II.

 夜が明けると、雨はすっかり上がっていた。代わりに水たまりがそこかしこに浮かんでいて、このまま水浸しの街になっても面白いかもな、と空想する。



 上体を起こし、体を二、三度左右にひねる。ぼきぼきぼき、という景気の良い音が鳴って、僕は感嘆のため息を漏らす。

 携帯からカーペンターズが流れて、すぐさま止める。生まれてこの方、アラームに起こされる事はなかった。絶対にそれより先に目が覚める。

 ただ、普通の人はそういう音で目を覚ますものだ、と聞いているから、慣習的に僕も設定をしているだけだ。


「バイト行こう」


 呟いて、クローゼットに手を伸ばす。

 コーヒーもパンも必要ない。数ある中から喫茶店のバイトを選んだのは、朝食を作る手間が省けるからだ。



 ちょっと急なアパルトメントの階段を降りて、地上に立つ。アメリカン・ドリーム風の景色を目指した街づくりは、なかなか良い判断だと思う。

 朝の透き通った空気には、色彩豊かな壁や騒がしい看板が可愛らしく見える。



 バイト先は目と鼻の先、徒歩一分という近距離だ。おかげで、服装は制服のままで問題ない。もっとも、シャツに細身のスラックス、サスペンダーにベスト、ワトソン君、と声を掛けられそうな装いは普段着とそう変わりない。



 古本屋の隣にちょこんと存在するカフェは、名を『ファントマイル』と言う。店内はカフェというよりバーに近く、カウンターの他にいくつかのテーブルが並んでいる。

 大衆用と言うよりは個人向け、奥様方の小うるさい語らいよりはしっとりと読書を嗜む人のための場所だ。だから気に入った。



「おはようございます、店長」


 店長であるリンゴは、あまりお喋りではないが、とても温厚な人だ。何より渋い。声も渋ければ見た目も渋い。こんなに髭の似合う初老もいないだろうと思う。僕にとって理想の歳の取り方だ。

 しかし、あまり歳の話をすると機嫌を損ねる。温厚とは言え、触れてはいけない地雷はちゃんとある。


「おはよう、ウル。先に食べていなさい」


 カウンターの真ん中に、コーヒーとトーストが置いてある。まだ元気に湯気が遊んでいて、出来立てなのだとひと目で分かる。流石に一年半も働けば、僕が何時に来るかも分かりきっているのだろう。

 一足先に流し始めたBGMを聞きながら、あっという間に平らげる。今日の一曲目はジョーン・バエズで、静かな朝にはぴったりだった。



 皿を洗い終えて、そろそろ開店時間だ、と二人で襟を正した丁度その時。


「空いてますか」


 氷柱のように鋭く、冷たく、しかしどこか脆い声色が届いた。レトロな扉が少しだけ開かれており、よく聞けば上に付いているベルが小さくちりん、と鳴っている。

 一瞬、呆気にとられはしたが、僕も店長も営業的ではない純粋な笑みを浮かべて答える。


「どうぞ、お好きなところへ」


 女性だ。すらりとして、かなり華奢だ。しかし背丈は僕よりもやや低い――確か百七十五センチ程あったはずだ――くらいで、つまり高身長に属する高さだ。

 目の下にはうっすら隈があって、頬は余計な肉をナイフで削ぎ落としたように薄い。



 真っ黒のロングコートは裾のほうが完全に弄ばれており、それはつまり身体の細さに衣服が適応出来ていないことを示している。着ているというより着させられているという方が自然だ。

 片腕で抱え込めそうな小さい肩は、今にもそのコートをすとんと落としてしまいそうである。

 彼女は肩のあたりをぽんぽんと払い、埃か何かを落としている。


 一目見たとき、僕は真っ先にこう思った。

「今にも死にそうな顔をしている」と。

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