II.
本、煙草、コーヒー。本、煙草、コーヒー。ブリキ人形のように、同じ動作しかしていない。
昨日と違い、他に二、三人、お客さんが来店されている。しかし彼女は、扉の開く音がしても全く反応しない。そういえば、皆大好きな携帯も使っているところを見ていない。
浮世離れな人というのは、本当にいるんだな。と遠巻きに見ながら思う。そしてふと、今更ながら気がついた。
「いま、何時?」
隣で食器を洗うジュリアに声をかける。壁掛けの時計はあるのだが、なぜか反射的にそう尋ねてしまった。
「んあ? えーと、もうすぐ十七時」
開店から今まで、彼女は一度も料理を注文していない。だからヒマを持て余しているのだ。普通の客なら、トーストの一つくらいは注文するだろうから。
彼女はずっと、何も食べずに過ごしている。
「ウェールズ、用意しといて」
僕は前掛けのエプロンを外して、彼に伝える。
「ウルっち、休憩行ったっしょ?」
「たまにはサボらせてよ」
愛想笑いでごまかそうとするも、彼はここぞとばかりに店長を呼ぶ。
「店長、職務怠慢を密告しまーす」
別の客の注文を受け、店長は何かしらのコーヒーを作っていた。視線は動かさず、
「まあ、たまにはジュリア君にも働いてもらおうかな」
事実上の承認だ。つくづく緩い職場だ。
プリンス・オブ・ウェールズを片手に、僕は彼女の席へと歩み寄った。コーヒーよりも紅茶のほうが好きだというのは、店長も知ってのことだ。
ゆえに僕が来てから、紅茶葉の種類も劇的に増えた。
たまにはジュリアの軽さを見習うかな、と遠慮なく向かい側の椅子を引いて座る。
「少し良いですか」
彼女はちらっと僕を見て、すぐまた本へと視線を戻して、僅かに眉を寄せた。
「別に、構わない」
ちょっと怒っただろうか。普通なら取り繕うところだが、ノラという無表情な人が相手だと、むしろ嬉しくなる。
休憩ついでに、と取ってつけた言い訳を添えて、僕はテーブルの端にある砂糖の入った容器に手を伸ばす。
蓋をぱかっと開いて、何とも言い難い声が漏れた。空っぽなのだ。
ジュリアのやつ、また補充を忘れたな。
「あの、すみません。まさか切らしていたとは……」
慌てて店員として謝罪をするも、彼女は再び無表情のまま、淡々とコーヒーを啜る。
「違う。私が使い切った」
「使い切った?」
容器には当然、山盛りの砂糖が入れてある。あくまで、ジュリアが開店前のチェックを怠っていなければ、ではあるが。
とはいえ、仮に昨日の閉店時のまま放置されていたとしても、精々半分まで減っていれば良いほうだ。
どのみち、一人でそれを使い切るなど、早々ない。
「飲む?」
彼女は飲みかけのブレンドを差し出してきた。今日も同じく、ずっとブレンドだけを注文している。
困惑しつつもそれを受け取り、一口だけ飲み込む。と同時に、僕は口内に巨大なケーキを連想した。
「あ、甘っ……!」
恐ろしいほど甘かった。砂糖を直接食べたほうが早いくらいに甘ったるい。スプーン何杯分入れたのか。そっとカップを返し、ウェールズで口直しをする。
「ノラさん、甘党だったんですね」
「さん、いらない」
「え?」
「ノラでいい。あと甘党じゃない」
いや、十分甘党だろう、という突っ込みは胸のうちに秘めつつ、関心は別のところにある。
呼び捨てで良い、とはまた唐突だ。人間、ものの二日でここまで急接近するものだろうか。
「じゃあ僕も、ウルとお呼びください」
こくん、と頷き、彼女は片手で器用にページをめくる。
夢野久作の『ドグラ・マグラ』。昨日が『審判』、今日がそれ。どちらも読んだことがあるけれど、そんなものばかり読んで嫌にならないだろうか。
決して開放的な読後感は得られない作風だ。
「あの、一つ良いですか」
彼女はそのままの姿勢で頷く。脚を組んで、時折肘をついたりして。恐ろしく華奢な体つきのはずなのに、とても魅惑的に見えるのはどうしてだろう。
人は表面についた肉に恋をするはずなのに、彼女を見ていると、透けて見えそうな骨にこそ価値がある、と言われているかのようだ。
「お腹空いてないですか?」
パスタ、トースト、ホットドッグ、ライス、スイーツ。標準的な料理はメニューに載っているし、実は隠しメニューに「店長特製からあげおにぎり」というものもある。これが想像以上に美味しいのだ。常連客でも滅多に知らない事実だ。
しかし彼女は、
「いらない」
とだけ。
「でも、何も召し上がってないですよ」
そんな事は本人が一番分かっているだろうが、どうにも彼女の場合はすっかり忘れていた、なんて事がありそうなので、あえて聞いてみた。
「食べた」
本に注ぐ視線はそのままに、空いた手で鞄をまさぐり、チョコレート菓子の空箱を取り出した。
確かに意外とお腹は膨れるけれど、主食にしようとは絶対に思わない。何て燃費の良い身体なんだ、と言いたくなるけれど、「だからこんなにガリガリなのか?」と勘ぐってしまう。
「そんな……ご飯食べましょうよ」
言ってから、失礼な言い方だったな、と後悔する。でも、それでも彼女は表情を崩さない。
一体何があれば、彼女は泣いたり笑ったり怒ったりするのだろう。
「いらない」
さっきと同じ、堂々巡りだ。仕方ない、ここは退散しよう。
もう少しサボっていても店長は怒らないだろう――それほどに僕は、ジュリアと違って仕事熱心なのだ――が、僕自身の正義感みたいなものがそれを許さない。
そもそも、職務怠慢は肌に合わない。
ウェールズをぐっと飲み干して、お邪魔しました、と一声かける。
立ち上がり、椅子を引いたと同時に、彼女は爪でトントン、とテーブルを叩いた。
細長い指。縦に細かい筋が走る、栄養失調を示している爪。なのに僕は、それを見て一瞬、空腹感を覚えた。
「昨日の曲、流せる?」
本を閉じ、僕を見る。こうして目と目が合うのは、珍しい。昨日、帰る時に一度合ったはずだから、二回目だろうか。ようやく会話をしている気分が味わえる。
「ええ、構いませんよ」
浮かべた笑みは、なかなか取れない。カウンターに戻って店員に戻ってからも、しばらく拭えなかった。『スカボロー・フェア』。それが僕と彼女を繋ぎ止める、運命の曲なのかもしれない。
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