IV.

 CDショップはすぐ近くにある。徒歩五分程度だ。分かってはいたが、彼女は一言も喋らない。ただ隣をついてくるだけだ。



 しかし、背丈があるとはいえ、僕と彼女とでは歩く速度が違う。

 いつものペースで歩いてしまうと、彼女は少し早足ぎみになってしまうようだったから、こっそりと歩調を合わせてみせた。



 彼女はそれに気づくだろうか。気づいたところで、変わらぬ無表情で受け流すのだろうか。彼女はどんなことなら心動かされるのだろう。


「ここです」


 よくあるチェーン店だ。街のレトロな景観を台無しにしかねないごちゃごちゃした内装だが、品揃えは良いから重宝している。

 よほどマイナーなものでない限りはだいたい見つかる。


「何をお探しなんですか?」


 尋ねると、


「敬語、しなくていい」


 つぶやかれた。はじめ、僕は「警護」と勘違いして、大げさだな、と笑いそうになったが、なるほど敬語。

 確かに今は客と店員という間柄ではない。しかし、弱った。ジュリア以外の人に敬語を使わない人なんていなかったからな。

 父ですらかしこまって話している。


「ええと……それは難しいですね。あの、あれです、仕事柄の」


職業病ワーカーホリック?」


「それです。多少崩すくらいなら出来ますけど」


「なら、頑張ってみて」


 彼女はそう言って、マフラーから口元をぴょこんと取り出した。僕のコートの袖を引いて、店内に入る。


「ああそうだ、結局なにを探すんです?」


「特に決めてない」


 ビートルズじゃないのか、と呆気にとられる。てっきり、さっき聞いて気に入ったから欲しくなったんだと思っていた。



 言葉通り、本当に彼女は店内をぐるぐる回るばかりで、決まったアーティストに注目したりなどしなかった。

 時折、視聴用のヘッドフォンを付けてみたりもしていたが、三分もしないうちに取り外していた。

 せっかくなんだし、何か買って帰ってほしいな、と思い、僕はいくつかのCDを持ってきた。


「ノラ、選んでみたので聞いてみてください」


 手渡すと、彼女は素直に一枚一枚視聴をはじめた。

 目を閉じて、歌詞カードには目もくれずに、音だけを確かめている。脚でリズムを刻むわけでも、指で軽やかに拍子を取るでもない。


 渡したのは、お決まりのスカボロー・フェア、ビートルズ、その他いくつかのアルバム。有名無名は関係なく、純粋に僕の趣味をそのまま並べただけだ。



 流石に全曲を聞かせるわけにもいかない――このときだけ、ノラは途中で視聴をやめようとしなかった――ので、アルバム内のオススメの曲だけ僕が選曲をした。



 しかし、彼女はずっと同じ表情で、ぴくりとも動かないままだ。やはり趣味は異なるのだろうか。そろそろ気まずくなってくる。

 すると、ある一曲のところで、彼女はボリュームのつまみを回した。僕としては、かなり意外な曲に反応を示したのだ。

 三分半程度の短い曲だが、この時彼女は、初めて歌詞カードを目で追いながら聞き入った。


「その曲、良かったんですか」


 尋ねると、こくん、と少し頷いた。

 クイーンの『'39』。『A Night at the Opera』の五曲目。知名度で言えば、その一つ前の『My Best Friend』の方が遥か有名だ。歌詞自体も、よくあるような、愛を語るものとは一線を画している。


「この曲、好き」


 好き、という甘酸っぱい言葉を、彼女が口にするなんて。嬉しくなってしまう。しかし、曲調はやたらと暗いわけではないし、かといって底抜けに明るい歌詞でもない。浦島効果を題材にした、悲しい別れの歌だ。



 カフカを読んでいたくらいだし、ジョーン・バエズの『Here's to You』辺りの、薄暗いバラードを好むんじゃないかと思っていた。

 彼女はその後、クイーンのそのアルバムと、スカボロー・フェアが収録されているサイモン&ガーファンクルのベストアルバムを購入し、店を後にした。



 彼女の家はここからそう遠くなく、僕はついでに彼女を送ることにした。同じアパルトメントでした、という奇跡は無かったし、むしろ僕の部屋と正反対の方角だ。



 街頭の立ち並ぶ、石畳の駅前通り。角を曲がり、見慣れた灰色の住宅街。

 自販機が「あったか〜い」を主張し、野良猫には効果のない、水の入ったペットボトルが立ち並び、途端に現実に引き戻される感覚を覚える。



 彼女もまた、マンション住まいだった。僕のようなレトロチックなものではなく、立派な高層マンション。

 明らかにお金持ちしか入れない様相だ。すると彼女は、立派な家柄の出自なのだろうか。



 だとしたら、こうして自由に読書をして暮らしている理由が分からないのだが、詮索しようとは思わない。

 もしそうだとしても、僕だって似たようなものなのだから。


「ありがとう」


 どうやらエントランスの時点で認証が必要らしく、見晴らしの良い景色は拝めないようだ。

 きらきらと光るマンション内部を背にして、彼女は告げた。口元はやっぱりマフラーに埋めてしまっていて、笑っていたとしてもきっと分からない。



 ジーンズはぴったりと肌に吸い付いていて、やはり細くて脆そうだ。改めて、彼女の病的な痩せ方を目の当たりにする。


「こちらこそ、ありがとうございました。またお待ちしています」


 彼女が中へ入っていくのを、僕は待とうとしていた。しかし、彼女はなかなか動かない。もしかして、僕が先に立ち去るのを待っているのだろうか。

 このままじゃお互い、寒空の下、無言で立ち尽くすことになる。


「あの」


 と、彼女の帰宅を促そうとした。それを偶然か、彼女が遮った。


「明日」


 その続きを、彼女は言うか言うまいか、と戸惑っているようだった。取り繕うように、ブーツをこんこん、と叩く。


「明日も、行く」


 驚きつつも、彼女を引き留めようとした。しかし、ノラは打って変わって、入場用の番号を入力し、さっさと中に入っていってしまった。

 があっ、と扉が閉まっていくのを見ながら、ぽつりと呟いた。


「明日、休みなんだけどな……」


 まあ、店長かジュリアが何とかしてくれるだろう、と考えることにした。

 冷えてきた、僕もそのまま帰ることにした。



 去り際、もう一度マンションを眺める。十階か、十五階か。見上げると、首が痛くなってくる。てっぺんはどうなっているだろうか。想像もつかない。



 ――これが、ノラと僕の、初めての付き合い。デート、という言葉を使ってしまって良いのだろうか。

 そしてこのマンションこそが、その後の僕らにとって、引き金へと変わるのだ。

 僕はこの日からそう遠くない未来で、屋上からの景色を知ることとなる。



Chapter 2 - END.

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