなった。

 今、私は生きていると言えるのだろうか。それとも物質として存在しないから、死んでいると呼ぶのだろうか。

 どちらにせよ、もう何もかもが済んだ後だ。

 私の負けで、見も知らない大勢の人々の勝ち。それで良いではないか。脳味噌と血と肉塊とが降り注ぐこの演台で、私は静かに消えてゆくのだ。

 あのみじめなアリンコのように。

 まさに生死の狭間にある私の魂は、この世に存在のすべてを否定されると共に、私をこの世に縛りつける呪いの鎖から解き放たれた。

 もう何も苦しむことはない。これからは楽しいことだけを考えて過ごしたい。


 しかし、ただ一つだけ心残りがあった。

 皮肉にもそれが私の三大秘密の内の最後の一つ。

 伴侶の存在である。

……おかしいだろうか? 私だって恋くらいすると、そう言ったはずだ。ううんなぜだか――照れ臭い。

 本来なら、今日は私にとって特別な日となるはずだった。先日精神病院を退院した私は、その記念に、これから妻とささやかなランチをする予定だったのだ。

 その為に見栄を張り、吐き気を我慢してあの電車に乗ったのだが。どうもそれが人生最大の過ちだったようだ……。

 このような私に長年付き添い、あまつさえ私を愛してくれた妻には感謝してもしきれない。そう心から思っているのに、私はその恩を特大の仇で返してしまった……。

 今ごろ、彼女はなにをしているだろう。

 約束の店の前でひとりぽっち。いつになってもやってこない私を、怒りながらも辛抱強く待ち続けてくれている様子がはっきりと想像できた。

 そういう、宝石のように美しい心の持ち主なのだ、彼女は。

 本当に、私にはもったいなかった。

 そうして、会話に花を咲かせながらランチを楽しんでいたはずの至福の時。その数時間後に、彼女は絶望の底に突き落とされ、涙を流して崩れ落ちることになる。

 嗚呼、なんと皮肉なことだろうか。

 私は最期の最期になってようやく、この世に存在を刻むことができたのだ。自らの伴侶の心に、二度とは癒えぬ深い爪痕を遺すという最悪の方法で。

 そう、最悪。まさに他ならない私こそが、本当の悪だったのだ。

そう気がつくには、すべてがあまりに手遅れだった。

 私は形もない涙を、ほつり、ほつりと流し続けた。

 声にもならない嗚咽で、胸がいっぱいになった。

 そんな体、もうどこにもありはしないのに。


 そうしてどれだけの時が経ったかは分からない。一分か一時間か一日か。

 生死の狭間という真っ白な空間――そんな言葉ですら形容できない全くの無――には、時という概念すらも存在していなかった。

 しかして、永遠は「終わった」。いよいよ死の国からやってきた無数の赤黒い手が、私をそちら側に引きずり込もうと蠢いているのだ。

少しだけ、待ってはくれまいか。

 決して誰の耳にも届きはしないと分かっていても、私は言いたい。

最悪の夫は、これから紡ぐ言葉がどれほど卑怯なものなのかを分かっていても、君に告げたい。

 しかし、やはりと言うべきか。声は出なかった。

 だが私は「心」の限り、声なき声を届けんとした。


 ――願わくば、貴女のこれからが、せめて幸福なものになりますように。


 あるいは、貴女という存在さえもが、精神病に冒された私の、単なる空想に過ぎないとしたら。

 そうすれば、決して貴女は傷つかないだろう?

 そうであったらいいと、私は思うのだ。




 すべてが終わってしまう、その前に。

 この形なきものへの怒りを、嘆きを。

 そして、君への謝罪と胸いっぱいの愛を叫べたら良かった――――。




 後にはただ、後悔ばかりが残った。

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