Chapter 5: Duvet

I.

 ジェヴェッタ・スティールの『Calling You』が鳴り始める。一番のサビまで、動かずにそのまま聞き入った。その後アラームを止めて、時刻を確認する。午前七時。

 特別、何かが変わった朝というわけでもない。ただ初めて、アラームに起こされた。それもそうだろう、昨晩はなかなか寝付けなかった。



 ――昨日、ノラの家での、その後。

 ほんの一噛み、肉を剥ぎ取った。表皮は硬く、それを突き破ると今度は脂肪が顔を出す。その奥には筋肉がうごめいている。

 筋繊維を傷つけないよう、僕は柔らかな脂肪分までで歯を止めた。ゆっくりと身を引くと、僅かにへこみの出来た首筋から、一筋の血液が流れ出た。



 僕の唾液には、止血剤や麻酔の効果もあるのだろうか。彼女は悲鳴一つあげなかった。左手で、無くした肉を確かめる。

 僕は僕で、口内に広がる塩気と脂とそれらの食感を前に、嬉しい悲鳴を上げそうだった。

 一言でいえば、堅い。上質な牛肉とはまるで違う。歯ごたえのある感触は、鶏肉に近い。人間の肉は酸っぱくて不味い、というのはよく聞く話だが、僕ら一族にとってはそうではないらしい。



 それを美味しいと呼んで良いものか、その場では分からなかった。しかし、もっともっと食べたくなったのは確かだ。もう一口、あと一度だけ、と。


「ウル……」


 彼女の声が、その歓喜を静寂の支配する現実へと引き戻す。彼女は努めて表情を崩さないようにしているが、しかし気づいてしまった。

 その両手は、小刻みに震えている。

 それに、食べた瞬間に分かったはずだ。彼女には、肉らしい肉などまるでない。あっという間に、骨へ当たってしまいそうなほどに、何も身に付いていない。



 今、ここで本能のままに食らいついてしまえば。彼女は果たして、何秒保つだろうか。左胸に宿る心の臓腑まで、僕は何秒を要するだろう。

 彼女に残される時間は、あと一分にも満たないのではないか。

 そう考えると、僕は急激に胃酸がこみ上げてくるような感覚を覚えた。


「食べられない」


 食べたら彼女は、あまりに呆気なく、何の余韻もなく、死に至る。その事実を、受け入れられなかった。


「すみません、ノラ。わ、忘れてください……」


 僕は走っていた。玄関を飛び出し、柵を飛び越えて地面まで跳躍した。ほぼ無傷で済んだが、それに驚くこともなく、すぐさま自身の家に向かって走り続けた。

 何も考えたくない。強烈な吐き気が警鐘を鳴らす。それを懸命に、歯を食いしばって耐える。吐き出す訳にはいかない。彼女の一部を奪ったのだ。それを道端の芥と同じ末路にしてはいけない。

 せめて、その僅かな血肉を、この身体に残す。それしか、僕には許されていないのだから。



 家に着いた時、マナは何か言っただろうか。それとももう寝ていただろうか。記憶が朧気だ。次に意識を取り戻した時、耳元では『Calling You』が流れていた。

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