III.
「お待たせいたしました――」
ブレンドと、ラテアート付きのそれとを置こうとして、僕は咳き込みそうになった。と同時に、懐かしくもなった。
「の、ノラ、それって」
テーブルに置かれていたのは、あの黒と赤の上品なパッケージ。ジャルム・スーパー16。あの独特の香りが、辺りに充満している。マナは全く気にしていないようだが、僕はやはりこの香りが苦手だ。
「久しぶりに。……やっぱり、駄目?」
「に、苦手なのは認めますけど、大丈夫ですよ。びっくりしただけです」
煙草の香りは、どれも似たりよったりだ。常連客の中にはヘビースモーカーかつこだわりの強い人もいるが、どんな銘柄であれ、大体は「煙草の匂いだな」と思うほどの、大きな違いはない。
フレーバータイプならむしろ歓迎する。たまに、コーヒーやら紅茶やら、匂い付きのものを吸う人もいる。そちらは程よい香りが漂う程度なので、香水なんかとそう変わらない。
しかしやはり、この煙草は何かが違う。どんな香り、と言われると、表現が難しい。薬品のような香り、しかしどこかで嗅いだことがあるような。不思議なものだ。
「凄いよね、これ。吸うとぱちぱち音がするんだよ」
マナはジャルムを気に入ったようで、ノラの吸う様をずっと眺めている。確かに、彼女が息を吸い込むと、煙草の先端がぱちぱちと弾けるような音を立てる。
「ところで兄さん、これ、何の花?」
マナは自身のコーヒーを指差し、首をかしげた。
鳥の羽のように縦長に伸びた花弁と、真ん中にちょこんと居座る柱頭。クリームを使うわけだから、白い花のほうがうまく再現できる、というのは嬉しい発見だ。
「レウィシアだよ」
ノラに教えてもらった花。その生態も花言葉も、調べたらちゃんとヒットした。あの歌の歌詞に沿い、愛の象徴、もしくは別れの手向けとして贈る花としては、ぴったりの花なのだ。
花言葉は、「熱い想い」。ノラは意外にも、そういうロマンティックな知識も豊富なのだろうか。
「レウィシア……」
ノラが呟く。ぼんやりとそのアートを眺めて、やがて口を開く。
「マナ、冷めないうちに飲んだら?」
「その前に、写真撮らないと」
案外、この二人は相性がいいのかもしれない。少しホッとする。
できればこのまま、彼女と仲良くなってくれれば嬉しい。
僕はただの店員というだけの関係にして、昨晩のことは忘れてほしい。そういう卑怯で一方的な願いは、心の中だけに秘めておく。
「ねえノラ、お店の名前の由来、知ってる?」
マナが顔の距離を詰めながら尋ねている。
「名前……お店の名前、何だっけ」
「ええ……?」
残念、ファントマイルの由来について話そうとしたらしいが、『風のクロノア』の話をする以前の問題だった。というか、毎日来ているのに店名を見ていないなんて、やはりノラは天然なのかもしれない。
結局マナは、一から十まで全て説明し、おまけに肝心の由来は「店長のその場のひらめき」という、何とも締まらない話をする羽目になっていた。
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