短編

クトゥルフ神話とい世界・前編

――世界には、人間には触れることのできぬ古き神々が存在するという。


 すでにこの世界から去りし彼らは、しかし有形無形の影響を我らの文明に与えていると言われる。

 例えば……狂える詩人『アブドゥル・アルハザード』の記せし魔術書『ネクロノミコン』これは古き神の啓示を受けた彼が記した深遠なる叡智の書物であると言われている。

 そして……そのような大いなる存在があるとすれば、影響はこの世界だけにとどまるものではない。

 これは、ある『い世界』において、邪神が与えし影響を記した物語である……


 『王都から出て右の村から出て右の村』

 かつての魔族との戦いによる傷跡も今は昔。復興が進むこの村に、一人の男が居た。

 名を、山下マイゼル。この村でも1,2を争う知恵者と呼ばれる、若き俊英である。

 ある日の夜。マイゼルが自室でぼんやりしていると、ふいにカーテンが風で揺れた。


(おかしいな……窓は閉めていたはずだけど)


 マイゼルはカーテンをめくり、窓を閉めようとした。だが、窓はすでにしまっており、風が吹き込む隙間もない。

 何かの見間違いだろうか。マイゼルは首をかしげつつ、カーテンを閉め直して振り向いた。

 そこに、一人の男が立っていた。


「ひゃ!? あ、あなたは?」

 

 部屋の鍵はしまっている。窓も、しまっていた。人が入ってこれるはずはない。

 マイゼルが問うと、男は笑った。笑った、と言っていいのだろうか? 顔は闇で塗りつぶされたように真っ黒だ。だが、マイゼルは確かに笑ったと認識した。


「この村で一番の知恵者。マイゼルくん、だね? 私は……ナイ、とでも呼んでもらおうか。君に、知識を授けに来たんだ」

「知識……ですか? そ、それは……えっと……」


 男のただならぬ雰囲気に、マイゼルは悟った。これは、人知を超えた何かである。マイゼルは思わず後ずさりをしそうになった。だが、足は地面に張り付いたように動かない。


「怯えることはない。すぐに、分かる」


 ナイは、マイゼルの頭に手を触れた。

 その瞬間、マイゼルの脳裏には濁流のように知識が流れ込んできた。海底にて眠るもの。千匹の仔を孕みし森の黒山羊。這い寄る混沌。盲目にして白痴の神。

 マイゼルは膝をつき、荒く息をした。ナイは、その姿を嗜虐な笑みを浮かべて見下ろしている。


「あ……あなたは……この知識を……私は……どうすれば……」

「広めたまえ。それが、君の使命だ……手始めに、その知識を書に記してみてはどうかね?」


――古き神々は、この世界に有形無形の影響を与えている……そして、それが善なるものとは限らない。世界を滅ぼす知識を与えることもあるのだ。

だが――


「しょ……もつ……しかし……」

「ん? 何をためらうことがあるかね」

 

 マイゼルは、震える声でためらうようにつぶやいた。

 ナイ――這い寄る混沌と呼ばれる旧支配者『ナイアーラトテップ』とて、見誤ることはある。この時の、ナイの誤算は一つ。


「あの……私……字がかけません」

「えっ?」


 この世界には……未だバカしか居ないということであった。


「んー? え、待って待って。確認したいんだけど。この文明、文字とかはあるよね?」

 

 困惑気味のナイに問われて、マイゼルは答えた。


「当然ですよ! ひらがなもカタカナも漢字もあります!」

「良かった良かった」

「私は全部書けませんけど」

「じゃあ意味ねーな! お前この村で一番の知恵者じゃなかったのかよ!」

 

 ナイは頭を抱えた。部屋の調度などを見た感じ、そこそこの文明レベルはあると睨んでやってきたのである。それがまさかこんなことになるとは思っていなかったのだ。


「一番の知恵者ですよ! 村でひらがなが読めるのは私だけですからね!」

「識字率低い! え、待って待って。じゃあこの、いかにも工業製品っぽい家具はどうやって作ったの?」


 見たところ、家も家具も作りがしっかりとしている。これは流石に村で文字を読めるのが一人だけとかいうレベルの識字率で作れるものとは思えなかった。


「あ、それはこの村に昔から伝わる『なんでも作れる機械』で作ったものです」

「なにそれ!? どういう仕組み!?」

「え……わかりませんけど……なんか昔からあるから……便利だなって……」

「そういうよくわからないものを軽々しく使っちゃいけません!」

「よくわからない知識を軽々しく授けて来た人に言われたくない……」


 マイゼルはジト目でナイを見た。ナイは慌てて首を振った。


「ま、まあ、いいや。そこを掘り下げるのは怖いからやめておこう。家も家具も服も足の裏にバネがついた靴も『なんでも作れる機械』で作った。OKOK。でもまあ、この世界にひらがなはあるんでしょ? じゃあ、それぐらいなら教えられるから、とりあえずひらがなで魔術書書いてみようか」

 

 ナイとしてもあまり良く分からないものに触れたくはなかった。今求められるのはとりあえずこの知識をマイゼルが世界に伝えてくれることである。細かいことは無視して行きたかった。

 

「ええっと、じゃあちょっと五十音の表作るから、これを見てひらがなを覚えてみようか。『あいうえお かきくけこ さしすせそ……』」


 ナイは手ずから五十音表を作ってマイゼルに読み聞かせた。

 直接脳にぶち込むこともできたのかもしれない。だが、ナイは深遠なる叡智や邪悪な知慧をもたらしたことはあってもひらがなを直接脳にぶち込んだことはなかったし、そんなことに邪神の力を使いたくはなかった。

 ナイに教わりながら、マイゼルはひらがなの書き取り練習を行った。はじめのうちは困惑していたマイゼルだったが、書き取りをしていくうちに目の色が変わっていった。


「お……おお……わかりやすい……! ひらがながするする書ける……! こ、これが……神の叡智……」

「どっちかというと国語の先生の叡智かなー」

 

 マイゼルは自分の書いた五十音を感動的な目で眺めたあと、ナイの足元にひざまずいた。


「ありがとうございます……! この力、必ずや役立たせていただきます!」

「その言葉、ひらがなじゃなくて深遠なる叡智を教えたときに聞きたかったなあ……」


 小学一年生の国語を教えて感謝されたのはナイにとってこれが初めてだった。家庭教師か、とナイは思った。


「まあいいや。じゃあ、そのひらがなで魔術書を記してみようか。まずは、邪神の復活の話から始めよう。まず星辰せいしん正しき時に……」

「はい、先生」


 生徒マイゼルは手を上げた。


「先生じゃありません。邪神です。何でしょう」

「星辰ってなんですか?」


 もはやナイはこの程度ではうろたえなかった。むしろ、ちょっとむずかしい言葉を使っちゃったかなと反省する余裕すらあった。


「ああ、ごめんごめん。星の並び、って意味。つまり、星辰正しき時とは邪神の復活に適した星の並びがあるからそうなる日に、ってこと」

「星の……並び……?」

「天文学は難しいかー」


 もはやナイはこの程度ではうろたえなかった。むしろ、ちょっとむずかしい概念を使っちゃったかなと反省する余裕すらあった。


「よし、パスパス。もう日付そのまま書いちゃおう。ここってこよみは太陽暦? 太陰暦?」


 マイゼルは首をかしげた。ナイは太陽暦太陰暦は難しかったか、と思った。


「こ……よみ……?」


 それどころではなかった。


「ちょっとまって!? 暦法ないの? カレンダーは!? 一ヶ月が何日かわかる? 三十?」

「先生」


 マイゼルはナイの目がある辺りをまっすぐ見た。


「私は四までしか数えられません」

「それじゃあ暦法無理だな! というか片手の指五本あるんだからせめて五まで数えろよ!」


 マイゼルは手の指を順番に折り、感動したようにナイを見た。


「おお……! これが邪神の」

「算数の先生の叡智かな!」

「しかし……このような叡智を持つ人間は他にほとんどいません。大体は『1,2,たくさん』以上の数を数えられませんよ」


 ナイは額に手を当ててため息をついた。


「マジかよ……」

「あ、でも魔族はもっと頭が良いですよ」

「そっか……そっちにすればよかったかな……」


 マイゼルの言葉に、ナイは多分に後悔を込めて呟いた。


「ええ、四天王が居るぐらいなので多くが四まで数えられます」

「どっちでも同じようなもんかー。じゃあ別に人間でいいやー。ええっと何の話してたんだ……星辰正しき時について書きたいのに暦がないんだっけ……じゃあもう、タイミングは近づいたら指示するからパスでいいや」

「おお! ありがたい!」

「おかしいなー。旧支配者なのになんかリマインダーみたいな扱いされてる。ええっと、まあ、次にいこう。次。邪神を復活させるための呪文を書こうか。とりあえず、聞いたまま書いてみて」


 マイゼルはうなずき、紙とペンを持ち直してナイの言葉を書き写す準備をした。


「復活の呪文……っと、はい。大丈夫です」


 マイゼルが頷いたので、ナイは喉を鳴らして呪文を唱えた。


「Ia Ia Cthulhu fhtagn Ph'nglui mglw'nafh……」


 しばし、ナイが呪文を唱えマイゼルが真剣な表情でそれを書き写していた。

 一段落したところでナイはふっと息を吐き、マイゼルの手元を覗き込んだ。


「よし、それじゃあちゃんと書き写せてるかな?」

「ええ! もちろんです」


 マイゼルは自信満々に書き写した呪文を見せた。そこには


『ふっかつのじゅもん:いあいあ くとぅるふ ふたぐん ふんぐるい むぐるうなふ……』


 と書かれている。

 ナイはそれを見てうなずいた。


「そっかー。全部ひらがなだとこうなるかー。何も間違ってないんだけどなんか一昔前のセーブデータみたい」

「どういうことです?」


 マイゼルが首をかしげたので、ナイは首を振った。


「ああ、伝わんないからいいや。これに関しては君は何も間違っちゃいない。とりあえずまあ……大きな問題はないから、このまま呪文を写すの続けて」


 そうして、しばし二人は呪文やこの世界の知識で記せるレベルの内容について魔術書に書き続けた。

 やがて、夜明けも近くなった頃、とりあえずいちおう魔術書という体裁が取れた何かが完成した。


「おお……! これが邪神の叡智の記された魔術書……!」

「なんかこんなに疲れたの初めてだよ……じゃあ、あとはこれを知識を求める人々に広める作業をしようか」


 ナイがそう言うと、マイゼルは首をかしげた。


「だいたいみんなひらがな読めませんけど」

「識字率!」


 ナイは頭を抑え、夜明け前の闇に吠えるように嘆いたのだった。

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