IV.
お昼を少し過ぎた頃、休憩に移った。ここ『ファントマイル』は店自体が静かなら客足も静かで、一日に訪れる客数は両手に収まるくらいのときが多い。大半は常連客だ。
コーヒーも紅茶もそれなりに上質なものを使っているものだから、大した利益にならない。店長にとっては道楽か趣味に近いのだろう。
そういうわけで、従業員の休憩の仕方も自由だ。なんと店内に腰掛け、そのままご飯を食べたりくつろいだりして構わないのだ。
年に一、二度ある混雑時以外は、当たり前のように客の一員かのような面をして席を占領してしまうのだ。
まあ、ご飯も飲み物も自分で用意するから、客になった気分は味わえないけれど。
僕はいつも通り、カウンターの隅っこでパスタをぐるぐる巻いていた。
ぐるぐる。ぐるぐる。これが中々飽きない。
「ねえ」
突然、横から声が入ってきた。ちょうど、サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』が終わったところだ。
驚いて隣を見ると、例のお客さんが隣に席を移していた。まだ仄かに、あの煙草の香りが残っている。
「店員さん」
「何でしょう」
「さっき流れていた曲、わかる?」
相変わらずその声は、抑揚に乏しい冷めた音でありながら、弱々しく寂しげな形をしている。
聞いていて、静かに脳みそが溶かされていきそうな――それこそ、『スカボロー・フェア』のように。
僕はアーティストと曲名を教え、元はイギリスの民謡がモデルなのだと付け加えた。
そう、と素っ気ない返事で済まされ、彼女は煙草に火を点ける。またあのどぎついやつか、と身構えそうになるが、よく見ると取り出した箱は全然違う色をしている。
赤い箱に縦長のフォントでポールモールと書いてある。これなら僕も知っている。ルパン三世の次元が吸っているやつだ、と以前ネット上で見かけた。
「ありがとう」
と、それは一瞬、何に対しての? と疑問に思うほどゆったりとした喋り方だった。
吐き出された煙は、先ほどとは打って変わって、甘みを帯びた柔らかな香りが広がる。煙草特有の焦げたような匂い、塩っ辛い匂いがあまりなく、すんなり呼吸を出来る穏やかさだ。
「先程はすみませんでした」
気にしているのかな、と思い、先に謝った。彼女は前方を――つまりカウンターの方へ向けて煙を吐いて、灰をちょんちょんと落とす。
カップを丁寧に拭き上げる店長が灰色の煙に包まれる。僕に煙がかからないようにする気遣いなのかもしれないが、実は店長も煙草には縁がない。大丈夫だろうか、とハラハラする。
「何が?」
こちらを見る顔は、ぴくりとも変わらない。表情は捨ててきた、と言わんばかりに。動くのは眼球と口だけだ。
「いえ、ほら、午前中――」
と、ジャルムという煙草の匂いを煙たがってしまった事を説明する。謝りたいのに、何について謝っているかまで言わなくてはならないのは、なかなかに恥ずかしい。
「別に……気にしてない。きつい匂いなのは事実」
「ジャルムっていうのは、初めて見ました」
「うん……そうだろうね」
「ネットで見たんですけど、その、タール四十ミリグラムって言うのは、やっぱり多いんですか」
「多い。重さの目安は、お酒と同じ」
確かに、ビールが五パーセント前後で、ワインが十五パーセント前後が一般的だから、ほぼそのまま当てはまる。それを踏まえると、四十なんてのは自殺行為も甚だしい数字だ。
とはいえ、これはあくまでタールの重さであって、依存性を高める成分であるニコチンは別だ。
検索した所、通常の煙草だとニコチン含有量はタールの十分の一ぐらいの量がほとんどだ。タール五ミリグラムならニコチン〇.五ミリグラム、といった具合に。
ジャルム・スーパー16(どうも16が付くらしい)はタール四十ミリグラムに対してニコチン一.九ミリグラム、突出して多いというわけでもない。
非喫煙者からすれば、一ミリグラムに満たない変化でそんなに変わるものなのか、と疑問に思うが、恐らくはその目に見えない数字の変動が肝なのだろう。
「そのポールモール、凄く良い香りですね」
灰皿から浮かぶ煙を見ながら、にこりと笑いかける。しかし彼女は無表情を崩さず、
「そう」
とだけ、返した。
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