第62話 上書きさえも彼だけで






「本当だよ。…あぁ、でも上書きしておく?」


「…あ…」



上書き。

昔からよくしてもらっていた、この行為。

キスマークを、傷の上に付けてもらう。

そうしたことで、忘れようとしていた。



…いや、彼が忘れさせようとしていたのか…?



「…大丈夫です」


「え?」


「…してもらわなくても、大丈夫です…」


「……そう」



息を大きく吐きながら、俺は言う。

そんな俺を、洋介さんは微妙な顔で見つめた。

前までは、迷いなくて付けてもらっていたから、不思議で仕方が無いんだろう。


でも、今は違う。

この体に、少しでも他人の跡を残したくなかった。

俺の体に刻まれるのは、ただ1人だけでいい。





拓夢だけでいい。





出来れば、そうなってほしかった。


そんなこと、俺が望んだって仕方が無いのに。

向こうは俺にそんな気持ちを、向けてなどいないのだから。


自分が惨めで馬鹿らしくて、思わず嘲笑した。



「洋介さん、珈琲でも飲みませんか?」









湯気の出るカップが、2つ。

ひんやりとしていた部屋に、久しぶりな香りが広がった。

小さなテーブルに、それを置く。



「…どうぞ」


「ありがとう」



差し出した珈琲を、笑顔で受け取る洋介さん。

部屋着に着替えた俺は、だんだんとリラックスしてくる。


珈琲なんて、久しぶりに淹れた。

香ばしいような、どこか甘いような香り。

空気の色が変わる。

空気の重さが変わる。

空気がドロっとなって、動きが肌に感じられるかのような。


そんな感覚が、可笑しくて。

好きだった。



「…そういえば、この珈琲って期限切れてないよな…」


「…はっ?」



ふと感じた疑問を呟くと、洋介さんがガバッと顔を上げた。



「ちょっと待て。勘弁してくれよ…」


「あ、砂糖忘れてた」



何か嘆いている洋介さんを無視して、俺は席を立った。

スティックの砂糖を探すが、見当たらない。

以前飲んだ時に、使い切ってしまったらしい。

…仕方が無い。



俺は調理用の砂糖が入った入れ物を手に持ち、再び席に着く。

そして迷いなく、珈琲に砂糖を小さじ3杯程入れた。


その様子を見て、彼はじとっと睨みつけてくる。

彼はブラック派だから、理解出来ないんだろう。

まるで、信じられないものを見ているかの様な顔をする。



それが可笑しくて、俺は久しぶりにケラケラと笑った。




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