第十四手 大人が泣く意味
「ただいま…………」
その日の晩。彼は消え入りそうな声で、その玄関を潜った。
腰掛け、靴を脱いでいる時に、軽い足音が背中に近付く。
「お父さん。遅かったね?
電話だと晩ご飯だけ、外で食べるって、言ってたのに
………お酒………飲んでるの? 」
パジャマ姿の由紀が、少し怒ったような口調でそう言って、父親の鞄を持つ。
「俺が、飲んで帰っちゃ、文句があるってのか? 」
「え⁉ 」
自分が、知っている人物から返ってくるであろう答えや言い訳とは、全く違った返答に、由紀は、ただただ、驚き動きを止めた。
顔は見ずとも、彼もまた、愛娘の事をずっと知っていた。自分が、今その娘に何て事を口走ってしまったのだろうと、後悔の念がすぐに追いかけてくる。
彼は、首を横に振ると
「ごめん、由紀。
……………水を一杯………持って来てくれないか? 」
と、続けた。
由紀は何も言わず、鞄を居間に持って行く。
すぐに水道から水が出る音が、玄関にまで聞こえた。
その間に、父親は数時間前に、最も信頼していた自分の会社。そして、上司から言われたその鮮烈な言葉を思い返していた。
――――
「いらっしゃいませ~」
暖簾を抜けると、そこは見た事も無い場所だった。
店内に決して小さくない池があり、そこを橋で渡るとカウンターが見える。
周囲には、上品な三味線と鼓、尺八の音
「す、すごいお店ですね、課長。
本当に、こんな所で、ご馳走になっていいんですか? 」
少し、前方を歩く上司は、彼の表情を伺わずに頷く。
「大将。アワビと、マグロ、あとエンガワ。こっちにも同じのを。」
カウンターに座ってすぐ、上司の口から出た高級食材の名の数々に、思わず彼は背筋を伸ばした。
「か、課長。本当にいいんですか? 」ボソッと耳元で囁く。
「構わんって。ほら、苫米地、お前も好きなの食いや。
大将‼ イセエビと、トラフグも、追加で。」
「でも今日は、どうしてこの様な場所に、私なんて誘って下さったんですか? 」
一通りの注文を平らげた後、彼は、ずっと不思議に思っていた疑問を口にした。
それを聞くと、上司は「うん……」と小さな呟きを残し、残っていたアナゴの握りを口に放り込む。
もぐもぐと、咀嚼する時間。
由紀の父親にとっては、やけに胸騒ぎを覚える時間。
上司にとっても、胸中に寄せては返すその感情を整える時間。
やがて
それに、頷くと上司は、いつもとは違う、真剣な眼差しで、由紀の父親を見た。
「突然で悪いんじゃがな。苫米地。
お前には当社の系列の会社に移ってもらいたいんじゃ。」
「え⁉ 」
彼は、思い、理解するよりも先にその言葉が出た。
「新潟でな。ここよりも米が美味いらしいぞ。」
「ま、待って下さい、課長‼
私は、娘が居るし………異動は県内に頼んでいた筈で……や、そもそも、当社の系列とは言っても、私の専属部署は我が社にしかない筈で………」
彼の必死な………いや、これは戸惑いの言葉だ。
上司も、これを伝えれば、彼がこの様な反応を示す事も想定していた。
だからこそ。
ここからは、一社会人として。
会社の為に。
己の為に。
上司は、言った。
「なぁ、苫米地。
この話は、お前にとっても、会社にとってもいい事なんじゃ。」
それを聞いて、由紀の父親は、言葉を下げ、その話を聞く。
「お前も、この土地を離れた方が良いと思うんじゃ。ほら………やっぱり、あ~いう事もあったしのぉ………
そんで、うちも、今時代の流れに置かれ気味での………そろそろ、若手を育てて……いや、それよりも、事業を縮小しよう、言う話も出とっての………
この方が………
お互いに、のびのびと仕事が出来るんじゃなぁかの? 」
しかし、それを聞く彼は首を横に振り続ける。
「そんなっ…………
む、娘も中学にあがったばかりで……
そ、それに……俺はこ、この仕事が好きなんです……
お願いします。課長‼ 考え直すよう上の方々に……」
「皆なんじゃ‼ 」
その言葉をかき消す様に上司が怒鳴る。
カウンター周囲の店関係者や、周囲の客が何事かと、そちらに視線を向け、店内の空気が止まる。
「皆………
お前が居ると、あの事で、気を遣って仕事にならん、言うとんじゃ。
じゃから、上の奴らの指示じゃない………
わしらから、上の者に、頼んだんじゃ。
苫米地を、
「そ…………ん…………な…………」
それを言うと、呆然としている彼に目もくれず、上司は立ち上がり、支払いに向かった。
「引っ越し代や、向こうの住む所も、会社が手配しちゃる。お前に損のない様にな。それが、わしがしてやれる精一杯なんじゃ。解ってくれえや。」
そう言って、去っていく上司を
由紀の父親は、定まらぬ焦点の瞳で、見送る事しか出来なかった。
―――――――
「お父さん………お水………」
小さな手から受け取った、グラスに口を付けると。
「お父さん? 」
彼の瞳から、悔し涙が落ちた。
「由紀…………父さん、会社異動になりそうなんだ。
広島から引っ越さなきゃいけん………
ごめんな。由紀、中学校行き始めたばかりなのに………」
再度、書かせてもらおう。
由紀は聡明な子だ。
だからこそ、この言葉に加えられた、今まで、見た事も無かった父親の涙の意味も、彼女は理解出来た。
いや、違う。
聡明な事など関係のない事だ。
これは、彼女が父親の事を、家族の事を本当に想っていたからこそ。
「いいよ。お父さんと一緒なら、私はどこにでも行く。」
ゆっくりと………
大きくなった娘が、小さかったあの頃の様に、胸に寄り添ってくる。
その温もりは、決して忘れれぬものとなった事だろう。
その夜、父親の泣く声を由紀は、初めて聴いた。
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